クン
Kun Béla
生没年:1886-1939
ハンガリーの政治家。トランシルバニアの村役人の家に生まれ,1902年社会民主党入党。大学卒業後新聞記者となる。第1次大戦下で出征,1916年にロシアの捕虜となり,トムスク収容所で感化されてボリシェビキとなる。17年末にペトログラードへ,ついでモスクワへ行き,レーニンとも接触。18年3月ハンガリー人共産主義捕虜組織の議長。同5月共産主義捕虜国際連盟議長。同年夏から革命干渉軍と戦う。18年11月ハンガリーへ帰り,共産党を組織,時のカーロイ政権の政策を批判。19年2月他の共産党員とともに逮捕・投獄された。しかし3月21日,カーロイ政権が崩壊すると,社会民主党左派と共産党の合同を成立させて,権力を掌握,ハンガリー・ソビエト(トナーチ)共和国を樹立。同共和国の外務人民委員となり,その実質的指導者となるが,講和問題に苦心し,農業の性急な社会主義的大経営化により農民を離反させた。19年8月31日フランス軍に支援されたルーマニア軍の攻撃により,共和国が崩壊すると,ウィーンに亡命。20年にソ連へ行く。ブハーリンらの左派ボリシェビキと親交。21年3月のドイツ革命の指導にあたるが失敗した。21年からコミンテルン執行委員(-1936)。25年8月ウィーンでのハンガリー共産党第1回大会に出席,ランドレル派と対立。30年ソ連で開かれた同第2回大会では,統一戦線的なルカーチの〈ブルム・テーゼ〉を批判,一貫してプロレタリア独裁論を説く。30年ころからハンガリー・ソビエト期の諸政策がコミンテルンで批判される。35年のコミンテルンの人民戦線政策への路線転換に反対。スターリンの粛清に遭うが,56年に名誉を回復された。
執筆者:南塚 信吾
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クン
Kun Béla
[生]1886.2.20. トランシルバニア,シラージチェ
[没]1939.11.30頃.ソ連
ハンガリーの革命運動家,国際共産主義運動の指導者。ベーラ・クンとも呼ばれる。ユダヤ系中間層の出身でコロスワール (現クルージナポカ) の大学を卒業。在学中からトランシルバニアの社会民主党の組織化や労働運動に従事,のちにブダペストで社会民主党機関紙の記者となった。第1次世界大戦にはオーストリア軍人として出征,ロシア軍の捕虜となり,1917年ロシア革命に遭遇,ボルシェビキ党に入党。休戦直後ハンガリーに帰国し,共産党を創立。 1919年3月 21日,社会民主党と協力してカーロイ政府を打倒し,ソビエト政権を樹立した。しかし過激な政策によって農民や中間層の不満を買い,さらにルーマニア軍の武力干渉を招いて,同年7月 31日辞職,まずウィーンに,次いでモスクワに亡命した。コミンテルンの依頼により,1921年3月ドイツ共産党の蜂起を指導したが失敗,レーニンに批判された。以後コミンテルン・バルカン書記局で活動。 1936年内乱下のスペインに派遣されたが,まもなくモスクワに戻され,大粛清の犠牲となった。
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クン
ハンガリーの政治家。第1次大戦でロシア軍に捕らえられて共産主義者となり,帰国後1919年革命を指導してハンガリー・ソビエト政権を樹立。1920年敗れてロシアに亡命,コミンテルン執行委員となったが,1935年の人民戦線政策への路線転換に反対し,スターリンによる粛清で処刑された。1956年名誉回復。
→関連項目バラージュ|ホルティ|ラーコシ
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クン
Béla Kun
1886~1939
ハンガリーの政治家。ジャーナリストであったが,第一次世界大戦中ロシア軍の捕虜となって共産主義者となり,帰国。1918年10月に成立したカーロイ政権の崩壊を受けて19年3月にハンガリー・ソヴィエト共和国を樹立した。列強と周辺諸国の介入などにより同政権が19年8月に崩壊したあとは,ソ連に亡命してコミンテルンの活動に従事したが,30年代後半の粛清に巻き込まれ処刑された。
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世界大百科事典(旧版)内のクンの言及
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