クルド(読み)くるど(英語表記)Kurd

翻訳|Kurd

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クルド」の意味・わかりやすい解説

クルド
くるど
Kurd

イラン語の西北系に属するクルド語を母語とする民族。トルコ、アルメニアアゼルバイジャン、北イラク居住のクルマンジーと、イラン、イラクにまたがるクルディーとの両方言のグループに大別される。前者はトルコ語、アラビア語からの借用語を多く含むが、音声、形態の面では、より古い姿をとどめている。紀元前2000年ごろのシュメールの碑文にすでに、バン湖東方の民族として、カルダカの名で現れる。前1000年ごろにはクルティエとして知られ、前5世紀ごろのギリシアの軍人・歴史家のクセノフォンは、カルドコイの名でよんでいる。現在トルコではキュルト、アラブ圏ではクルド、イランではコルドと称されている。

 居住地の大半は山岳地帯で、ヒツジ、ヤギの牧畜、果樹、麦、米の栽培に従事するものが多い。地縁的性格の強い部族(アシーラ)をつくり、一族の長アーガーは、儀式・裁判の執行、成員からの罰金、アハティーという税金の徴収、外来者の接待を行い、その地位を長子が相続する。クルドの活動の具体的な記録が残っているのはイスラム期以降で、それ以前はゾロアスター教やユダヤ教を信奉していたらしい。イスラム化以後、彼らの大半はスンニー派で、神秘主義教団(タリーカ)のなかのカーディリーヤ(カーディリー教団)の影響を受けた。シーア派はおよそ3分の1である。初めアラブ系、ペルシア系王朝のもとで部族軍として使われていたが、10世紀にはディヤールバクルを中心とするマルワーン朝(983~1085)、アゼルバイジャンのラッワード朝(10世紀初頭~1071)を創設した。アイユーブ朝サラディンもクルドである。17世紀にオスマン朝とサファビー朝との間に国境が画定されてクルド地域が分断され、部族長による封建領主的な支配の小国家が群立するようになり、19世紀までその状態が続いた。部族制が残存したことは、19世紀末のトルコで305の部族名が確認されたことでも明らかである。20世紀に至って、トルコ共和国、パフラビー朝のイランが成立すると、この両国と、旧ソ連領のコーカサス(カフカス)、アルメニア、ジョージア(グルジア)、アゼルバイジャン、およびシリアに分割された状態が固定化し、各地で独立運動や反乱が続発するようになった。

 イランでは、第二次世界大戦後マハーバードにクルディスターン人民共和国がつくられたが、1年たたぬうちに瓦解(がかい)した。1979年のイラン革命の際、いくつかの党派が結成され、クルディスターンでの民族運動も活発になった。イラクでは、イギリス統治下にクルディスターン独立宣言(1919)が出されたが、ただちに弾圧された。共和制発足後は、憲法でアラブ、クルドの平等が認められ、クルド語の出版物も公認されたが、現在まで紛争は絶えない。とくに1990~1991年の湾岸戦争では、多数の難民が生じて深刻な問題となった。クルド語は固有の文字をもたず、文献は地域によって、アラビア、ペルシア、アルメニア、ラテン、キリル文字で表記されている。

[清水宏祐]

クルド人問題

中東の北方諸国から独立国家共同体(CIS)の一部共和国内にかけて住むクルド人にかかわる問題。クルドは山岳民族で、「現代世界で民族の自決、独立からとり残された地上最大の少数民族」といわれる。正確な人口統計はなく、2000万人から3000万人という推計があるが、トルコに最多の1200~1500万人、イラクとイランに各400~500万人、シリア100万人、CISのアルメニアとアゼルバイジャンに50万人など計約2500万人が妥当な数字であろう。ペルシア語系のクルド語を使い、スンニー派イスラム教徒が多い。中東ではアラブ人、トルコ人、イラン人に次ぐ第四の民族といわれるが、多数派民族集団を中心にした国民統合の結果、それぞれの国では少数民族の立場にあるため、国境を越えた民族の統一と自治や独立を要求し、政府と対立することが少なくない。1947年、ソ連軍のイラン侵入時、クルド自治共和国(首都マハーバード)をつくったが、わずか3か月で崩壊した。その後、各居住国で民族解放運動を続けるが、援助国の思惑に踊らされ、犠牲を強いられることも多い。1980~1988年のイラン・イラク戦争では、両国が相手国内のクルド人に反政府活動をそそのかし、停戦後イラクが化学兵器を使ったクルド掃討作戦を行った。1991年の湾岸戦争の戦中・戦後には、アメリカはクルド人に反フセイン闘争を呼びかけた。またアメリカはイギリス、フランスにも働きかけて同年4月、国連安保理でイラク北部のクルド地区へのイラク機の飛行禁止など一種の「解放区」としてクルド人を保護する安保理決議を採択。続いて1992年5月、同地区でクルド人によるクルド議会選挙が行われ、クルド自治政府も設けられた。その結果、議会も閣僚もライバル関係にある主要解放組織のクルド民主党(KDP)とクルド愛国同盟(PUK)が二分することになり、背後の支援組織であるイランのイラン・クルド民主党(KDPI)、トルコのクルド労働者党(PKK)の対立などから十分に機能しなかった。各居住国政府が分離・独立に反対、自治にも消極的ななかで、2003年のイラク戦争後の新体制づくりへの参加が期待されている。

[奥野保男]

『中川喜与志著『クルド人とクルディスタン』(2001・南方新社)』『勝又郁子著『クルド・国なき民族のいま』(2001・新評論)』『勝又郁子著『イラク わが祖国に帰る日――反体制派の証言』(2003・日本放送出版協会)』『川上洋一著『クルド人もうひとつの中東問題』(集英社新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「クルド」の意味・わかりやすい解説

クルド
Kurd

おもにトルコ,イラク,イラン3国にまたがる地域に居住する民族。政治的理由などによって統計にはっきりしたものがないが,人口は推定で各国にそれぞれ200万人,あわせて600万人以上に達するといわれ,その居住地はクルディスターンと呼ばれる。シリア,アルメニア共和国にも少数のクルドがいる。クルドという呼称は7世紀のアラブ征服期以降に出てきたものである。それ以前はカルダカ(前2千年紀のシュメール碑文),クルティエKurtie(前7世紀のアッシリア帝国期),カルダカイKardakai(前5世紀のアケメネス朝期)の名で知られていた。

 その民族形成は前2千年紀から前1千年紀のあいだに行われた。現在のクルディスターンに移住してきたイラン語派に属するメディア人と土着民のグティ族とが混血してクルド族の原型が形成されたといわれる。この後につづくアルメニア人,アッシリア,アラブなどのセム系諸民族,トルコ,モンゴルなどのアルタイ系民族の移住,侵入によって今日みられるクルド族の形質人類学的特徴--中背,茶色の髪と目,浅黒い顔色--ができあがった。

 クルド語はイラン系諸言語のなかで北西グループに属する。南西グループのペルシア語とちがって比較的よく古代・中世のイラン系言語の痕跡を残しているといわれる。クルド方言は3種に分かれる。第1はトルコ領内のワン湖西方のマラティヤディヤルバクルマルディンなどの地方で使われるザザZaza方言で,トルコ語の影響を著しく受けている。第2は,ワン湖の南からティグリス川の支流大ザーブ川以北にかけて使われるトルコのハッカーリーHakkārī方言とイラクのバフディナンBahdinan方言で,クルマンジーKurmanjīと称され北部方言に分類される。第3にクルディーと呼ばれる南部方言がある。これにはイラクのソラン方言,ババンBaban方言,イランのモクリー方言,アルデラーン方言が入る。このうちキルクーク,スレイマニエなどで使われるババン方言とウルミエ湖の南方で使われるモクリー方言にはアラビア文字で表記される文章語がある。1918年以来,イラクではババン方言が公用語の一つに認められている。

 クルド族の生業は山間部では遊牧,山麓の丘陵地帯,平原では農業である。半遊牧,都市で生活する者もかなりいるが,いかなる生活形態にあってもクルド社会は依然として部族的な紐帯を強く残しており,地域的な閉鎖性も各地にみられる。このためパン・クルド主義的な潮流があるにもかかわらず,実際の民族運動において組織上の大きな障害になっている。宗教は2/3の人たちがイスラムのスンナ派,ほかにシーア派(おもにイラン),アラウィー派,アリーを神格化する過激なシーア思想をもつアリー・イラーヒー派(アフレ・ハック派またはヤールサーン)の信者もいる。また神秘主義の影響も強く,カーディリー教団,ナクシュバンディー教団が有力である。

 クルド族は文化的・言語的な一帯性を古くからもつ民族であったにもかかわらず,その歴史はほとんど他民族に支配される従属の歴史であった。10世紀後半,アッバース朝の中央集権体制が崩れると,960-961年にハサンワイフḤasanwayh朝,983年にマルワーン朝というクルド系の地方政権が一時的にできるが,セルジューク朝の侵入によって短命に終わった。16世紀にクルディスターンはオスマン帝国とサファビー朝の戦場になったが,1639年のエルズルム条約によって西の2/3はオスマン帝国領,東の1/3はサファビー朝領に編入された。両王朝の支配下で半自治権を認められた七つの侯国ができたが,1837-57年のあいだに中央集権化政策によっていずれも取りつぶされた。

 20世紀に入るとクルド族の自治・独立を求める運動・反乱が起きてくる。オスマン帝国末期,スウェーデン大使を務めたクルドの知識人シャリーフ・パシャは第1次大戦を終結させるパリ講和会議が民族自決を認める方針を打ち出すと,1920年セーブル条約にクルド国家の建設を明示させることに成功した。しかし,23年,トルコ共和国大統領ケマル・アタチュルクがこの条約を破棄したため,このパン・クルド主義的な国家構想は幻に終わった。これに対してナクシュバンディー教団の教主シェイフ・シェヒート(シェイフ・サイード)が反トルコ革命的なクルド反乱を起こした。イランでも第1次大戦末期の無政府状態のなかでウルミエ湖西部に自治国家をつくろうとするシャッカク族のシムコの反乱が1918-22年に起きた。

 第2次大戦直後,ソ連軍の占領下にあったイランのクルディスターンで分離独立運動が組織され,46年1月22日から12月7日までクルディスターン民主党のもとでクルディスターン人民共和国が樹立された。しかし,この政権はソ連軍の撤退とともに瓦解した。イラクでは58年の革命のあとクルド人の自治権要求の声が高まり,61年以降,バルザーニーBarzānī(1902-79)に率いられた反乱が続いていたが,75年,一応の終結をみた。クルドの民族運動はナショナリズムの意識においても実際の運動面においてもトルコ,イラク,イランという国家の枠をこえて相互に連帯するという段階にまで達しているとは言いがたい。このためその民族運動は現代にいたるまで国際関係のパワーポリティクスに左右され,その犠牲になってきた。1979年のイラン革命とそれにつづくイラン・イラク戦争(1980-88)ではイラクはイランのクルド人勢力,イランはイラクのそれにそれぞれ肩入れして戦局の展開をはかったが,自国のクルド人に対しては化学兵器などを使って徹底的に弾圧し虐殺事件をひきおこした。

 1991年の湾岸戦争においてイラクのクルド人は多国籍軍の支援をうけて反乱をおこし,北部地域に多国籍軍の庇護のもとに事実上の独立領土とも言えるものをつくりだしたが,事態はなお流動的である。トルコでは1990年代以降,アナトリア南東部に拠るクルディスターン労働者党(PKK)が反政府活動を活発化し,ケマル・アタチュルク以来のトルコの国家体制を重大な岐路に立たせている。
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百科事典マイペディア 「クルド」の意味・わかりやすい解説

クルド

おもにイラン,イラク,トルコにまたがるクルディスターンと呼ばれる山岳地帯にすむクルド語を話す人々。推定人口2000万〜2500万人。多くは半遊牧民で,スンナ派ムスリム。第1次大戦の戦後処理のなか,クルド国家の建設をめざす動きがあったが認められず,居住地を分割された。各国で少数派となり,その民族的権利や独立を求める動きは〈クルド問題〉として中東近・現代史の大問題となってきた。イランでは1946年にクルディスターン共和国を宣言(翌年崩壊),その後も自治要求が続くが,パフラビー朝下,イラン革命後も鎮圧され続けている。イラクではクルディスターン民主党(KDP)を中心として闘争が続き,1970年政府と自治協定を結んだ。KDPとクルディスターン愛国同盟(PUK)との利害対立があり,1994年以降両組織の抗争が行われたが,2005年1月のイラク国民議会選挙ではクルド人勢力が275議席中75議席を獲得した。トルコは1924年の共和国建国以来,クルド問題は存在しないとして彼らにトルコへの帰属意識を植えつけようとしてきた。しかしクルディスターン労働者党(PKK)などによる反政府テロを含め,激しい武力抗争が続いた。逮捕されたPKK党首オジャランは1999年死刑判決を受けた(2002年終身刑に減刑)。
→関連項目アルメニア(国)イラクオジャランキルクークケルマーンシャートルコモースル

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知恵蔵 「クルド」の解説

クルド

国家を持たない世界最大の民族。トルコ南東域からイラク北部の山岳地帯を中心に、イラン北西部、シリア北東部、アゼルバイジャン他を含め、推計2500~3000万人が暮らす。母語はインド・ヨーロッパ語系のクルド語だが、地域による方言の差が極めて大きく、共通の文字も持っていない。宗教もイスラム教スンニ派が7~8割を占めるが、シーア派、アレヴィ派、更にキリスト教、ヤズディ教などの信者も多く、また地域や部族ごとの習俗・独立性を重んじる伝統も強い。独立国家建設がクルド人の悲願とされるが、こうしたことから、共通の民族文化や統一的な国家観で結集するのは難しいという現実がある。クルド人は10~11世紀に独自の王朝を建て、13世紀以降はオスマン帝国 (オスマントルコ)の領内に居住していた。しかし1922年のオスマン帝国滅亡後、西欧列強が引いた国境線によって分断されることとなる。
イランでは、第2次世界大戦後の45年12月、ソ連の支援の下、マハバド(イラン北西部)にクルディスタン人民共和国を樹立したが、ソ連撤退後にイラン軍の侵攻を受けて崩壊した。単一民族国家をうたうトルコでは、クルド人が2割以上を占めるにもかかわらず、同化政策の下、今世紀初頭までクルド語の使用や民族衣装の着用も制限されていた。このためアブドラ・オジャランを指導者とするクルド労働者党(PKK)が、武力による過激な反政府・独立分離運動を繰り返してきた。PKKは国内外からテロ組織に指定されているが、ここ数年は路線を軟化させている。
イラクやシリアでも、クルド人は不平等な扱いを受けてきた。とりわけフセイン政権下のイラクでは、88年に約3千人のクルド人が化学兵器(毒ガス)によって虐殺されるという事件(ハラブジャ事件)が起こっている。民族浄化がねらい、あるいはイラン陰謀説などもあるが、しばしば「クルドの悲劇」を象徴する事件として語られる。その後92年、イラクのクルド人は北東部にクルド自治区を設立し、2003年のイラク戦争後は大統領を選出する自治政府へと格上げさせていった。現在、キルクークの石油や「第2のドバイ」と呼ばれるアルビルの商業を中心に経済基盤の整備も進めている。

(大迫秀樹 フリー編集者/2014年)

クルド

イラン、イラク、シリア、トルコ、アゼルバイジャン、アルメニアの国境地帯は、クルド人の土地クルディスタンとして知られる。総人口約3000万と推定されるクルド人は独自の言語、文化を誇る民族ながら、上記の各国に居住地を分断され、いずれの国においてもマイノリティーとなっている。このクルドの人々の自治、独立を求める戦いは、外部勢力の思惑とも連動し、中東地域の大きな変動要因となっている。

(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)

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