日本大百科全書(ニッポニカ) 「クジラ」の意味・わかりやすい解説
クジラ
くじら / 鯨
whale
哺乳(ほにゅう)綱クジラ目に属する動物の総称。鯨類(げいるい)とも総称されるこの目Cetaceaのなかで、一般に体長4メートル前後以上の種類をクジラといい、それ以下の小形種をイルカとよんでいるが、その区別ははっきりしたものでなく、動物学的には両者に差はない。一生水中で生活し、陸上では生きられない。外形は魚に類似し、流線形で、頸(くび)は短く外見からは区別ができない。くちばしが伸びて口が大きく、鼻孔は頭頂に位置する。前肢は胸びれになり、後肢は退化して消失し、尾部は発達し、その先端の皮膚が水平に広がって尾びれとなっている。そのほかに背側の皮膚が隆起して背びれとなっている種類が多い。皮膚は肥厚し、体毛はハクジラ亜目ではまったく消失し、ヒゲクジラ亜目では口唇部に感覚毛としてまばらに残る。ハクジラ亜目の歯は、どの歯も形状が同じである同歯性で、オウギハクジラMesoplodon stejnegeriのように下顎(かがく)にわずかに2本しかない種類から、ハシナガイルカStenella longirostrisのように上下顎に合計220本も生える種類まで存在する。ヒゲクジラ亜目には歯はなく、かわりに口蓋(こうがい)にくじらひげというざるの役目をする特殊な口器が生じる。鯨類は全体に大形であり、最小種でも体長1.5メートル、最大種は34メートルに達する。
[大隅清治]
進化と系統
鯨類は現生の哺乳類ではカバにもっとも近縁であり、メソニックスMesonichsという小形で陸生の原始偶蹄(ぐうてい)類から5500万年前に分化したと考えられる。テチス海に注ぐ熱帯の河口で水に入って、貝類、甲殻類、魚類などを好んで食べるようになり、しだいに水になじみ、上手に泳ぎ、長く潜水できるように変化し、やがて鯨類が誕生したと推定される。鯨類は暁新世の初めに分化し、水生恐竜類の絶滅によってあいていた生態的地位(ニッチ)を埋めて、急速に進化を遂げ、漸新世中期までには大洋でも生活するように適応が進んだ。この時代の鯨類をムカシクジラ亜目Archaeocetiといい、いまから3000万年前にもっとも繁栄したが、中新世中期までに絶滅した。この亜目の歯は一般哺乳類と同じく44本で、生えている位置によって形状が異なる異歯性であった。鼻孔は吻端(ふんたん)に近く位置していた。また、この類は4科に分類され、そのなかのバシロザウルス科Basilosauridaeの種類はヘビのように細長く、12~21メートルの体長があった。
ハクジラ亜目のなかでもっとも古い化石種は漸新世中期に出現している。しかしハクジラ類の種類は中新世までは豊富でなかった。現生のハクジラ類の多くの科は中新世末期に出現している。一方、ヒゲクジラ亜目のもっとも古い化石は漸新世後期の地層から発見されているが、この仲間は鮮新世初期までに絶滅している。現生のヒゲクジラ類はこのセトセリウム科Cetotheridaeから分化した。鯨類の三つの亜目は同じ祖先から生じ、ムカシクジラ亜目からハクジラ亜目とヒゲクジラ亜目が生じたと考えられている。
[大隅清治]
種類と分類
現生の鯨類は分類学者により見解の相違があるが、82種が存在する。それらはヒゲクジラ亜目とハクジラ亜目に大分類される。ヒゲクジラ類はくじらひげを有し、動物プランクトンや群集性魚類をこれで漉(こ)して食べる。そのため口が大きく、体の5分の1から3分の1の割合を占める。頭骨は左右相称で、鼻孔は1対ある。体油は高級脂肪酸のグリセリンエステルからなる。ヒゲクジラ亜目には13種が現生し、4科6属に分類される。大形であり、最小のコセミクジラCaperea marginataでも体長6メートルに達し、シロナガスクジラBalaenoptera musculusの体長は34メートルが記録され、地球最大の動物である。コセミクジラを除いて、ほかのヒゲクジラ類はすべて捕鯨業の対象となってきた。1986年以来、商業捕鯨の対象となっていたすべてのクジラ類の種が、国際捕鯨委員会(IWC)によって捕獲を禁止されている。
一方、ハクジラ類の歯の形態は種により異なるが、一般に犬歯状の同歯性であり、餌(えさ)をとらえるか、あるいは生殖のための闘争の武器としての機能のみを有する。この類の主要な餌料(じりょう)生物はイカ類と魚類であり、ヒゲクジラ類に比して栄養段階が高い。頭部の割合は、マッコウクジラPhyseter macrocephalusを除けば、ヒゲクジラ類ほど大きくない。頭骨は左右不相称であり、鼻孔は左右の鼻道が合して1個となっている。体油の組成はヒゲクジラ類と異なり、高級脂肪酸のアルコールエステルである。ハクジラ類には69種が現生し、それらは10科33属に分類される。ヒゲクジラ類に比して多くは小形であり、最小のコガシラネズミイルカPhocaene sinusで最大体長1.5メートル、最大のマッコウクジラは20メートルの記録がある。ツチクジラBerardius bairdiなどの中形の数種が小型捕鯨業の対象となるにすぎず、またスジイルカStenella coeruleoalbaやイシイルカPhocoenoides dalliなどがイルカ漁業によって捕獲されるほかは、多くのハクジラ類は利用されていない。
[大隅清治]
分布と回遊
鯨類は体温が約37℃で、一定に保つことができるため、どんな水温の環境でも生活できるが、分布は種によりある程度定まっている。鯨類の大部分が海産であるが、インドカワイルカPlatanista gangeticaのように淡水だけに生活する種や、ラプラタカワイルカPontoporia blainvilleiやコビトイルカSotalia fluviatalisのように淡水にも汽水にも分布する種類、スナメリNeophocoena phocoenoidesのように沿岸性であるが、ときには淡水にも生活している種類、コククジラEschrichtius robustusやハンドウイルカTursiops truncatusのように沿岸性の種類、ザトウクジラMegaptera novaeangliaeやセミクジラEubalaena glacialisのように繁殖は沿岸近くで行い、ほかの季節は外洋で生活する種類、そしてナガスクジラBalaenoptera physalusやマッコウクジラのように外洋で生活する種類に至るまで、クジラ類の分布生態はさまざまである。またホッキョククジラBalaena mysticetusやイッカクMonodon monocerosは北極圏の海でのみ生活し、イシイルカやネズミイルカPhocoena phocoenaは冷水塊の中で分布し、ニタリクジラBalaenoptera edeniやマダライルカStenella attenuataは暖水塊にのみ分布する。一方、ナガスクジラやシャチOrcinus orcaは海洋のあらゆる水塊に分布し、生活圏がきわめて広い。マッコウクジラでは、成熟した雄は冷水塊にも暖水塊にも分布するが、雌と子は暖水塊でだけ生活する。ニタリクジラは南北両半球に同一種が分布するが、ネズミイルカは北半球の北部海域にのみ存在し、同属のメガネイルカPhocoena dioptricaは南半球の南部海域にしか分布しない。
ヒゲクジラ類は繁殖場、繁殖期と、索餌(さくじ)場、索餌期が大きく離れており、ホッキョククジラを除いて、繁殖場は中・低緯度海域にあり、繁殖は冬季に行われる。一方、索餌場はニタリクジラとコセミクジラを除いて高緯度にあり、索餌は夏季を中心としてなされ、その間を大きく回遊して生活する。たとえば、コククジラの東側系群の繁殖場はカリフォルニア半島南部の沿岸であり、索餌場はベーリング海から北極海にかけて存在し、その間の約2万キロメートルの長い道程を北アメリカ大陸の西岸沿いに毎年規則正しく回遊する。ホッキョククジラも回遊するが、たとえばアラスカ系群は冬季にはベーリング海にとどまり、春から秋にかけてベーリング海峡を通過してアラスカ北岸に移動するように、冷水塊内でのみ回遊する。ハクジラ類も季節的移動をして生活するが、マッコウクジラの雄を除いて、回遊はヒゲクジラほど顕著でない。
[大隅清治]
生態と生殖
クジラは尾と尾びれを上下に振って推力を出して水中を泳ぐ。セミクジラの最高遊泳速度は5ノット(時速約9キロメートル)であるが、シャチは30~40ノットの速力を出すことができる。またクジラは深く潜水でき、マッコウクジラでは3200メートルの記録があり、イルカ類でも数百メートル潜水できる。ヒゲクジラ類はハクジラ類ほど潜水深度は大きくなく、通常は100メートルより深くは潜水しない。鯨類は肺呼吸をするためにかならず水面に浮上するが、大形のマッコウクジラは90分間潜水できる。ヒゲクジラ類の潜水時間はハクジラ類に比して短く、1分ないし十数分間である。クジラの呼気を噴気または潮吹きといい、噴水のように水面から噴き上げる。噴気はシロナガスクジラでは6メートルもの高さとなり、これにより遠くからでもクジラを発見できる。
ヒゲクジラ類は単独または数頭の群れをつくる種が多いのに対し、ハクジラ類は一般に群集性が強く、スジイルカのような外洋性イルカ類ではときに1万頭以上の群れがみられる。またヒゲクジラ類は一夫一妻ないし多夫一妻の生殖生態を有するが、ハクジラ類ではマッコウクジラが一夫多妻制をもっとも発達させており、複雑な群れ構造をつくる。
鯨類の妊娠期間は長く、ヒゲクジラ類で10~12か月、ハクジラ類では短い種で9か月、最長のマッコウクジラで15か月である。通常1産1子。子は水中で尾から先に生まれるとすぐに泳ぐことができ、母親の乳首に舌を巻き付けて乳を飲む。哺乳期間はヒゲクジラ類で4~11か月であるのに対し、ハクジラ類では長く、数年に及ぶ種がある。性成熟に達する年齢は大形の種ほど大きく、3年から十数年である。社会制の発達したマッコウクジラでは、雄は25歳以上にならないと繁殖に参加しない。成熟したクジラの体長は、ヒゲクジラでは雄が雌より小さく、逆にハクジラ類は一般に雄が雌より大きく、とくにマッコウクジラでは性的二型が著しい。生殖周期はヒゲクジラ類では1~3年、ハクジラ類ではそれより長く、マッコウクジラは5年に及ぶ。一般に鯨類には更年期はないが、年齢が増加するにつれて生殖周期が伸び、ゴンドウクジラ属Globicephala spp.には更年期が存在する。鯨類の最長寿命は種によって異なり、イシイルカで35年、ナガスクジラでは110年、マッコウクジラで70年などの値が報告されている。
[大隅清治]
生理
水中は透明度が悪いので、鯨類は視覚よりも聴覚を発達させた。高周波の断続音を発して、その反射音により物体の性状と距離と方向とをとらえる反響定位(エコロケーション)と、連続音による仲間とのコミュニケーションが優れている。また鯨類は水中で一生を送るため、空気の層をつくって保温する役目の毛は水中では役にたたずに消失し、かわりに皮膚を厚くし、その中に断熱材としての脂肪を蓄える。水の空気中での気化熱を利用する体温調節機構である汗腺(かんせん)も水中では役だたずに退化した。
これにかわる機構として、ひれの表面下に特殊な構造の血管が走り、これを拡張したり収縮したりして、体温の調節を行う。筋肉は赤く、とくにハクジラ類の筋肉は黒色に近い。これは筋肉中に多量のミオグロビンが含まれているからである。呼吸の際に血液中のヘモグロビンだけでなく、筋肉中のミオグロビンにも酸素を蓄え、潜水時にこれらの酸素を使ってエネルギー代謝を行うため長時間の潜水が可能である。潜水中は心拍数を海面での数分の1と極度に抑えて、血液の循環を少なくし、血液中の酸素の消耗を防ぐ。また鯨類が潜水病にならないのは、潜水夫と異なり水中で空気の補給を受けないので、血液に溶け込んだ過剰な窒素が、浮上の際の気圧の減少によって気泡となって毛細血管をふさぐことがないからである。鯨類の腎臓(じんぞう)は大きく、しかも小腎というたくさんの小さな分葉からなるので尿の生産機能が高く、多量の尿をつくって、体内の塩分排出に役だっている。
[大隅清治]
人間生活との関係
鯨類は大量の肉や油を産するので、人類は太古から捕獲し、これを種々の用途に利用して生活に役だててきた。とくに日本人はエスキモーと並んで鯨食文化を築いてきた。なお、食品以外のクジラの利用については、「捕鯨」の項で述べる。
1970年代からは自然保護運動のなかから鯨類を殺さずに利用する低消費型利用の思想が生まれている。水族館における鯨類の展示やショーをはじめ、自然の海の中で泳ぐクジラの観賞(ホエールウォッチング)や、クジラの鳴音(めいおん)のレコード、CD(コンパクトディスク)や写真の出版などがその例である。さらに鯨類の海洋開発、軍事、レジャー、ヒーリング(癒(いや)し)などへの直接利用が研究されている。鯨類は間接的にも種々の人間活動に貢献している。たとえば漁業においては、魚群の指標となる。魚群は水面下にいるが、それと行動をともにするクジラは水面に浮上し、漁業者に発見されやすい。カツオ一本釣り漁業におけるニタリクジラ、キハダマグロ巻網漁業におけるイルカ群がその例である。地方によっては、イルカが魚群を浜へ寄せてくれるとして、ありがたがる。
一方、漁獲物を奪ったり、漁具を損傷したり、有用魚類を食害し、漁場で魚群を追い散らしたりして漁業の妨害をする。また逆に、人間の活動は鯨類の環境に悪影響を与えている。ダムの建設、海上交通の発達、工業、農業、海のレジャーの発達は、とくに淡水性、汽水性鯨類の生活を脅かしている。さらに漁業活動により付随的に鯨類を捕獲したり、鯨類の餌料生物を奪ったりしている。
[大隅清治]
食品
歴史
人類が有史以前からクジラを捕獲して利用していたことは、世界各地の貝塚からの出土品や原始画などによりうかがうことができる。日本は世界のなかでもくじら肉の利用度が高く、古くから勇魚(いさな)の名で魚として扱われてきた。『古事記』や『万葉集』に久治良、勇魚の字がみられる。和歌山県、高知県、長崎県、佐賀県などでは早くから食用とされていた。明治になると京阪神地方や東京でもクジラの料理は盛んになった。しかし、クジラの捕獲制限が世界的に行われ、肉の供給量が大きく低下しているので、クジラそのものの食用が減少している。
[河野友美・山口米子]
栄養・調理
くじら肉(赤肉)はタンパク質が多く、24%含まれる。これに対し脂肪は0.4%と少なく、タンパク質のよい供給源であった。畝須(うねす)(ヒゲクジラ類の腹側にあるしまのような切れ込みのあるところを畝といい、その畝と内部の肉質のこと。クジラベーコンにする部分)や尾肉(尾の身)は脂肪が多い。
くじら肉として用いられるのは赤肉がいちばん多く、そのほか黒皮、白皮、須(す)の子(畝の内側の結締組織の多い部分)、尾肉、尾羽(おば)(尾びれ)、かぶら骨(上あごの軟骨)、内臓(胃、腎臓(じんぞう)、小腸)、舌なども食用にされた。市販品はほとんどが冷凍で、一部には塩蔵あるいはベーコンに加工したものもあった。カツレツ、ステーキ、しょうがじょうゆのつけ焼き、みそ漬けや、そのまま刺身にして食べることもできる。尾の身は背びれから尾の付け根までの肉で、ちょうど牛肉の霜降り肉のように脂肪が多くて柔らかで、くじら肉のなかでは、いちばんおいしいといわれている。しかし、少量しかとれないので値段が高い。刺身やすき焼きなどにした。
かぶら骨は上あごの軟骨で、薄く切って水でさらし乾かしたものが売られていた。三杯酢で和(あ)えたり刺身のつまにする。これの粕(かす)漬けは松浦漬けといい佐賀県松浦の特産で、淡味で歯切れがよく、酒の肴(さかな)に好まれた。尾羽を薄く切ってゆでて脂肪を除き、冷水でさらしたものを「さらしくじら」といい、白い肉状の脂肪層に黒皮がすこしついている。関西地方では「おばいけ」「おばけ」ともいう。これを適当な大きさに切って熱湯でさっとゆでると脂肪が抜けて真っ白になるので、酢みそやからし酢みそ、あるいはみそ汁の実として用いた。煎皮(いりかわ)は「ころ」ともいい、クジラの皮の部分から脂をとって残りを乾かしたもので、さっと熱湯をかけて適当な大きさに切り、おでんなどの煮物に用いた。
くじら肉はミズナとよく味があうので、はりはり鍋(なべ)といってミズナとともに鍋物にされた。ミズナのできる関西、とくに京都、大阪の料理である。鍋に昆布を敷き、しょうゆで味をつけただし汁(八方(はっぽう)だし)を煮立たせ、その中にミズナとくじら肉を入れ、煮えたところから食べる。つけ焼きは、しょうゆに、ショウガ、ネギ、唐辛子などを加えた中にしばらくつけたあと、フライパンまたは網で焼く。
[河野友美・山口米子]
北方狩猟民とクジラ猟
北方の狩猟民では、アイヌ、コリヤーク、チュクチ、アリュート(アレウト)、エスキモーなどがクジラ猟の伝統をもち、このなかでもエスキモー、とりわけ北アラスカのエスキモーにとって、クジラ猟は彼らの経済、社会、精神生活の焦点となる重要な生業活動となっている。ここでは、基本的には社会が親方(ウミアリク)の配下にあるクジラ組を単位として構成され、猟の成否が住民の最大の関心事であることはもちろん、各人の社会関係にまでも大きな影響を及ぼしている。この地方では、4月に入ると着岸氷が緩んで開水路ができ、そこをクジラが北上してくる。そこを氷縁から皮張りの大型ボート(ウミアック)でこぎ出し、銛(もり)でしとめて網で引き上げるという捕鯨を行う(太平洋エスキモーやアリュートではトリカブトの毒を使ってクジラをとり、その揚陸は人力ではなく、風や潮などの自然力に任せる)。
毎年3月に入ると、クジラ猟の準備が開始され、男たちはまずクジラ組ごとに専用の集会所にこもり、ほかの仕事をすべてやめて猟の準備に集中する。とくに直前の4日間は、軽率な行動や男女の交わりが禁じられ、食事もカリブーの髄や雌のアザラシの心臓を食べるのを禁じるなど、厳しいタブーが課せられる。女たちも、猟に出る男の衣服や船の皮を新調するなどして手助けするが、月経期の女だけは特別につくられた氷の小屋に隔離され、クジラ猟に参加する男の家に入ることをタブーとされる。
猟の最中には、おのおのの船に乗った呪師(じゅし)(カークリク)がクジラを招き寄せ、猟を容易にするための呪歌を歌う。また甲虫、カラスの皮、クジラのひげでつくった海獣の人形などの呪具を入れた箱を船に乗せるが、これらも呪歌と同様の効果をもつと考えられている。揚陸されると、親方の妻がクジラに水を注いで歓迎の意を表し、その場ですぐ解体したのち、村中に肉が分配される。最後にはクジラ組が野外に一堂に会し、組対抗のスポーツ(レスリング、トランポリン、綱引など)や贈り物の交換を行うが、こうしたさまざまな儀礼の根底には、しかるべき儀礼の手続を踏んでタブーが守られるならば、クジラは自ら進んで人間に捕獲されるためにやってくるという、北方狩猟民に共通の観念がみられる。
[岡 千曲]
民俗
日本の漁村では、クジラがえびす(恵比須)として信仰の対象となっている場合が多い。それは、クジラをとる立場からではなく、クジラがイワシやそのほか群集性の魚を沿岸に追い込んでくれ、それが漁民に大漁をもたらすからである。またクジラは、「一頭とれば七浦にぎわう」といわれたとおり、利用価値の高い、しかも温血の動物であるから、これに感謝しその霊を弔う気持ちも強かった。各捕鯨地にはクジラの墓や供養塔があり、全国では100以上に達する。えびす様として信仰したため、クジラが漂着した場合でも供養が行われた。なかには戒名を授けられたものもあり、とくに胎児は丁重に葬られた。各地に伝わるクジラの伝説には、「夫婦クジラの神参り」と「はらみ(孕み)クジラの願い」に関するものが多い。前者には、紀伊大白(おおじろ)浜に伝わる伊勢(いせ)参りの夫婦クジラの話などがある。その内容は、竜神が年老いた夫婦クジラに伊勢参りを許すが、漁民が約束を破り、これに銛(もり)を何本も打ち込む。クジラはかろうじて逃げ去るが、その晩に大暴風雨と大津波が村を襲い、村は見る影もなくなる、というものである。一方、「はらみクジラの願い」は次のようである。捕鯨を行う前の晩に、美しい娘が漁師の夢枕(まくら)に立つ。娘は自分がクジラであり妊娠しているので、あした沖を通るが見逃してほしい。子供を産んでしまえば進んで漁師の手にかかるからと嘆願する。たまたまその年は不漁であったため、漁師はその約束を破って殺してしまう。そのため、のちに大きな祟(たた)りを受けるという話である。
[大村秀雄]
『シュライパー著、細川宏・神谷敏郎訳『鯨』(1965・東京大学出版会)』▽『西脇昌治著『鯨類・鰭脚類』(1965・東京大学出版会)』▽『大村秀雄著『鯨の生態』(1974・共立出版)』▽『A・マーティン編著、粕谷俊雄監訳『クジラ・イルカ大図鑑』(1991・平凡社)』▽『大隅清治著『クジラのはなし』(1993・技報堂出版)』▽『谷川健一編『鯨・イルカの民俗』(1997・三一書房)』▽『笠松不二男著『クジラの生態』(2000・恒星社厚生閣)』▽『小松正之著『クジラ その歴史と科学』(2003・ごま書房)』▽『小松正之著『クジラ その歴史と文化』(2005・ごま書房)』▽『大隅清治著『クジラと日本人』(岩波新書)』