ギニア(英語表記)Guinea

翻訳|Guinea

精選版 日本国語大辞典 「ギニア」の意味・読み・例文・類語

ギニア

(Guinea)
[一] アフリカ西部、大西洋岸の地域の総称。広くはモロッコ南部からアンゴラ南部までを、狭くはギニア湾に面する地域をさす。一六世紀から一九世紀にかけてヨーロッパ諸国の貿易港が開かれ、交易商品の種類により穀物海岸象牙海岸、黄金海岸、奴隷海岸などの名が付けられた。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「ギニア」の意味・わかりやすい解説

ギニア
Guinea

基本情報
正式名称ギニア共和国République de Guinée 
面積=24万5857km2 
人口(2010)=1054万人 
首都コナクリConakry(日本との時差=-9時間) 
主要言語=フランス語,マリンケ語,フルフルデ語,スス語ほか 
通貨=ギニア・フランGuinea Franc

西アフリカの南西端に位置する共和国。国土の西部は大西洋に面しているが,北はギニア・ビサウセネガル,マリと,東はコートジボアールと,南はシエラレオネ,リベリアとそれぞれ国境を接している。この地方が,さらに東のギニア湾に沿ったギニア地方の名にちなんで,ギニアと称されるようになったのは比較的新しく,1890年以後のことである。

大西洋に面した海岸線は,出入りが複雑で,かつ低湿なためマングローブが繁茂している。この海岸線から内陸に向かって,ギニアはその地勢と自然条件によって,大きく4地域に区分される。(1)海岸線につづく幅50~90kmの海岸平野は,低ギニアと呼ばれ,典型的な熱帯雨林地帯となり,年降水量は3000mmにも達する。(2)その内陸につづく中部ギニアは,平均標高900mのフータ・ジャロン山地からなる高原地帯である。この高原は約8万km2にもわたって広がっており,西アフリカ西部の内陸部と海岸地方との分水界をなしている。(3)ギニアの北東部は,草原と低い樹木によって占められたサバンナ地帯である。この地域は高ギニアと呼ばれ,この地を横切るティンキソ川をはじめ,西アフリカの長流ニジェール川の上流をなすいくつかの川の流域となっている。(4)南部ギニアはシエラレオネとリベリアとの国境地帯にあたり,花コウ片麻岩などからなる急峻な山地で,熱帯雨林におおわれている。この地方の最高峰は南東国境にある標高1768mのニンバ山であり,付近は年間2200mmに達する降水量を示す。

 一年は雨季と乾季に分かれる。雨季は4月ころから11月ころまでつづき,あらしをともなった雨が集中的に降る。乾季にはサハラ砂漠方向からの乾いた熱風(ハルマッタン)が吹き,気温も高くなる。
執筆者:

ギニアの行政区分はほぼ地理的区分に沿って4区分され,住民のおもな分類もそれにしたがっている。海岸平野の低ギニア地域には,北からヨラ族,ナル族,バガ族,スス(ソソ)族が居住し,低湿地で稲作を行っている。首都コナクリとその北東の都市キンディアの住民は,マンデ系のスス族である。バガ族,ナル族や,ボケ近辺に居住するランドゥマ族は,言語的には大西洋岸West Atlantic語群に属し,セネガル共和国やガンビア共和国のセレル族,ウォロフ族と近縁である。

 中部のフータ・ジャロン山地には牧畜民のフルベ族(フラニ,プール)のほか,トゥクロール族やマンデ系のジャロンケ族が居住する。さらに北にはコニアギ族とバッサリ族が居住する。北東部の高ギニア地域にはマンデ系のマリンケ族が居住し,ニジェール川上流部で稲作農耕を行っている。

 南部のシエラレオネ共和国,リベリア共和国,コートジボアール共和国と境を接する森林地域はコーヒー栽培地帯であるが,キシ族,トマ族,マノン族,ゲルゼ族などの部族が居住している。公用語はフランス語であるが,そのほかおもな住民の言語人口は,マリンケ語が40%,フルフルデ語(フルベ族)が30%,そしてスス語が23%を占めている。スス族,フルベ族そしてマリンケ族は他部族にくらべて人口も多く,重要な部族となっている。

 住民の90%はイスラム教徒であるといわれている。この地域にイスラムを持ち込むにあたり,フルベ族が重要な役割を果たした。フルベ族は一般に牛を飼う遊牧民として知られている。サハラ南縁のマリ,ニジェール,ナイジェリアカメルーンなどに広く分布しているが,言語的には西アフリカ西端の大西洋岸語群とつながりがある。フータ・ジャロン地方には,17世紀にはイスラム化したフルベ族が移住しており,かなり定住的な生活を行っていた。18世紀に入るとフルベ族はジハード(聖戦)を起こし,ティンボを首都とするイスラム国家を形成し,この地方は西アフリカのイスラムの中心となった。19世紀にはトゥクロール族のハジ・ウマルが立ち上がり,セネガンビア地方からさらに東のニジェール川流域地方へと進出して,広大な領域を持つイスラム国家を形成した。ついで19世紀末にはマンデ系のサモリ・トゥーレが出てサモリ帝国を形成し,当時進出を開始したフランス植民地勢力に抵抗した。サモリは現在でも国民的英雄として愛されている。イスラムが普及しているとはいえ,なお伝統的生活様式も村落部では強く残っており,その事情はマリンケ族出身のカマラ・ライエCamara Laye(1928-80)の自伝的小説《黒い子》(1953。邦訳《アフリカの子》)にもうまく描かれている。グリオと呼ばれる口頭伝承を語る吟遊詩人や呪術をつかさどる鍛冶師が,社会生活において重要な役割を担っている。割礼をともなう成人式の儀礼も広く行われている。

 政府は教育制度の整備に熱心であり,1968年から八つの部族(スス族,マリンケ族,フルベ族,キシ族,ゲルゼ族,トマ族,バッサリ族,コニアギ族)の言語を国語として,そのアルファベット化もはかり,教育にとり入れようと努めている。
執筆者:

現ギニア領の内陸は,判明している最も古い時期にはガーナ王国の領土であり,13世紀には,これを滅ぼしたマリ帝国の版図に入った。マリ帝国が15世紀に衰退した後には,ニジェール川中流にソンガイ帝国ほかいくつかの諸王朝の興亡がみられた。中部ギニアのフータ・ジャロン地方では18世紀に入ると,北方から移住していたフルベ族が急速にイスラム化し,周辺のマリンケ族を征服して一種の奴隷制の王国をつくりあげた。19世紀にはマリンケ族のサモリ・トゥーレが高地ギニアとマリ南部を平定,ビサンドゥグに首都を置くサモリ帝国が1870年に成立した。帝国は80年代末に最盛期を迎え,当時侵略を本格化したフランス軍と戦った。サモリはフランス軍の攻撃が激しくなった91年以降,軍隊,住民を率いて移動しつつ抵抗,フランス軍を悩ましたが,98年ついに敗走,逮捕され,2年後に流刑地のガボンで死去した。

 ヨーロッパ人が最初にギニア地方に現れたのは,15世紀のポルトガル人の来航であったといわれる。この地方の分割戦が本格化するのは18~19世紀であり,イギリス,ポルトガル,フランスが貿易の独占を目ざして争ったが,最終的に1882年にフランスがギニア地方を自国領とした。当時ギニア地方はセネガル総督の下に置かれ,その沿岸地帯は〈南部河川地方Rivières du Sud〉と呼ばれた。95年,フランス領西アフリカ連邦の一構成領土となり,現在の版図がほぼ確定したのは99年である。しかしフランス植民地化への抵抗は激しく,サモリとの16年余の戦いの後も,辺境地帯では幾度も討伐作戦が行われた。ゲルゼ族の反乱を鎮圧した1911-12年の討伐がようやく最後のものとなった。ギニアで民族運動が再び活発となるのは,他のフランス領西アフリカ同様50年代である。1947年,アフリカ民主連合の支部ギニア民主党(PDG)が結成され,郵政職員出身でサモリの曾孫セク・トゥーレが書記長に就任した。PDGは急進的な主張を掲げ農村にも浸透した。58年9月のフランス第五共和政憲法下の住民投票で,ギニアは同憲法を拒否し,同年10月2日,唯一完全独立を選択,トゥーレが首相の地位についた。

唯一の政党PDGは児童を除く全国民が加盟し,アフリカで最も強力な組織をもつ党の一つといわれ,トゥーレ・セク大統領がPDGの書記長を兼務した。フランスから独立したギニアは,独自通貨ギニア・フラン(現在の名称はシリsyli)を発行しフラン圏を離脱,経済面でも自立を強めた。外交的には非同盟を標榜したが,独立直後はフランスとの関係悪化のためソ連との結びつきを強めた。

 国内では農業集団化,流通国営化などの社会主義路線をとったが,生産の低下,インフレ,闇市,密貿易,汚職などに悩まされ,こうした経済不安を背景に大統領暗殺計画などの陰謀の摘発,粛清が繰り返された。また70年11月にはポルトガル領ギニア(現,ギニア・ビサウ)の解放運動を支援するギニアに,ポルトガル人と亡命ギニア人の傭兵が侵入,首都を脅かす事件が起こっている。ギニア政府はこれら諸事件の背後に外国の介入があったとアメリカ,フランス,西ドイツや近隣諸国を非難し,西側諸国との関係改善は70年代半ばまではかどらなかった。77年8月,物資の不足と経済警察の横暴への不満からコナクリの市場で暴動が発生,これ以降PDGは民間商業の復活,農業集団化政策の柔軟化等の国内経済自由化政策に転じた。外交面でも翌年,長く対立関係にあったコートジボアール,セネガル両隣国と和解,またジスカール・デスタン仏大統領をコナクリに迎え,以後西側諸国との関係緊密化に向かった。

 84年3月トゥーレが死亡し,ベアボギ首相が元首代行となったが,4月コンテ・ランサナ大佐Conté Lansana(1934- )による無血クーデタが起こった。コンテが大統領になり,PDGと国民議会は解散し,78年にギニア革命人民共和国と改めた国名をギニア共和国に戻した。
執筆者: コンテ大統領は89年10月,5年間の移行期間を経て民政移管すると発表。複数政党制,大統領の直接選挙などを盛り込んだ新憲法案は90年12月に国民投票で承認された。複数政党制で初の大統領選は93年12月にようやく実施され,現職のコンテが当選,95年6月の総選挙でも大統領与党の統一前進党(PUP)が勝利した。
執筆者:

ギニアは低所得国に分類されるが,1人当りGNPは550ドル(1995)とサハラ以南アフリカの平均(490米ドル)を上回る。しかしGNPはアルミニウムの原料であるボーキサイトの生産に大きく依存しており,国民の生活水準はサハラ以南アフリカの平均に及ばない。経済の停滞のため約200万人が国外に流出しているといわれる。1995年のギニアの経済構造は,農業24%,工業31%,サービス45%とアフリカの他の国と大きく変わるところはない。しかし工業のうち製造業は5%にすぎない(サハラ以南アフリカの平均は15%)。これはギニアの工業がボーキサイト生産に偏っているためである。他方,労働人口の87%は農業部門に雇用されている(1995)。主要農産物は米,キャッサバ,トウモロコシ,バナナ,パイナップル,ヤシ核などである。

 ギニアは植民地時代には農業輸出地域であったが,独立後のトゥーレ・セク時代には鉱業開発が進み,世界有数のボーキサイト輸出国となった。反面,農業は衰退し食糧輸入国となった。また国民の貧困化が進んだ。植民地時代のギニアの生産構造は,自給的農業と,フランス人プランテーションとアフリカ人小農の換金作物栽培による輸出農産物生産からなっていた。主要輸出作物であったバナナの生産は,フランス領西アフリカ全体の8割を占めていた。第2次大戦後,世界の埋蔵量の3分の1を占めるといわれるボーキサイト鉱が注目され,フランス資本によって採掘が開始された。外交的孤立にもかかわらず,ボーキサイト開発およびアルミナ工場の建設は,政府と外資の合弁企業により着々と進展した。1978年にはボーキサイトの生産は約1200万tに達し,生産量のほぼ全量は輸出に向けられた。1960年には42対58であった鉱産物と農産物の輸出比率が78年には98対2となり,ギニアの輸出構造はボーキサイトに特化したものとなった。他方,製造業は独立以来みるべき発展をみせなかった。農村では社会主義的集団化,流通国営化の失敗のため輸出作物生産は低下した。また食糧生産も人口増加(年率3%)に追いつかず,目標とする食糧は達成できなかった。

 荒廃した経済を受け継いだコンテ政権は,社会主義経済を廃止して経済の自由化に踏み切った。具体的には,構造調整プログラムを導入して内外の規制緩和,為替の切り下げ,財政の引き締めを実施した。しかし既得権層の抵抗,生活苦に対する都市住民の不満の増大から改革の速度は低下している。これに民間投資の停滞,国際アルミニウム価格の低迷が加わり,経済は本格的な復興の経路にのっていない。1995年のギニアの対外債務比率は対GNP比が91.2%,財・サービス輸出比率が453.4%と低・中所得国平均(各39.6%,151.4%)を大きく上回る。他方,国民1人当りで換算すると65.6米ドル(1993)の公的開発援助を受け取っている。これはサハラ以南アフリカの平均35.7米ドル(1993)の2倍弱にあたる。1975年よりロメ協定に参加し,西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)に75年の創立時より加盟している。さらに80年よりリベリア,シエラレオネとのマノ川同盟(MRU)に加盟している。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ギニア」の意味・わかりやすい解説

ギニア
Guinea

正式名称 ギニア共和国 République de Guinée。
面積 24万5857km2
人口 1293万1000(2021推計)。
首都 コナクリ

アフリカ大陸西部の国。北はセネガル,マリ,東はマリの一部とコートジボアール,南はリベリア,シエラレオネ,北西はギニアビサオと国境を接し,南西は大西洋に臨む。沿岸部は高温多湿な海岸平野で熱帯雨林地帯。北東部のニジェール川上流域はサバナ,南東部はニンバ山 (1752m) を含む高地で,中西部に西アフリカの分水界をなすフータジャロン山地がある。年平均気温はコナクリで 26.7℃。年降水量は最も多い沿岸部で 4000mm以上。 15世紀,沿岸部にポルトガル人が来航,以後ヨーロッパの奴隷商人の寄港地となり,17世紀にはフランスとイギリスが支配権獲得をめぐり争奪,1849年沿岸部の一部がフランス領となったのをはじめ,1880年コナクリのあるトンボ島,1881年フータジャロン山地がフランス保護領となった。 1890年セネガルから分離して別の植民地となり,のちフランス領ギニアと改称,1895年フランス領西アフリカの一部となった。 1946年フランス海外領となったが,1958年9月の住民投票の結果フランス第5共和国憲法を拒否,同年 10月フランス共同体から離脱し,ギニア人民革命共和国として独立。 1984年無血クーデターにより現国名に改称。経済はかつては農業と牧畜に依存したが,1950年代に始まったボーキサイトと鉄鉱石の開発により大きく進展。輸出の大半は世界屈指の埋蔵量をもつボーキサイトと,その半加工品のアルミナで,ほかに鉄鉱石,金も産する。ボーキサイト鉱山はフリア,ボケ,キンディアなどにあり,鉄鉱石はリベリアとの国境のニンバ山と,コートジボアールとの国境に近いシマンドゥ山に豊富な鉱脈があり,1981年から外国資本による開発が進んでいる。農産物の輸出はコーヒー,バナナ,パイナップル,パーム核など。住民は沿岸部のスス族,山地部のフラニ族 (→フルベ族 ) ,北東部のマリンケ族,南部のキッシ族などが主。 80%以上がイスラム教徒で,ほかは部族固有の伝統宗教とキリスト教徒。公用語はフランス語であるが,現地語の使用が奨励されている。

ギニア
Guinea

アフリカ大陸西部,大西洋岸中部一帯を広くさす。明確な範囲はないが,セネガルのベール岬 (北緯 15°付近) から,アンゴラのモサメデス (南緯 15°付近) までの間に用いられる。そのうちカメルーンのカメルーン山とその沖合いのビオコ島 (旧称フェルナンドポー島) 付近を境として北西方を上ギニア,南方を下ギニアという。狭義には,リベリアのパルマス岬からガボンのロペズ岬にいたる沿岸をさすのが最も普通である。 14~19世紀には北回帰線から赤道までの西アフリカ一帯をさしたが,アフリカ沿岸の探検が進むにつれ,ギニアの範囲も変化した。この地域は高温多湿な熱帯雨林地帯で,13世紀以来,部族連合国家が栄えた。 15世紀からポルトガル,フランス,イギリス,オランダが進出し,奴隷貿易の中心地となった。奴隷海岸,黄金海岸,象牙海岸などの地名が残る。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ギニア」の解説

ギニア
Guinée

西アフリカの共和国。19世紀後半,サモリ・トゥーレがフランス軍に抵抗したのは有名だが,のちフランス植民地になった。1958年,フランス共同体加入を拒否し,独立した。セクー・トゥーレ大統領は厳格な社会主義政策をとったが,その裏で政敵を抹殺するという恐怖政治をしいた。民族的な迫害もなされ,多くの避難民を生み経済は停滞した。84年のセクー・トゥーレ大統領死去後,軍事政権となったが,93年12月複数政党制での大統領選挙が実施された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android