日本大百科全書(ニッポニカ) 「キリスト教民主党」の意味・わかりやすい解説
キリスト教民主党
きりすときょうみんしゅとう
Democrazia Cristiana
イタリアのカトリック政党。略称DC。第二次世界大戦の終わる直前の1943年、戦前の人民党Partito Popolare Italiano(略称PPI)の指導者デ・ガスペリによって結成された。カトリック信仰をきずなにバチカンと強い結び付きをもった保守政党として第二次世界大戦後のイタリア政治の中軸をなしたが、1994年に分裂、解党した。支持層は、ブルジョアジー、中間層、労働者、それに主婦などあらゆる階層を含んだ。
[柴田敏夫]
沿革
デ・ガスペリの指導下に、共産主義の防波堤として連合国の支援もあって、同党は戦後の復興に大きく貢献したが、しかし1948年の総選挙を除いて、絶対過半数に達する議会勢力にはならなかった。したがって、つねに他党との連立政権によって政治運営を図ってきた。中道を指向した社民、共和、自由との四党連立(1948~1953)、ネオファシストなどの社会運動と提携した中道右派(1958~1960)、社会党を抱き込んだ中道左派(1962~1972)、そして共産党の閣外協力に基づく大連合(1976~1979)といった政治実験が、DCを軸に次々と繰り返されたが、1994年に人民党とキリスト教民主センターCentro Cristiano Democratico(CCD)など4派に分裂した。
[柴田敏夫]
派閥
DCの特徴の一つは、政党活動が派閥によって行われていたことである。1950年代に全国的な政党組織をつくって、近代的な大衆政党に成長し、最盛期には180万人を超えるほど党員数も増えた。しかし、実際面での派閥体質はかわらず、政策決定、候補者の人選、閣僚任命などはすべて派閥間の勢力関係により密室で行われた。派閥は、歴史的、人的、政策的、地縁的、あるいは権力をめぐる対立といったさまざまな要因が複合して形成され、ときには分裂する場合もあったが、全体的にDCの政治を複雑にし、またしばしば有権者の利益より派閥の利益が優先されがちになるのが実態であった。
[柴田敏夫]
教会との関係
DCの特徴の第二は、カトリック政党であるため教会との関係が密接であった点にある。第二次世界大戦後イタリアは、1929年に独裁者ムッソリーニと教皇の間で締結されたラテラノ条約を共和国憲法に採り入れ、カトリックを国教としたが、とりわけDCは熱心であった(1984年非国教化)。DCに詳しい歴史家のボッツォGianni Baget Bozzo(1925― )は、DC内部にはカトリック文化と関連して、自由派、社会派そして民主派の3グループがあるという。自由派は教会と一定の距離を置き、社会派、民主派は教会の権威を認めたうえで、国家の市民社会への関与に理解を示すいわゆる「統合主義」に拠(よ)るグループである。DC政治は戦後1950年代なかばまではデ・ガスペリらの自由派が中心となり、以後ファンファーニ、グロンキらの社会派やモーロに代表される民主派によって運営された。当初の自由主義「倫理」から「妥協と調整」型へ変化するなかで、しだいに市民社会への国家の介入が増大し、その結果、公私の混同、政治と金銭の結び付きが強まった。
ボッツォはDC腐敗の根元をこうした変化から指摘しているが、他方、教会がDCにどのように対応したかにも注意を払う必要があろう。戦後バチカンは、共和国憲法への国教導入に強い関心をもったが、東西冷戦の緊張が高まるにつれ反共の姿勢を強め、しばしばDC政治に圧力をかけたことはよく知られている。しかし、第二バチカン公会議(1962~1965)の教会改革を転機にカトリック教会はしだいに現実政治から離れていき、その結果DCは、選挙において集票力のあるカトリック教会の布教団体である労働者協会(ACLI)や行動団(AC)の組織的援助を受ける機会がしだいに少なくなった。他方、有権者も大衆社会化、世俗化の進展につれしだいに教会離れの傾向が目だつようになり、党員数も減少した(1973年から1977年の間に65万人の減少)。1974年にDCは離婚法の廃止をめぐる国民投票で過半数を得られず敗北し(離婚法反対は41%)、あらためて「ノーと言う信徒」の存在が注目された。1976年総選挙では38.7%に得票率を落とし、イタリア共産党に激しく追い上げられた。石油ショック後のイタリア経済の沈滞、ストライキ、テロリズムなど社会の混乱が目だった1970年代後半の「鉛の時代」には、DCは「国民連帯」の大連合政権を組織して対応せざるをえなかった。
[柴田敏夫]
中道政党として
DCの特徴の第三は、つねに保守主義に傾く中道政治を目ざす政党という点である。「連合政権のなかでつねに中枢に位置をとる」(Centralità)ということばがあるが、実際はDCは1980年代に入っても支持票を漸減させ、中枢にとどまることがしだいに困難となった。1981年の共和党スパドリーニSpadorini内閣や1983年の社会党クラクシの五党連立内閣の成立は、改めてこの事実を示した。DCは、南部の選挙区や公社公団、大企業などに築いた利権(縁故)政治を糧になんとか1990年代初めまで延命した。その間いくつかの党改革案が出たが実現せず、1993年秋にはDCの国会・地方議員の多くが汚職で逮捕され、有権者の強い批判を浴びた。
[柴田敏夫]
衰退の原因
DC没落の理由は、第一には少し強調され過ぎるが、ベルリンの壁崩壊を契機とする共産主義に対する防波堤としての役割の喪失、第二に政治腐敗の露呈、第三にカトリック教徒の世俗化(熱心な信徒はすでに16%のみ)、第四に中道政治による混迷、そして最後に1993年選挙制度の大改正による影響を指摘できよう。
[柴田敏夫]
その後の動向
選挙制度改革直後の1994年の総選挙では、キリスト教民主党の党名はなく、すでに四つの小政党に分派していた。すなわち(1)人民党Partito Popolare Italiano(PPI)、(2)セーニ改革派、(3)キリスト教民主センターCentro Cristiano Democratico(CCD)、そして(4)キリスト教社会派Cristiano-Socialiである。
これらのうち(1)(2)人民党とセーニ改革派は、中道に属して42議席(15.7%)を獲得するにとどまり、さらに1995年にはマルゲリータ(民主と自由派)を結成、翌1996年総選挙直前プロディの要請にこたえて中道左派の「オリーブの木」に移った。マルゲリータは、その後2005年、左翼共産党との合同という予想もしなかった道を歩むことになる。もっともかつてキリスト教民主党内の左派の系譜に属するマルゲリータが、共産党の改革派というべき左派民主党との合同を選択したことには、さほど驚くに当たらないという説もある。(3)キリスト教民主センター(CCD)は、中道右派に属し、2002年にキリスト教民主連盟(CDU)と合流して民主中道連盟(UDC)となった。最後に(4)キリスト教社会派は、当初中道左派に属したが、選挙結果はわずか3議席を得たにすぎず、その後も中道左派の小政党として存続する。
こうして1980年代末までイタリアの政治に良くも悪くも多大な影響を与えてきたキリスト教民主党は、事実上四散した。
[柴田敏夫]