ガウス(Karl Friedrich Gauss)(読み)がうす(英語表記)Karl Friedrich Gauss

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ガウス(Karl Friedrich Gauss)
がうす
Karl Friedrich Gauss
(1777―1855)

ドイツの数学者。ブラウンシュワイクに生まれる。家は貧しかったが、幼時より数学、語学などに並はずれた才能を示す神童であった。教育施設の比較的良好であったブラウンシュワイク公国で、教師にも恵まれ、14歳のときに領主フェルディナンド公爵(1735―1806)の前で行った暗算妙技は、公爵の心をとらえ、公爵が没するまでその手厚い庇護(ひご)を受けることになった。15歳でカロリナ高等学校に入学。17歳のとき購入したニュートンの『プリンキピア』でニュートン力学をマスターしたものと思われる。高校時代、そのすばらしい計算能力によって、数に関する数多くの性質を自力で次々と発見していた。

 1795年10月、待望のゲッティンゲン大学に入学した。完備した大学の図書館で文献を調べてみると、彼の発見した事実の多くは、すでにオイラーラグランジュ、ルジャンドルらには既知のものであることがわかり、心穏やかではなかったが、一方、これら先哲の考えを上回る諸発見もあり、大いに力を得た。研究を続けるうち、1796年3月29日の朝、次のような新事実を発見した。

 「方程式xp-1=0の虚根は、pがp=2m+1(m=2k)の形の素数ならば、平方根だけが混ざっている有理式で表せる。すなわち幾何学的に言い表すと、pがこの形ならば、正p角形は定規(じょうぎ)とコンパスだけの使用で作図可能である。とくにk=2ならばp=17となり、したがって正十七角形は作図可能である。」
 これはユークリッド以来2000年間、だれもが夢想だにしなかった素人(しろうと)うけのする新発見であった。実は、この定理を含む整数の組織的な研究が彼の本領であって、これは1801年の夏、画期的な『整数論Disquisitiones arithmeticaeとして出版され、整数論の古典となった。

 1801年元日、イタリアのピアッツィは、火星と木星の間を浮遊する小天体(のちにケレスと命名された小惑星の第一号)を発見したが、わずかの観測ののち姿を消し、天文学者の努力にもかかわらず所在不明となった。これを知ったガウスは、自分の案出した新計算法によって軌道を算出したが、同年の12月7日、予測どおりの位置にその小天体が再発見され、一躍天文学でも名声を博した。このときの理論は『天体運動論』(1809)として発表されている。このような業績によって、1807年、ゲッティンゲン大学の教授および天文台長として招かれた。これより先、大学時代に親友だったボヤイ・ファルカス(非ユークリッド幾何発見者の一人ボヤイ・ヤノスの父)からの影響で、ユークリッド幾何の平行線問題に深く関心をもつようになり、1816年ごろには「非ユークリッド幾何」(ガウスが命名した呼び方)の存在を信ずるようになった。1822~1830年ごろ、たまたまガウスはハノーバー地方の測量に携わるようになったときも、実測によってこの新幾何の存在を確かめようと考えたらしく、測地学研究の副産物である名著『曲面の一般研究』にこの問題の解決法に関する考えが込められていた。この曲面論は、のちにリーマンによってn次空間にまで拡張され、A・アインシュタインの「一般相対性理論」にまで発展することになる。

 以上の著述のほか、最小二乗法、代数方程式の根(こん)の存在、超幾何級数、ポテンシャル論、電磁気学など、純粋数学だけでなく応用数学方面にも画期的な業績を残し、その後の数学の発展にきわめて大きな貢献をした。「寡なれど熟pauca sed matura」を堅持したガウスは、楕円(だえん)関数論などで時流を超えた研究を行ったが、未発表に終わったものが少なくない。これらは、未完の遺稿として貴重な研究日誌、知人への書信などとともに全13巻の全集に収められている。

[寺阪英孝]

『ダニングトン著、銀林浩・小島毅男・田中勇訳『ガウスの生涯』(1976/新装版1992・東京図書)』

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