カースルレー(読み)かーするれー(英語表記)Viscount Castlereagh, 2nd Marquis of Londonderry

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カースルレー」の意味・わかりやすい解説

カースルレー
かーするれー
Viscount Castlereagh, 2nd Marquis of Londonderry
(1769―1822)

イギリスの政治家。カースルレーは通称本名はロバート・スチュアートRobert Stewartという。アイルランドに生まれる。イギリス本国の下院議員となった(1794)のちピット(小)内閣のアイルランド担当相(1798~1801)としてイギリス、アイルランドの合同実現に尽力した。その後歴代トーリー党内閣でインド担当相、陸相を務め、1812年に外相となり、以後、下院の与党指導者として政策全般に参与した。外交では、ナポレオン以後のヨーロッパの安定のため、ウィーン会議でロシア、プロイセンの過大な要求を抑え、内政では1810年代後半の民衆運動の盛り上がりに対して抑圧的な政策を推進して、自由主義的な人々から反動派として激しく攻撃された。1821年父の後を継いで侯爵となったが、翌1822年政務に疲れて自殺した。

青木 康]

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改訂新版 世界大百科事典 「カースルレー」の意味・わかりやすい解説

カースルレー
Robert Stewart, Viscount Castlereagh
生没年:1769-1822

イギリスの政治家。ロンドンデリー侯の次男として北アイルランドに生まれる。ケンブリッジ大学卒業後,アイルランド議会の議員(1790-94),イギリスの下院議員(1796-97)を経て,アイルランド事務長官となり(1797),イギリス・アイルランド合同の実現に参画,合同後その議会に議席を占めた。その後ピットに認められ,とくに外交問題で頭角を現し,1807年陸軍・植民相となってナポレオン戦争遂行の任に当たったが,外相カニングと対立し,決闘の末,閣外に去った。しかし12年,今度は外相として閣僚に復帰し,以後はトーリー党リバプール内閣の重鎮的存在となった。ナポレオン戦争を完遂してこれを勝利に導いただけでなく,その戦後処理を取り決めたウィーン会議(1814-15)にイギリス代表として出席し,イギリスの伝統である勢力均衡外交を貫いた。22年,突如精神に錯乱をきたし,のどを切って自殺した。
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百科事典マイペディア 「カースルレー」の意味・わかりやすい解説

カースルレー

英国の政治家。本名Robert Stewart。アイルランド出身。アイルランド・イギリス議会の合同(1800年実現)に尽力。第2次ピット(小)内閣の植民相として外相カニングと対立。1812年―1822年外相を務め,ウィーン会議に代表として出席したが,メッテルニヒの反動政策には同調しなかった。精神に錯乱をきたし自殺。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カースルレー」の解説

カースルレー
Robert Stewart, Viscount Castlereagh

1769~1822

イギリスの政治家。アイルランド貴族の家に生まれ,1794年下院に入り,98年アイルランド担当相となり,1800年のアイルランド合同法成立に尽力。05~06,07~09年陸相,09年外相カニングと衝突して決闘。12~22年外相を務め,14~15年ウィーン会議にイギリス代表として出席。ウィーン体制擁護の反動的な政治家とみなされ,心神消耗して自殺。

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