カルナータカ戦争(読み)カルナータカせんそう(英語表記)Carnatic Wars

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カルナータカ戦争」の意味・わかりやすい解説

カルナータカ戦争
カルナータカせんそう
Carnatic Wars

1744~63年に,インドのカルナータカ地方の領有をめぐってイギリスとフランスが3次にわたって行なった戦争。戦争の結果,イギリスは南インドでの覇権を確立し,フランスはインドシナに力を注ぐことになった。 1639年イギリスはマドラスを,1674年にはフランスがその南のポンディシェリーを根拠地とし,ここに英仏争覇の端が開かれた。 1740年オーストリア継承戦争が起こり,英仏が戦争状態に入ると,1744年カルナータカ (英語でカーナティック。カルナータカは南インドのマイソール地方でカナリー語を話す地域であるが,イギリス人は誤ってマドラス地方をさす語として用いた) 沿海でイギリスがフランス船を捕え,これに対しフランス艦隊がマドラスを占領,戦争が勃発した。第1次 (1744~48) と第2次 (1750~54) の戦争はジョゼフ・フランソア・デュプレクスの活躍でフランスが優勢だったが,1754年デュプレクスが本国に召還されるとイギリスが優位になった。第3次 (1758~63) でイギリスはポンディシェリーを占領。 1763年の講和でポンディシェリーは返還されたが,イギリスのカルナータカ支配が確立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カルナータカ戦争」の意味・わかりやすい解説

カルナータカ戦争
かるなーたかせんそう

1744年から1763年にかけて、インド東南海岸カルナータカKarnataka地方で、イギリスとフランスとが植民地争奪の主導権をめぐって起こした3回の戦争。イギリスはこの戦争の勝利で南インド植民地支配の基礎を築いた。第1回は、1744年オーストリア継承戦争の一環として起こり、インド民兵を利用したデュプレクス率いるフランス軍がマドラス(現、チェンナイ)を占領するなどして勝利のうちに1748年講和となった。第2回は、1749年カルナータカ土侯の継承戦争に干渉して両軍が戦闘を再開。クライブ指揮のもとイギリス軍優勢のうちに1754年講和、この地の保護権を獲得。一方、デュプレクスは本国召還となった。第3回は、七年戦争に関連して1758年に起こり、イギリスはポンディシェリ(現、プドゥチェリ)を占領。1763年講和、この地の支配権を得た。

[上條安規子]

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世界大百科事典 第2版 「カルナータカ戦争」の意味・わかりやすい解説

カルナータカせんそう【カルナータカ戦争】

1744‐61年の間,英仏東インド会社の対立を中心に,インド各地の諸政治勢力をまじえて南インド(カルナータカKarnātaka地方)を舞台に行われた3次にわたる戦争。それまで,英仏各東インド会社は,マドラスとポンディシェリーをそれぞれ拠点に商業活動に専念していた。しかし,1744年に伝えられたヨーロッパでの英仏交戦(オーストリア継承戦争)の知らせは事態を急変させ,46年にデュプレックス総督とするフランス側はマドラスを攻略した。

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