百科事典マイペディア 「カルケドン公会議」の意味・わかりやすい解説
カルケドン公会議【カルケドンこうかいぎ】
→関連項目キリスト教|キリスト論|コプト教会
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451年、小アジアのカルケドンChalcedonで開かれたキリスト教会の第4回公会議。東ローマ皇帝マルキアヌスによって招集された。とくに「カルケドン定式(信条)」が作成されたことで有名。この定式は、キリストには神性しかないというそれまでの異端的単性説を論難して、神人二性と一人格を強調したもの。これに対して、一種の妥協的信条であるとの非難もあるが、この定式はその後の正統派教会のキリスト論の原則を示すものとなった。
[菊地栄三]
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…もとよりある傾向を異端と断定することそのものが政治的な行為であるが,教会全体の会議(公会議)では異端とされた集団の排除も政治的に,すなわち世俗の権力の力を借りて行われた。カルケドン公会議(451)で教義の根幹となるべきキリスト論が確立されると,〈カルケドン信条〉に立脚するいわゆるカルケドン派教会からの,ネストリウス派と単性論派の分離は決定的となった。だが中世初期までのローマ皇帝は,エジプト,シリアなど帝国の重要な属州の離反を防ぐため,さまざまの妥協策を用いて単性論派の引き戻しを画策した。…
…続いて,キリストが完全なる神であると同時に完全なる人間であるとのキリスト論に対する疑念が現れ,ネストリウス派と単性論派という対照的な異端を生んだ。この問題はカルケドン公会議(451)で決着がつき,〈カルケドン信条〉がキリストの完全な両性を規定した。しかし単性論派問題は尾を引き,エジプトとシリアの教会がしだいに離反した。…
…アントニウスなどの努力によって修道制が確立したのもエジプトである。しかしアレクサンドリアは5世紀の単性論問題でローマおよびコンスタンティノープルの教会と争って敗北し,主教ディオスコロスはカルケドン公会議(451)で罷免された。エジプトの教会は孤立し,457年より独自のアレクサンドリア主教を立ててカルケドン派教会に対抗した。…
※「カルケドン公会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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