カナダ史(読み)かなだし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カナダ史」の意味・わかりやすい解説

カナダ史
かなだし

カナダ史とは、アメリカ史と同じ舞台と登場人物を与えられ、まったく異なった劇を演じてきたものといえる。カナダ史に関心をもつ者にとって、アメリカ合衆国の歴史との相違は、類似よりも大きな関心の的であった。この相違の端緒は、なによりもまずカナダがアメリカよりも北に偏在し、厳しい気候条件のもとで農業植民地が育ちえなかったことにある。気候はさらに、カナダへの移民をアメリカへのそれよりも著しく遅らせた。カナダへの移民は、近代科学技術の発達が気候を人間の生活の障害としなくなってから増大した。歴史的にみて、人間が少なかったことと、アメリカよりも広大な土地との組合せがもたらす距離の問題、これにいかに対処するかがカナダの課題であった。この課題を劇的な形ではなく、徐々に解決したところにカナダ史の特徴が存在すると思われる。不可能と考えられてきた北方開発が脚光を浴びてきた1970年代から、これまで伝統的に縁の深かったフランス、イギリス、アメリカ合衆国とともに、日本でもカナダ史に注意が向けられるようになったのは、カナダが近代の申し子であるのみならず、将来の世界を象徴しているような存在であることと、けっして無縁ではない。

[大原祐子・木村和男]

植民地時代

先住民とフランス人の出会い

16世紀初頭、ヨーロッパからいわゆる探検家が北アメリカ大陸にやってきたころ、現在のカナダの地に生活していた先住民は、イヌイット(エスキモー)も含めて約22万人と推定されている。これは、狩猟を主たる生業とする彼らにとって、最大限度に近い数字であったと考えられる。厳しい気候条件のもとで狩猟生活をしていた先住民にとって、文化を発達させる余裕はなかった。わずかに、気候と海産物に恵まれている西海岸のインディアンのみが、トーテムポールや洗練された彫刻など高度の文化を生み出している。

 カナダへやってきた初期のヨーロッパからの探検者のなかでもっとも有名なのは、フランス人ジャック・カルチエである。彼は1535年から36年にかけて現在のモントリオールの地で越冬し、カナダの名付け親となった。カルチエの一行が壊血病にかかり、インディアンに治療法を学んで克服したことに一例がみられるように、カナダにやってきたフランス人は、概してインディアンと協調関係を保った。深い雪の中を歩く技術や、フランス人の主要関心事であった毛皮の取得は、インディアンの協力なくしてはなしえなかった。

 17世紀に入ると、フランスは本格的な植民地経営に乗り出すようになる。フランス国王アンリ4世に派遣されたシャンプランは、1608年ケベックに砦(とりで)を築き、ここがニュー・フランス植民地の拠点となった。

 フランス人がカナダに目をつけたのは、第一に肉食をしないカトリック教徒である彼らがタラの大漁場に魅せられたからであったが、その彼らを北アメリカの内陸に引き込んだのは、寒冷地産の良質な毛皮であった。シャンプラン自身、五大湖に到達したといわれるが、ミシシッピ川を下降して、周辺をルイ14世にちなんでルイジアナと命名したのも、北アメリカ大陸の探査に熱心なフランスの毛皮商人であった。彼らは同時にカトリックの布教も行った。1615年に始まった先住民への布教がどの程度の成功を収めたのかはわからないが、現在のカナダ総人口の半数近くがカトリックであり、世界有数のカトリック国である源がフランス植民地時代に求められるのは驚くべきことであるといえよう。

[大原祐子・木村和男]

イギリスとの衝突

ニュー・フランスの南に位置するイギリスの植民地が拡大するにつれ、さしも広大な北アメリカ大陸でも、イギリスとフランスとの衝突の機会が増大した。とくに農業と定住を主とするイギリス植民地と比較して、ニュー・フランスは交易と布教を活動の中心としていたので、いわば点と線で伸張しており、それを分断されると抵抗力は弱かった。海上で、陸上で、そしてヨーロッパにおけるイギリス、フランスの衝突に触発されて、北アメリカ大陸においてもイギリス軍とフランス軍は何度も戦った。その結果、1713年にはノバ・スコシアやハドソン湾周辺がイギリス領となり、1583年にイギリスがその領有を宣言したニューファンドランドもこのとき正式にイギリス領たることが認められた。北アメリカ大陸における両国最後の衝突は1754年に始まった。ヨーロッパでの七年戦争とほぼ時を同じくして戦われたフレンチ・アンド・インディアン戦争は、フランスの完敗に終わった。インディアンの協力を得たもののフランス軍は数において弱体であり、1759年にはケベック、60年にはモントリオールが陥落し、ここに約160年間に及んだフランス統治の時代が終わったのである。

[大原祐子・木村和男]

イギリス植民地時代

1763年の講和でイギリスは、かつてのニュー・フランスであるケベック植民地を獲得した。北アメリカにおけるイギリス植民地としては、南の13植民地に加えてすでにニューファンドランドとノバ・スコシアがあり、また境界を定められない広大な地域を、イギリス国王から勅許を得たハドソン湾会社が管轄していた。

 北アメリカにおいてイギリスは、フランスとの抗争が終了するやいなや植民地独立の抗争に直面する。累積する戦費の調達に重税を課したのが植民地の不満を買ったのであったが、南の13植民地はイギリス支配に抵抗するだけの自治の実績を備えていた。こうした独立革命の動きに対抗するにあたり、イギリスはノバ・スコシアとケベックを拠点とした。とくに後者は人口も多く経済力を備えていたので、味方につけておく必要があった。1774年に制定されたケベック法が、ケベック人の意にかなうものであったのはそのためであった。フランス民法の適用、カトリック信仰の自由、荘園(しょうえん)制の温存など、ケベック人にはフランス人としての既得権が保護された。これは当時のイギリス政府の標準からみれば驚異的に寛容な法律であったといえる。アメリカ大陸会議による独立革命への参加要請を拒否したケベック人は、ケベック法ゆえにイギリスに忠誠を誓ったといえる。

 アメリカ独立革命がカナダに与えたもっとも大きな影響は、領土の確定と、王党派とよばれた人々のアメリカからの到来であった。その規模はだいたい4万人ぐらいであったと考えられるが、彼らのように文化程度の高い中産階級の大量移動というのは、歴史上、あまり類例をみないといわれる。この結果、英領北アメリカには二つの植民地が増設された。1784年のニュー・ブランズウィックと、91年のカナダ法に基づくアッパー・カナダである。これに伴いケベックの主要部分はロワー・カナダに再編成された。

 1812年から14年にかけての第二次独立戦争ともよばれる英米間の戦い(一八一二年戦争)は、アッパー・カナダを主戦場とした。この結果、アッパー・カナダの王党派の、アメリカとの分離意識はさらに増強された。王党派は元来、アメリカ独立には賛成しないものの、イギリス支持というわけではなかった。彼らはすでに自治に慣れており、カナダにおける植民地政治の民主化を要求した。この民主化要求は、アッパー・カナダでは、総督とイギリス国教会、大商人を中心として形成される「家族盟約」による寡頭政治への抵抗運動として展開されたが、ロワー・カナダにおけるそれは、いっそう複雑な様相を呈していた。すなわち、ロワー・カナダでは、体制側である「城砦(じょうさい)閥」がイギリス系で、抵抗しているのがフランス系であったために、抵抗運動は民主化のみならず民族対立の側面をももっていた。

 1837年、W・L・マッケンジーを指導者としてアッパー・カナダで蜂起(ほうき)があった。ほぼ時を同じくしてロワー・カナダではパピノーを指導者とする抵抗運動が生じた。この二つの運動は連絡のあったものではなかったが、1820年代以降の民主化要求の機が双方の地で熟したものといえよう。いわゆる反乱はあっけなく鎮圧されたものの、その影響はけっして小さなものではなかった。

 この反乱の調査に派遣されたダーラム総督は、1839年に有名な「ダーラム報告書」をイギリス議会に提出したが、そのなかで、帝国の管轄事項と植民地のそれの分離、植民地への大幅な自治の付与、アッパー、ロワー両カナダ植民地の統合によるフランス系カナダ人の同化吸収を説いた。この勧告は、41年の連合カナダ植民地の成立と、48年の責任政府の実現で実施をみた。政治の民主化は沿海植民地でも無縁ではなかった。とくにノバ・スコシアはハウJoseph Howe(1804―73)という比類なき政治家の指導を得て、48年、カナダに先だつこと3週間で責任政府を樹立した。

 一方カナダを取り巻く国際環境も19世紀中葉に激変した。イギリスでは1846年に穀物法が廃止されて自由主義者が勝利を遂げ、植民地を手放そうという小イギリス主義が喧伝(けんでん)された。北アメリカ大陸では、交通革命を経て、人間の往来、生産物の交換が密になった。イギリス帝国の経済的保護を失った英領北アメリカの全植民地は、54年アメリカと互恵通商条約を結んだが、その反面、南北戦争後のアメリカの北漸運動に悩まされることになった。こうした変化と、内部にもつ政治的行き詰まり、あるいは市場拡大の要求などすべてを解決するものとして、植民地の統一=コンフェデレーション(連邦結成)が考えられ始めたのは、50年代末であった。この問題を討議すべく、64年秋、シャーロットタウンとケベックに植民地代表が会した。この結果、1867年7月1日に誕生したのが、ノバ・スコシア、ニュー・ブランズウィック、オンタリオ、ケベックの4州からなるカナダ自治領である。

[大原祐子・木村和男]

建国以後

カナダの建国

カナダ建国の父祖がもっとも腐心した問題は、これまで長い間それぞれが独特の歴史的発展を遂げてきた植民地が統合されるにあたって、いかに利害を調節するかであった。とくにフランス系カナダ社会とイギリス系カナダ社会との調和は深刻な問題であった。新しい国家は連邦制度を採用し、その統治原則を定めた「英領北アメリカ法」は、連邦政府の管轄事項と州政府の管轄事項とを分割した。教育など市民生活に密着する事項は州政府に任された。

 新政府が直面した第一の問題は、版図の確定である。南接するアメリカ合衆国に対抗しうる国家を建設するには、「海から海へ」またがる大陸国家を実現することが必須(ひっす)であるとされた。イギリス政府の介入も効あって、西部のブリティッシュ・コロンビア植民地の加入や、この地と東部諸州との間のハドソン湾会社の領有地譲渡は、比較的障害少なく実現したが、ここに大陸横断鉄道を敷設するにあたって問題が生じた。ハドソン湾会社領有地の中のレッド・リバー植民地は、19世紀初頭の創設以来、英領北アメリカ植民地の政治、経済上の変化とは無縁に過ごしてきた。ここの住民であるフランス系と先住民の混血メティスのあずかり知らぬうちに、居住地はカナダ政府の手に渡り、大陸横断鉄道の測量隊を迎えた。自分たちの既得権を守りたいと1869年リエルLouis Riel(1844―85)を指導者として立ち上がった彼らの運動は功を奏し、70年ここに設立されたマニトバ州は、メティスの要求を大幅に取り入れた統治原則を採用した。

 報復を恐れたリエルは、アメリカ合衆国へ逃亡していたが、その彼がふたたび指導力の発揮を期待されて呼び戻されるのは1884年、大陸横断鉄道の完成も間近となり、インディアンやメティスが西部から追われる危険を感じたときである。しかし、このときのカナダは15年前とは比較にならないほどの秩序だった社会を形成しており、彼らの蜂起(ほうき)は迅速に鎮圧された。リエルは捕らえられて処刑されたが、フランス語を母国語とする彼が英語で裁判されたことはフランス系カナダ人の憤激を買い、彼はフランス系カナダの殉教者とされた。

[大原祐子・木村和男]

近代国家としての成長

建国後1896年に至るまで、わずか5年間を除いて政権を担当し続けた保守党は、初代首相ジョン・A・マクドナルドの政治力が寄与して、1879年の保護関税の採用、85年の大陸横断鉄道の敷設により、その後のカナダの経済発展の路線を確立した。1871年のワシントン会議では、外交上の主権が依然としてイギリスに握られている無念を味わい、以後半世紀にわたってその返還はカナダの与野党をあげての目標となった。

 一方、建国直後の統合傾向は1880年代から崩れ、州政府と連邦政府との対立が目だってきた。オンタリオ、ケベックなどの大州が自州の利害と連邦政府のそれとの相違を明らかにしてきたが、そのもっとも顕著な現象はマニトバ州でみられた。1890年、マニトバ州はこれまでの宗派別学校制度を廃止することに決定した。これは、マニトバ州の少数民族であるフランス系やメティスにとって大きな衝撃であり、波紋は全国に広がった。少数派の権利を擁護しようとする保守党と、教育は州の管轄事項であるのでこれに干渉できないとするローリエの率いる自由党との争いは、後者の勝利に帰したが、以後カナダ人が連邦政府の権限を縮小化しようとする傾向はさらに強くなっていった。

 20世紀を迎えたカナダにとって、二つの懸案が存在した。一つは移民による人口増加であり、他はイギリスからの外交自主権の獲得である。19世紀後半のカナダへの移民は、より条件のよいアメリカ合衆国へ再移住する例が多く、実質的な人口増加をもたらすことが少なかった。しかし、アメリカにおいてフロンティアの終焉(しゅうえん)が発表され、一方カナダ政府が世界各地で移民を募り、小麦の改良をはじめとする技術革新が寒冷気候のもとでの居住を可能にしていった結果、20世紀に入ってカナダは陸続たる移民を迎えることになった。最多移民の記録を樹立した1913年には実に40万人余りが移住した。1905年にはサスカチェワン、アルバータの2州がカナダに加えられた。

 一方、外交上の自治の獲得、すなわちイギリス帝国との関係の清算も1899年の南ア戦争(ブーア戦争)のころからいっそう顕在化してきた問題であった。このころのイギリスは新しい帝国主義の時代に入り、イギリス帝国を形成する諸国間の結束を強化しようとしたが、それから離れようとするカナダの趨勢(すうせい)には対抗できず、1926年のイギリス帝国会議において、各自治領は完全な外交自主権を行使しうるとのバルフォア報告を採択した。これには、1914年から18年までの第一次世界大戦におけるカナダの戦争協力と、その間の国力充実が寄与していた。

[大原祐子・木村和男]

戦間期

第一次世界大戦後のカナダは、カナダ独自の画壇の確立に貢献したグループ・オブ・セブンの活動や、1922年のカナダ歴史学会の設立に象徴されるように、国家として文化的成熟を遂げるに至ったが、近代国家の所産である改革運動、労働運動、農民運動も盛んになっていった。その意味で、1919年にウィニペグで発生したゼネストは先駆的であった。このとき陰の立役者として活躍したウッズワースJames Shaver Woodsworth(1874―1942)は、その後20年代の改革運動を担い続け、32年の協同連邦党成立の際には党首に迎えられている。21年の総選挙では、農民の政党である全国進歩党が、自由党に次ぐ第二党に進出した。

 1929年に全世界を襲った大恐慌の波は、カナダも免れうるものではなかった。そのうえ、1920年代に、外資の導入先、貿易相手国としてイギリスと交代したのがアメリカ合衆国であったため、その影響はひとしお深刻であった。既存の二大政党ではこの不況は克服できないと、社会信用党、民族連合党、協同連邦党といった新党結成が相次ぎ、前二者は州政治の局面で、後者は新民主党への変身を含めて連邦政治の局面で強さを発揮した。しかし保守党によるカナダ版ニューディールも成功せず、39年9月、カナダはアメリカより2年早く第二次世界大戦に突入している。

 第二次世界大戦中のカナダを率いたのは自由党のW・L・キングであった。彼は1920年代、カナダの外交上、文化上の「ナショナリズム」の時代に政権を担当したが、恐慌時には保守党に政権を譲っていた。大戦中のキングの功績は、第一次世界大戦時と異なり、国内の世論をイギリス系、フランス系に分離させなかったことである。両者の対立は、徴兵の海外派兵をめぐり深刻化したが、慎重なキングは住民投票で賛成票を得たのちもなかなか実施に踏み切らなかった。

[大原祐子・木村和男]

第二次世界大戦後の発展

第二次世界大戦中のカナダは、人的資源の被害も大きかったが、連合国の武器庫、食糧庫としての戦争協力においても大いに貢献した。独立国としての歴史の浅さにもかかわらず先進国首脳会議に参加している実力は、このとき培われたといえよう。1949年にはニューファンドランド州のカナダ参加をみて、コンフェデレーションが完成した。

 しかし経済的繁栄と、1957年の総選挙における保守党のディーフェンベーカーの大勝利にみられた政治的安定を享受したのもつかのま、60年代のカナダは、フランス系カナダ人の「静かな革命」により大きな変動を経験することになった。

 ケベック州に人口の80%余りが住むフランス系カナダ人は、伝統的にカトリックの支配する農村社会に沈滞してきたが、第二次世界大戦後覚醒(かくせい)を遂げ、多くの後進地域がそうであるように、その近代化の進展は急速であった。1960年、長らくケベック州の政治を支配していた民族連合党を破った自由党は、一連の「静かな革命」を開始し、州経済の公営化、教育改革に乗り出した。この動きに対応して、連邦政府も、公用語法の制定、多文化主義の採用を発表したが、ケベックのフランス系カナダ人を満足させることはできず、76年にはケベックの「分離・独立」を綱領とするケベック党が州政権を握った。

 1968年以来、9か月間(1979年6月~80年3月)の進歩保守党政権時代を除き、15年間にわたって政権を担当した自由党のトルドーは、ケベック問題を連邦・州関係の修正、いいかえれば連邦制度を規定している「英領北アメリカ法」の改定で解決しようとした。彼を代表者とする連邦主義者のカナダ像は、1982年4月に公布された「1982年憲法」で明確になったものの、ケベック州はこれに同意をみせていない。84年9月の総選挙で圧勝した進歩保守党のマルローニ(マルルーニー)は、ケベックを「独自の社会」として認める二つの憲法修正協定(ミーチ湖協定とシャーロットタウン協定)でフランス系との妥協を探ったが、他州や先住民の同意を得ることができず、それぞれ90年、92年に否決されてしまう。93年総選挙を女性の新首相キャンブルの下で戦った進歩保守党はわずか2議席のみという歴史的大敗を喫し、クレティエンの率いる自由党が政権を奪回した。ケベック州では94年に州政権に返り咲いたケベック党が翌年の州民投票で独立の方向を目ざしたが、1%の僅差(きんさ)で敗北し、今後に課題を残した。

 1988年には第二次世界大戦中に強制移住などの不当な差別を受けた日系人への補償が実現し、カナダ政府は日系カナダ人の生存者に1人当り2万1000ドルを支払い、公式に謝罪した。90年にはモントリオール郊外のオカでモホーク人と州=連邦政府との武力衝突が生じ、先住民の土地所有問題が改めて顕在化している。他方でノースウェスト・テリトリーズ(準州)のイヌイットは、ノースウェスト・テリトリーズの一部から、先住民による自治を目ざすヌナブート・テリトリー(Nunavut)を創設することで連邦政府との合意に達し、99年4月、ヌナブート・テリトリーが発足した。

 対米関係では進歩保守党政府によって1989年に米加自由貿易協定が発効し、93年にはメキシコも含む北米自由貿易協定(NAFTA)がカナダ議会での激しい論争を経て批准された。カナダが超大国アメリカとの自由貿易下で、経済的、政治的自立性を保持できるかが注目される。

 現代カナダは、国内では民族間、地域間の対立、対外的には超大国アメリカの圧倒的な経済的、文化的圧力により、国家の分裂と解体の危機にさらされながらも、多文化主義の理想と独自の豊かな国家としての生き残りを追求しつつある国といえよう。

[大原祐子・木村和男]

『大原祐子著『カナダ現代史』(1981・山川出版社)』『K・マクノート著、馬場伸也監訳『カナダの歴史』(1977・ミネルヴァ書房)』『J・M・S・ケアレス著、清水博・大原祐子訳『カナダの歴史――大地・民族・国家』(1978・山川出版社)』『D・フランシス、木村和男編著『カナダの地域と民族―歴史的アプローチ』(1993・同文舘)』『大原祐子著『カナダ史への道』(1996・山川出版社)』『木村和男他著『カナダの歴史―大英帝国の忠誠な長女1713~1982』(1997・刀水書房)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カナダ史」の意味・わかりやすい解説

カナダ史
カナダし

世界史に登場して以来約 500年にわたるカナダの歴史は,だいたい 4期に分けることができる。第1期の探検時代は 1497年イギリス王の命によりジョバンニ・カボートがカナダ東岸を訪れたのに始まった。フランス王の派遣したジャック・カルティエセントローレンス川を遡行して現在のモントリオールにいたり,この地域におけるのちのフランスの覇権を確立した。第2期のフランス領時代は 1605年に始まる。フランス領時代はさらに 1627~63年のニューフランス会社統治時代とそれ以降のフランス国王の直轄地であった時代に分けられるが,この時代にニューフランスの版図は北アメリカ大陸の内陸深く拡大し,植民地の統治機構が整えられた。しかし版図の拡大によって南のイギリス植民地との衝突が増大し,敗北を喫したフランスは,1763年のパリ条約でニューフランスをイギリスに譲り,150年余にわたったフランス領時代は終了した。第3期のイギリス領時代に入ってからもフランス系の文化は温存されたが,アメリカ独立革命の結果,王党派(ロイヤリスト)が多数北上してイギリス系の人々が増えるに及んで,まずノバスコシアからニューブランズウィックが分かれ,ケベックはフランス系の多いローアーカナダと,イギリス系の多いアッパーカナダに二分された。イギリスの支配下にあった 104年間は,イギリス本国の自由主義の影響を受け,北アメリカのイギリス植民地においては,経済的自立の非常な進展をみた。政治的独立を達成した第4期には,1837年にローアーカナダ,アッパーカナダで政治の民主化を求める反乱が生じたが,1848年ノバスコシア,次いで連合カナダ植民地に責任内閣が実現した。したがって 1867年のコンフェデレーションによるカナダ自治領の成立は,いわば既成事実の確認であった。この際カナダを形成したのはノバスコシア,ニューブランズウィック,ケベック,オンタリオの 4州であったが,1870年マニトバ,1871年ブリティシュコロンビア,1873年プリンスエドワードアイランド,1905年サスカチュワンとアルバータ,1949年ニューファンドランドがカナダに加わり,コンフェデレーションが完成した。コンフェデレーション後のカナダでは保守党と自由党がほぼ交代して政権を握っている。初代首相のジョン・アレクサンダー・マクドナルド(保守党)は大陸横断鉄道を完成,ウィルフレッド・ローリエ(自由党)の時代には,カナダの国内的充実が達成された。第1次世界大戦では多大の犠牲を払ったが,工業力が飛躍的に進展し国際的な地位が高まった。1926年のバルフォア報告はイギリスの全自治領に外交権を認め,カナダの主権国家としての地位は完成した。第2次世界大戦の頃からアメリカ合衆国との軍事的・経済的結びつきが強化され,1991年から主要国首脳会議(サミット)に参加。国内的にはケベックの分離問題をかかえる(→ケベック問題)。

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