カデット(英語表記)kadety

改訂新版 世界大百科事典 「カデット」の意味・わかりやすい解説

カデット
kadety

帝政ロシア末期の自由主義政党立憲民主党Konstitutsionno-demokraticheskaya partiyaの略称人民自由党とも称した。自由主義的地主とブルジョアジー,大学教授,弁護士や医師などの自由業インテリを中心に,1905年10月モスクワで結成された。その前身は,20世紀初頭にツァーリ政府に対して野党色を強めつつあったゼムストボ(地方自治機関)の立憲派議員の組織〈ゼムストボ立憲派同盟〉と,自由主義誌《解放》(1902年からシュトゥットガルトで発行。編集P.B. ストルーベ)を中心に1904年にペテルブルグで結成されたグループ〈解放同盟〉との二つで,両団体の合同というかたちで発足した。その基本的主張は立憲議会君主制の確立,有償方式による地主の土地の“強制収用”,外交における親英仏路線であった。06年に開設された国会では,同年の選挙で179議席,翌年の選挙で98議席を占めて,自派から議長を出し(S.A. ムロムツェフ,次いでF.A. ゴロビン),議会制度に立脚したツァーリ政府批判を行い,06年7月の第1国会解散のさいには,その不当性に抗議して国民に納税拒否などを呼びかける〈ビボルグ声明〉の採択に主導的な役割を演じた(同声明に署名した議員181名のうち100名を占めた)。07年以後の反動期から帝政崩壊までの時期は,国会運営の主導権をオクチャブリストなど,より保守的な有産階級政党に譲ったが,有力野党として(1907年以降の第3国会で53議席,12年以降の第4国会で57議席),時には一時的与党としての役割を演じた。第1次大戦期には他の有産階級諸政党とともに〈進歩ブロック〉を形成した。二月革命後の臨時政府には外相に党首P.N.ミリュコーフなど閣僚を送り込み,戦争遂行政策をすすめ,革命の阻止をはかったが,その過程で孤立と反動化をますます強めた。十月革命後,レーニン政府によって〈人民の敵〉の政党として解党させられた。しかし,そのメンバーはその後の内戦期に各地で反革命運動に加わり,またヨーロッパ諸国に亡命して反ソ活動を続けた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カデット」の意味・わかりやすい解説

カデット
かでっと
Кадеты/Kadetï ロシア語
Kadets 英語

帝政ロシアの政党。立憲民主党Конституционно‐демократическая партия/Konstitutsionno‐demokraticheskaya partiyaの略称。公式には「人民自由党」といった。1905年10月、歴史家ミリュコーフを中心に、イギリス流の立憲政治と自由主義的な改革を掲げて結成された。メンバーには弁護士、大学教授、医師、技師、実業家など自由主義的傾向の人々が加わり、06年1月の第2回党大会には党員10万、地方支部42を数えるまでに成長した。立憲民主政治、地主への補償を伴った土地の再配分、8時間労働制などを掲げ、第1国会では「政治的自由と社会的正義」をスローガンにして179議席を獲得し第一党となった。第一次世界大戦中は戦時産業委員会で大きな役割を果たし、17年、二月革命後臨時政府が成立したときは、非社会主義政党としては唯一の有力な党であった。リボフ公を首班とする臨時政府に、外相ミリュコーフ以下6名の閣僚を送ったが、ミリュコーフは戦争継続政策をとったところから、民衆の抗議を受け辞任をやむなくされた。第二次連立内閣でも4名の党員を入閣させたが、しだいにSR(エスエル)とボリシェビキに人気を奪われ、国民の支持を失うようになった。

 十月革命後の11月28日(新暦12月11日)ソビエト政府は、カデットを「人民の敵の党」と宣言し、メンバーの逮捕を開始した。多くのメンバーは1919年デニキン家の船でロシアを去り、ヨーロッパ各地やアメリカに亡命した。21年までに、これらの亡命者によって、パリとベルリンに二つの中心がつくられ、前者はミリュコーフの指導下に機関紙『最新ニュース』を、後者はグッセンの下で『舵(ルーリ)』を発行した。

[外川継男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カデット」の意味・わかりやすい解説

カデット
Kadety; Cadets

ロシアの政党。立憲民主党 Konstitutsionno-Demokraticheskaya Partiyaの略称。 1905年革命のさなか,専制政府が「十月宣言」を発して国会 (ドゥーマ ) の開設を誓約し,政治結社の自由を認めたとき,「解放同盟」を基礎に歴史家 P. N.ミリュコーフの指導によって結成された,ロシアの代表的な自由主義政党。勤労大衆の支持を得るために「人民自由党」とも称したが,実際は都市ブルジョアジーと農村の進歩的な中小地主,自由職業階級の穏健分子を主要な地盤とし,前2者の階級的利害の調整によって,専制体制の倒壊からくる既成秩序の全面的崩壊を阻止することを目標とした。国会選挙中は,完全な市民権,国有地,教会領の解放,「必要なとき」は有償による私有地の分配をも公約し,06年第1国会で 478議席中 179議席を押えて一躍最大政党にのしあがった。 07年の第2国会では 520議席中 99議席となり,第2党に後退した。 17年二月革命でブルジョア臨時政府が形成されると,党首ミリュコーフは外相に就任,連合国との協調路線を踏襲して,同年4月戦争継続を宣言したが,戦争反対の大衆示威に屈服,辞職を強いられた。その頃を党勢の最高潮期として,以後「一切の権力をソビエトへ」のスローガンを掲げ急速に台頭したボルシェビキの前に,再び勢力を回復することはなかった。

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百科事典マイペディア 「カデット」の意味・わかりやすい解説

カデット

帝政ロシア末期の自由主義政党,立憲民主党の略称。ミリュコーフなどを中心に1905年結成。自由主義的地主とブルジョアジー,自由業インテリらが参加。同年の第1次ロシア革命後は反政府的党派の中心。1917年二月革命後の臨時政府の主導的存在だったが十月革命で打倒され,内戦中は反革命側にあった。→オクチャブリスト
→関連項目ゼムストボドゥーマ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カデット」の解説

カデット
Kadet

立憲民主党。1905年10月にミリュコーフを中心とするブルジョワ的知識人・地主が結党したロシア自由主義の代表政党。立憲君主制の確立を志向した。第1国会では第1党,第2国会でも議長を出すなど大きな勢力を持っていたが,第3国会では路線上,組織上の危機に落ち込んだ。第一次世界大戦前夜には帝国主義的対外政策を主張し,政府批判を再び強めた。大戦中の「進歩ブロック」の中心であり,二月革命後の第1次臨時政府では主導的役割を演じた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「カデット」の解説

カデット

立憲民主党

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世界大百科事典(旧版)内のカデットの言及

【ゼムストボ】より

…そうした背景のなかで,70年代末以降,ゼムストボは憲法と議会を要求する急進的な自由主義運動の拠点となり,それに対して政府側も,90年6月の法令(〈反改革〉と呼ばれる)によって,ゼムストボの活動に対する制限を強めた。ゼムストボの自由主義運動は,革命的運動とは敵対的であり,〈反革命的〉性格は,ゼムストボ指導者が参加して誕生した立憲民主党(カデット)や十月党(オクチャブリスト)の活動,および第1次世界大戦中に結成された全ロシア・ゼムストボ同盟の活動にあらわれている。【鈴木 健夫】。…

【ドゥーマ】より

…下院議員は地主とブルジョアジーに有利で,労働者や農民に不利な不平等な選挙法にもとづいて選出されたが,上院議員の半数は勅選で,他の半数は貴族会や地方自治会,産業界や正教会,帝国大学,科学アカデミーなどからそれぞれ互選で選ばれており,上院はより保守的であった。 第1国会と第2国会の大多数は反政府的な党派からなり,その中心は小ブルジョア政党カデットで,第1国会議長も,第2国会議長もカデット党員であった。当時は議院内閣制が確立されていなかったこともあり,国会と政府は衝突を繰り返していた。…

【ミリュコーフ】より

…ロシアの歴史家,政治家。カデット(立憲民主党)の領袖。モスクワ大学を卒業,1886年よりモスクワ大学講師としてロシア史を講じた。…

【ロシア革命】より

… 政治党派としては,20世紀の初めよりマルクス主義者の党であるロシア社会民主労働党(以下〈社会民主党〉と略す)とナロードニキ系のエス・エル党が生まれ,活動していたが,全局を制したのは自由主義者たちであった。反政府的な地主層は,ゼムストボ(地方自治体)代表者の大会を開催して圧力を加え,解放同盟Soyuz osvobozhdenie(カデットの前身)に入っている自由主義的知識人は政治的デモンストレーションを目的とする解放宴会をくりかえし,立憲政治を要求したのである。
【第1次革命】
 1904年末,旅順が陥落すると,ロシア政府の権威は決定的に動揺した。…

※「カデット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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