カスティリオーネ(英語表記)Baldassare Castiglione

精選版 日本国語大辞典 「カスティリオーネ」の意味・読み・例文・類語

カスティリオーネ

(Giuseppe Castiglione ジュゼッペ━) 一八世紀、中国に滞在したイタリア人宣教師。雍正・乾隆二代の皇帝に仕え、絵画建築などの技法を伝えた。中国名は郎世寧。(一六八八‐一七六六

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デジタル大辞泉 「カスティリオーネ」の意味・読み・例文・類語

カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione)

[1688~1766]イタリアのイエズス会宣教師・画家。中国名は郎世寧ろうせいねい。1715年、しん国北京に行き、雍世ようせい乾隆けんりゅうに仕え、西洋の画法を伝えた。絵は台北の故宮博物院に多数収蔵。

カスティリオーネ(Baldassare Castiglione)

[1478~1529]イタリアの外交官著述家。著「廷臣論」。

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改訂新版 世界大百科事典 「カスティリオーネ」の意味・わかりやすい解説

カスティリオーネ
Baldassare Castiglione
生没年:1478-1529

イタリアの文学者,外交官。伯爵。カザティコに生まれる。マントバミラノで人文主義的教育を受ける。ルドビーコ・イル・モロやフランチェスコ・ゴンツァーガに仕える。公爵グイドバルド・ダ・モンテフェルトロに招かれて,ウルビノの宮廷に仕え(1504-13),ヘンリー7世やルイ12世のもとに使節として遣わされる。次いでフランチェスコ・デラ・ロベレに仕え,ローマに派遣される(1513-15)。1524年,教皇クレメンス7世の命により,教皇使節としてマドリードにいる皇帝カール5世のもとにおもむく。27年帝国の傭兵らがローマを荒らしたため(ローマ劫掠),教皇庁の不興を買う。トレドで死去。主著《宮廷人の書》4巻(1528)は,ウルビノの宮廷で行われたと想定される対話(1507)に基づき,完全な宮廷人を称揚しながら,ルネサンスの人間の理想的な典型としての教養ある貴紳について論じている。
執筆者:

カスティリオーネ
Giovanni Benedetto Castiglione
生没年:1616-70

イタリア・バロックの画家,素描家,銅版画家。通称グレケットIl Grechetto。ジェノバに生まれる。G.B.パッジとG.A.デ・フェラリの弟子。イタリア各地で仕事をし,生地ではファン・デイク,ローマではP.テスタ,N.プッサン,後にルーベンスから影響を受けるが,最も本質的だったのはレンブラントの版画によるものである。そこから得た技法は,彼の作品に創意に富んだ,明暗法による劇的な表現を可能にしたと言える。またモノタイプの真の発明者とされる。主題は宗教・神話のほか静物・風俗など幅広く手がけた。
執筆者:

カスティリオーネ
Giuseppe Castiglione
生没年:1688-1766

イタリアのイエズス会修道士で宮廷画家。中国名は郎世寧。ミラノに生まれ,1707年にイエズス会に入り,15年(康煕54),清代中国の都北京に到着。以後,同地で死ぬまで康煕・雍正・乾隆の3帝に宮廷画家として仕えた。とくに乾隆帝に目をかけられ,彼の愛妃である香妃の肖像画を描いた。代表作はジュンガルとの戦いを描いた全18枚からなる《準噶爾回部等処得勝図》のなかの2作で,明暗法や遠近法などの西洋画法は中国画に大きな影響を与えた。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カスティリオーネ」の意味・わかりやすい解説

カスティリオーネ
Castiglione, Baldassare

[生]1478.12.6. イタリア,マントバ近郊カサティコ
[没]1529.2.2. スペイン,トレド
イタリアの廷臣,外交官,作家。ゴンツァガ家につながる名門の出身。ミラノ,マントバ,ウルビノなどの宮廷に仕え,その経験をもとに『廷臣論』Il cortegiano(1513~18)を著した。これは問答形式で当時の理想的な宮廷人はいかにあるべきかを説いたもので,マキアベリの『君主論』にしばしば対比され,廷臣の側からルネサンスの人間像をとらえている。そのほか,田園詩『ティルシ』Tirsi(1506)などがある。晩年は教皇クレメンス7世にスペイン大使を命じられ,マドリードに赴任し,病を得てトレドで没した。

カスティリオーネ
Castiglione, Giovanni Benedetto

[生]1616頃.ジェノバ
[没]1670. マントバ
イタリアの画家,版画家。通称イル・グレケット。ジェノバ,ローマ,マントバ,パルマで制作。初めファン・ダイク,レンブラントの,次いでローマではプーサンの影響を受け,肖像画,歴史画,宗教画,風景画を多数残しているが,特に動物の表現に長じた。また銅版画も多く制作し,モノタイプの発案者でもある。

カスティリオーネ

郎世寧」のページをご覧ください。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カスティリオーネ」の解説

カスティリオーネ
Giuseppe Castiglione 郎世寧

1688~1766

イタリアのイエズス会宣教師,画家,建築家。1715年北京に到着して清の宮廷に仕え,雍正(ようせい)帝乾隆(けんりゅう)帝の命により多くの絵を描き,中国の絵画に大きな影響を与えた。また円明園などの設計にあたった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「カスティリオーネ」の解説

カスティリオーネ
Giuseppe Castiglione

1688〜1766
中国で活躍した,イタリアのイエズス会宣教師・画家
中国名は郎世寧 (ろうせいねい) 。1715年北京に渡り,美術の才能を認められて康熙 (こうき) ・雍正 (ようせい) ・乾隆 (けんりゆう) の3帝に仕えた。乾隆帝の命を受け,円明園 (えんめいえん) の設計にあたり,また洋画・南画を折衷した画風をつくって,中国の絵画に影響を与えた。

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百科事典マイペディア 「カスティリオーネ」の意味・わかりやすい解説

カスティリオーネ

イタリアの文人。《廷臣論》を著し,文武諸芸にひいでたルネサンス時代の理想的な宮廷人の姿を描いた。各地諸侯の宮廷に仕えたが,晩年は教皇の大使としてスペインに赴き客死した。
→関連項目円明園

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世界大百科事典(旧版)内のカスティリオーネの言及

【貴族】より


[ヨーロッパ貴族の文化史・思想史的意義]
 封建社会の盛期における〈騎士道〉は,聖職者に担われた中世前期の文化に代わる俗人(俗語)文化の登場を意味し,そこでは戦士の美徳とキリスト教信仰とが,礼節・自己規律,また理想化された愛の情念のなかに融合していた。ルネサンスと人文主義はそれ自体,新しい市民階層の生活意識を表現するものであったが,イタリア,フランス,イギリスなどで宮廷が文芸の中心となるにともない,B.カスティリオーネの《廷臣論》に描かれたような,優雅な文人貴族の理想が一般化する。それと同時に,貴族ないし騎士身分の軍事的機能の低下に対応しつつ,貴族の資質における精神的な要素が従来以上に強調されることとなった。…

【モノタイプ】より

…金属,板,紙などの上にインキ,絵具などで直接描き,乾かないうちに台材(紙,布など)に写し取らせる。即興的な筆触がなまなましく再現されるので,B.カスティリオーネ,W.ブレーク,E.ドガなどが好んで制作した。とくに現代では版画というよりも造形的表現手段の一つとなっている。…

【円明園】より

…園内は湖池が大半を占め,江南地方の風景を模した水景庭園で,宮殿や祠廟が点々と配された。長春園北側にはカスティリオーネ,ブノア,アッティレら西欧宣教師によって,ロココ様式の西洋館が建てられ偉容を誇ったが,1860年(咸豊10)と1900年(光緒26)の各国軍侵略で破壊され,いまは廃虚のみがのこる。【田中 淡】。…

【清代美術】より

…すべてのモティーフは明確な輪郭をもって描き出され,あいまいな個所はまったくなく,すべて清新で知的な画面が要求された。イタリア人カスティリオーネ(中国名は郎世寧),ロシア人シクルプス(中国名は艾啓蒙(がいけいもう)。1708‐80)らは画院に奉職した西洋人で,文字どおり皇帝の手足として馬,珍禽異獣,戦争,皇帝后妃の容姿などを写して画院本来の使命を果たした。…

※「カスティリオーネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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