オーストリア文学(読み)おーすとりあぶんがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オーストリア文学」の意味・わかりやすい解説

オーストリア文学
おーすとりあぶんがく

オーストリア文学の特徴

ドイツ語による文学である。しかし「いちおう」という限定がつく。というのもスロベニア語オーストリア文学が存在するからばかりでなく、オーストリア文学におけるドイツ語とは、セルビアやガリツィアなど中欧出自の芸術家によって多かれ少なかれ意識的に選択された言語だからである。そしてオーストリア文学というからには、ドイツ文学に対しての独自性は何かという疑問にもつねにつきまとわれる。むろん文化・歴史・政治状況をドイツとは異にするのだから、オーストリア文学は確固として存在する。とはいっても、「国文学」としてのオーストリア文学の存在は自明なのではない。国民意識が育っていることが前提なのだから、18世紀後半、いわゆる上からの改革、国民国家の要請によってまず自国文化の発見・発明が始まる。プロイセンを中心にした国家体制が望んだ国民文学と、多民族を抱え込みながら「国民」を主張せねばならなかったオーストリアとはおのずと伝統が異なってくるだろう。さらには、オーストリアを支配したハプスブルク家が高度な宮廷文化をもったことも歴史的条件として考慮しておかねばならない。

 国民意識を誇大にもったドイツが、イロニーや普遍を主張するロマン主義文学・哲学・音楽に異彩を放ったのに比べれば、同時代のオーストリアにはロマン派などという深刻な芸術運動など存在せず、かわりにパロディーを喜ぶ痛快な喜劇と陶酔のワルツが支配した。これは特筆すべきことである。

 おもしろいことにオーストリア「国文学」が絶頂を迎えるのは、19世紀末から第二次世界大戦に至るまでの間、つまり国家が崩壊していった過程においてである。この時期以前のオーストリアが多民族調和のユートピアのようにあったと神話化することには、厳しい批判がなされているが、多民族のなかで風刺精神は戦術的表現に洗練を極め、ナンセンスな遊戯と鋭い言語批判意識となって開花したのも事実である。基本的にオーストリア文学は自国語に対して移民(他者)であるような「マイナー文学」のポジションをかちえる。ユダヤ民族でありチェコ人であり、しかしドイツ語で表現し、ウィーンというメトロポール(首都)を横目にプラハで書き続けたフランツ・カフカは、似たような境遇の数ある作家のうちの一人にすぎない。

 第二の「国民」発明運動は第二次世界大戦の直後に始まる。敗戦から立ち直るべく、偉大なるオーストリアの伝統、郷土を讃(たた)える文化運動が起こされたからである。しかし、気がついてみるととくに1952年から1963年の間、公立劇場で一度も左翼劇作家ブレヒトが上演されていないという「反共」アイデンティティがひそかに確立されていた。以後、文学者たちは、自らを戦争被害者とみる健忘症、国家ぐるみで調和の郷土文化産業を推進する一般状況に対して、表面に現れなくともどこかで対峙(たいじ)せざるをえない。現代もなお「言語批判」と「反・郷土」を柱としながら、ことばの高度な政治性を示し続ける所以(ゆえん)である。

[原 研二]

歴史

国民文学という概念ができることによって、オーストリア文学の伝統がつくられる。バーベンベルク宮廷におけるミンネザング(恋愛叙情詩)、たとえばワルター・フォン・デァ・フォーゲルワイデの歌謡、『ニーベルンゲンの歌』といった英雄叙事詩、受難劇、民衆村芝居が国民文学として発見される。15世紀末までにはフィリップ・フランクフルターPhilipp Frankfurter(1450年ごろ―1511)の滑稽(こっけい)文学(シュバンク)が発達し、ハプスブルク家によるウィーンの首都化、および多民族国家が姿を明瞭にするとともに、ウィーン大学(1365年開校)が人文主義の一つの中心となり、宗教革命と対抗運動の間に、アブラハム・ア・サンタ・クララAbraham a Sancta Clara(1644―1709)の雄弁の説教文学が登場する。バロック時代である。国事劇、豪華オペラ、即興芝居、ハンスブルスト芝居、そうしてジングシュピール、ウィーン民衆劇の発達、すなわち宣伝を重視したカトリック教会、なかでもイエズス会が発達させた視覚文化とレトリック技術があいまってパフォーマンス文化と風刺する文化の発達が著しい。この伝統は、ロマン主義を形成せず、まず演劇精神として成熟する。ライムントとネストロイである。

[原 研二]

19世紀後半から20世紀前半

過去を国民文学として発見していくのではなく、同時代としての国民文学を担ったのは、フランツ・グリルパルツァー、アーダルベルト・シュティフターであるだろう。さらには口語詩人、国民物語作家、たとえばローゼッガーなどを生み、国民劇作家の名にふさわしいアンツェングルーバーに至る。

 そうしてオーストリア文学の一つのピークが、ハプスブルク帝国崩壊期に訪れる。ヨーゼフ・ロートは崩壊以前の帝国に郷愁を抱き、カール・クラウスは市民のことばつきに世界没落を嗅(か)ぎつけた。フロイトの精神分析学の登場もまた同時代の重要な現象である。フーゴ・フォン・ホフマンスタールの『チャンドス書簡』(1902)にみられるような言語批判意識の先鋭さが、表層の観察の繊細さとなって現れ、だからこそフロイトによる深層心理の主張を準備し、結果、表層の描写に長(た)けた多くの文学をも生んでいく。ウィーン印象主義というものも多民族国家崩壊の記録の仕方であったと思われる。たとえばリヒャルト・ベーア・ホフマン、スケッチ文学のペーター・アルテンベルクPeter Altenberg(1859―1919)、アルトゥール・シュニッツラーの風俗観察の鋭さなど、スタイルそのものが時代の証言である。

 ヨーロッパ人文主義世界がいったん崩壊するにあたっての重層的な表現に成功したのは、なんといってもローベルト・ムシルとヘルマン・ブロッホである。『昨日の世界』(1942)のシュテファン・ツワイク、ハイミト・フォン・ドーデラーもまた同じ文化圏にある。同時期、カフカはいうに及ばず、日本の文学者にも多大な影響を与えた世界的詩人リルケの存在も大きい。そのほか異色の幻想作家アルフレート・クービン、マクス・ブロートなど。

 ヘルマン・バールの論文「表現主義」(1914)は影響大で、ゲオルク・トラークル、フランツ・ウェルフェル、オスカー・ココシュカ、A・P・ギュータースローの詩作品が輩出する。

[原 研二]

第一次・第二次世界大戦後

両大戦間において重要なのは、郷土愛を標榜(ひょうぼう)する人々の非人間性をえぐったエーデン・フォン・ホルバートの小説や戯曲、ユーラ・ゾイファーJura Soyfer(1912―1939)の体制批判カバレットである。カバレットとは、酒場などで詩の朗読や寸劇を見せる芸のことで、現在もなお、前衛的パフォーマンスとして続いている。

 戦争や収容所体験のあと、言語そのものを反省しながら苦渋に満ちた、まれにみる豊饒(ほうじょう)な詩作が続く。クリスティーネ・ラワントChristine Lavant(1915―1973)、パウル・ツェラーン、インゲボルク・バッハマン、ゲルハルト・フリッチュGerhart Fritsch(1924―1969)、フリーデリケ・マイレッカーFriederike Mayröcker(1924―2021)の活動が目覚ましい。

 ヘルムート・クバルティンガーHelmut Qualtinger(1928―1986)は『カール氏』(1961)によって反「郷土文学」を受け継いだ。そのほか多かれ少なかれそういう傾向は戦後「グルッペ47」(グループ47)に属したイルゼ・アイヒンガー、ユーゴ・セルビア系の出自であるミーロ・ドールMilo Dor(1923―2005)、ペーター・ハントケが挑発的に共有している。風刺歌謡のゲオルク・クライスラーGeorg Kreisler(1922―2011)もまた郷土をからかう余裕のパフォーマンスを旺盛(おうせい)に展開した。

 ガリツィア出身のマネス・シュペルバーManès Sperber(1905―1984)はウィーンを選んで作家活動に没頭したが、同年生まれでブルガリアのスペイン系ユグノーの出自であるエリアス・カネッティは、ウィーンで青春を過ごしドイツ語で著述した。だが、住処(すみか)としたのはチューリヒやロンドンであった。

 1960年代以降、ウィーナー・グルッペ(ウィーン・グループ)のさまざまな芸術的実験、H・C・アルトマンの文体実験、コンラート・バイヤーKonrad Bayer(1932―1964)の前衛テキスト、ゲルハルト・リュームGerhard Rühm(1930― )やエルンスト・ヤンドルErnst Jandl(1925―2000)の視覚詩・音声詩など、これらは猛烈な、ときにバロックな言語遊戯の伝統を受け継ぐコンクレート・ポエジー運動(タイポグラフィーの配列実験運動)でもあるが、一方で戦後不処理を隠蔽(いんぺい)し続けるオーストリア文化一般への激しい批判運動でもあった。

[原 研二]

現在の文学状況

1986年、クルト・ワルトハイムがオーストリア共和国大統領に選出される際、ナチスに協力した過去についての弁明が戦後オーストリアの一般状況を象徴している。各自は「郷土のために」戦い、自分の「義務」を果たしただけであり、それは「みんなが蒙(こうむ)った受難」なのだと。こういう空気に対しては、エルフリーデ・イェリネク、トーマス・ベルンハルト、ゲルハルト・ロートGerhard Roth(1942―2022)など戦後を代表する作家たち、前記の前衛詩人たちやペーター・トゥリーニPeter Turrini(1944― )などが一斉に反大統領の運動を展開した。戦前のホルバートに匹敵する反郷土文学を夭折(ようせつ)の小説家ラインハルト・プリースニッツReinhard Priessnitz(1945―1985)もまた継承している。しかし、ジャーナリズムは彼らをスキャンダルの種として取り扱い、ワルトハイム側も彼らを「オーストリアの品位にもとる」と逆襲している。

 「自由の実現」を合いことばにする作家に対するしっぺ返しの最たるものは、そもそも本が買われない、読まれない一般状況として現れている。1970年代以降もいちばん読まれたのは、旧ナチスお抱え作家カール・ハインリヒ・ワッゲルルによる郷土文芸だという皮肉な現実がある。クリストフ・ランスマイアChristoph Ransmayr(1954― )の小説『最後の世界』(1988)は例外的成功を収めたが、新しいメディアの勃興(ぼっこう)、同時代文学へのきわめて低い関心(売上げの退潮、書評欄の縮小……)、つまり新たな「非識字」状況(アナルファベティズム)と名づけられる現象など、先進国といわれる国々に共通の問題がある。とはいえ、1971年以来続く「シュタイアの秋」という前衛パフォーマンス週間、もろもろの作家会議の開催、1975年以来作家・芸術家のパフォーマンスの場として確固たる地位を占めるアルテ・シュミーデ(ウィーン)などを考えれば、高度な批判創作発表の場は磐石(ばんじゃく)であるということができる。EU(ヨーロッパ連合)が実質的な力をもってくるという新たな事態は、ハプスブルク帝国=ユートピア論を批判してやまない大方の文学者にとっても希望であるだろうし、より自由に表現する世代、フェルディナンド・シュマッツFerdinand Schmatz(1953― )の詩など、新時代のメディアに応じた有力な文学は至る所に開花している。

[原 研二]

『藤村宏著『ロマン主義とリアリズムの間――十九世紀ドイツ・オーストリア文学』(1973・東京大学出版会)』『クラウディオ・マグリス著、鈴木隆雄他訳『オーストリア文学とハプスブルク神話』(1990・書肆風の薔薇)』『中谷彰他著『ドイツ 言語文化と社会――作家・思想家たちの軌跡』(1994・北樹出版)』『中央大学人文科学研究所編『陽気な黙示録――オーストリア文化研究』(1994・中央大学出版部)』『池内紀編著、原研二他訳『ウィーン 聖なる春』(1997・国書刊行会)』『岩本忠夫他著『生のかたち死のかたち――ドイツ文学・思想にみる生と死』(1998・北樹出版)』『エルンスト・ヨーゼフ・ゲルリヒ著、清水健次訳『新訳 オーストリア文学史』(2005・芦書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オーストリア文学」の意味・わかりやすい解説

オーストリア文学
オーストリアぶんがく
Austrian literature

オーストリア文学とドイツ文学とは,さまざまな面での両国の相互的影響と共通の言語のために,はっきり区別することが難しく,一括して扱われることが多い。しかしイタリア,スペイン,スラブ系諸国がオーストリアに与えた影響は強く,そのもとで生まれた英雄伝説,民話などが,この国の最初の文学隆盛期である 13世紀頃の文学の基礎となった。中世からルネサンス期への橋渡しをしたのは,多彩な内容と形式で恋や酒をうたった O.V.ウォルケンシュタインである。15世紀から 16世紀にかけてのルネサンス期には詩人ツェルテスが指導的役割を演じた。17世紀に入ってバロック時代を迎えると宮廷文学と並んで民衆文学も盛んになり,小説ではベーア,演劇では J.A.シュトラニツキーが活躍。18世紀は啓蒙主義とこれに対立したロココ文学の時代であり,19世紀初頭のロマン主義とそれに続くリアリズム期の中間に「ビーダーマイアー」と呼ばれる,現実を回避し自然に没入した人々がいたが,小説家アーダルベルト・シュティフター,詩人ニコラウス・レーナウがこれに入る。女性作家マリー・フォン・エーブナー=エシェンバハ,劇作家ルートウィヒ・アンツェングルーバーは 19世紀後半のリアリズム期に属する。詩人ライナー・マリーア・リルケは印象主義から出発して独自の境地を開いた。詩,小説,劇の三つの分野で才能を発揮したフーゴー・フォン・ホーフマンスタール,短編作家ペーター・アルテンベルク,評論家ヘルマン・バール,劇作家で小説家のアルトゥール・シュニッツラーなどは世紀末のウィーンで唯美主義的傾向を示した。テオドール・ドイブラー,ゲオルク・トラークル,フランツ・ウェルフェルは表現主義の代表的詩人である。カルル・クラウスはユニークな評論を残した。ローベルト・ムージル,シュテファン・ツワイク,ヘルマン・ブロッホは 20世紀の世界的な作家である。戦後文学では小説家の H.V.ドーデラーと A.P.ギュータースローなど。これに続く世代では詩人パウル・ツェラーンのほか,イルゼ・アイヒンガー,インゲボルク・バッハマンの 2人の女性作家が注目された。1950年代には前衛的な「ウィーン・グループ」が現れ,1960年代は「フォーラム市民公園」が活躍。1970年代にはそのなかから「グラーツ作家集団」が登場した。また,統一ドイツの出現が「西欧と東欧」という対立を無効にしたことで,「中欧」の思想が文学上の大きなテーマとなりつつある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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