オレンジ自由国
オレンジじゆうこく
Orange Free State
1854~1902年,アフリカ南部に存在したボーア人の国。アフリカーンス語では Oranje-Vrystaat。南アフリカの近代以前の 4地方の一つで,北でトランスバール共和国(→トランスバール),東でナタールと独立国家レソト(→レソト),南と西でケープ植民地に接していた。同地にはヨーロッパから移民が渡ってくるまでツワナ族などバンツー語(→バンツー諸語)を話す半遊牧民が暮らしていた。ヨーロッパからの移民は 18世紀に南方からオレンジ川を渡ってこの地域に入った。19世紀に入るとツワナ族はズールー族の侵攻によって駆逐され,ソト族(→ソト諸族)とグリカ族に取って代わられた。同時にオランダ系移民であるボーア人の入植も始まった。1835年以降,ボーア人多数がイギリスによる支配を逃れてオレンジ川を渡る大移動「グレート・トレック」を展開。イギリスは 1848年にオレンジ川とバール川に挟まれた地域を併合したものの行政秩序を確立できず,ソト族との紛争を経て 1854年撤退を決断した。1854年2月,ボーア人入植者らが独立国としてオレンジ自由国を樹立。新国家の政治機構はボーア人の伝統的な制度にオランダとアメリカ合衆国の立憲主義を組み合わせたもので,直接選挙で選出された大統領と行政評議会が行政権を行使した(→大統領制)。1895年にジェームソン侵攻事件が起こり,オレンジ自由国は南アフリカ戦争へといたるボーア人とイギリス政府間の緊張関係に巻き込まれていった。1899年に始まる南アフリカ戦争で,姉妹国トランスバール共和国の側についてイギリスと交戦。1900年にイギリス軍に首都ブルームフォンテーンを占領され,1902年5月に調印されたフェレーニヒンク条約によりイギリス領植民地となった。1910年に南アフリカ連邦が成立すると,オレンジ自由州となった(→自由州)。
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オレンジ自由国
オレンジじゆうこく
Orange Free State
1854〜1902
南アフリカのブーア(ボーア)人の建てた国
イギリス領ケープ植民地の成立に伴い,同地を追われたブーア人が北に移ってトランスヴァール共和国とともに建国。1870年に世界有数のダイヤモンド鉱山が発見されると,イギリスの介入が強まり,1899年からの南ア(ブーア)戦争に敗れ,1902年イギリスに併合された。1910年には南アフリカ連邦の1州となった。
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オレンジ‐じゆうこく ‥ジイウコク【オレンジ自由国】
(Orange Free State の
訳語) 一八五四年から一九〇二年まで、南アフリカにあったボーア人の国家。ケープ植民地のイギリスに支配されて追われたオランダ系のボーア人が、オレンジ、バール両河間に建国。
ボーア戦争で
英領に
編入された。現在は
南アフリカ共和国の一州。
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デジタル大辞泉
「オレンジ自由国」の意味・読み・例文・類語
オレンジ‐じゆうこく〔‐ジイウコク〕【オレンジ自由国】
《Orange Free State》1854年、ボーア人が南アフリカ北東部、オレンジ川上流に建てた国。首都ブルームフォンティーン。ダイヤモンド鉱の発見後、英国の圧迫を受け、南ア戦争の結果、英国に編入、1910年の南アフリカ連邦の成立後はその一州となった。
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オレンジじゆうこく【オレンジ自由国 Orange Free State】
1854年,ボーア人が現在の南アフリカ共和国内に建てた国。1814年のイギリスのケープ植民地支配に反対したボーア人は,36年A.H.ポトヒーターに率いられ,北方への移動を開始し(グレート・トレック),途中ヌデベレ族と戦いながら,バール川とオレンジ川の北方に定着した。当時イギリスは財政的負担のかかる植民地外の支配をあきらめ,54年ブルームフォンテーン協定によって,ボーア人の自治国オレンジ自由国の建国を許した。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報