日本大百科全書(ニッポニカ) 「オットー(1世)」の意味・わかりやすい解説
オットー(1世)
おっとー
Otto I
(912―973)
ザクセン朝第2代のドイツ国王(在位936~973)、初代の神聖ローマ皇帝(在位962~973)。オットー大帝Otto der Großeとよばれる。王朝の創始者ハインリヒ1世のあと、父王の指名と諸部族の選挙により王位についたが、国内では部族大公の独立化の傾向が強く、外敵の侵入の脅威も大きかった。オットーは、北方ではシュレスウィヒのマルク(辺境領)を置いてデーン人の侵入に備え、東方ではザクセン東境に二つの辺境領を設置、ゲロとヘルマン・ビッルンクをマルク・グラーフ(辺境伯)に任命して、原住ウェンド人の支配にあたらせたほか、マグデブルクの大司教座を新設(968)、その下に多くの司教座を配して、ウェンド人のキリスト教化を推進した。また、マジャール人の侵入をアウクスブルク近郊のレヒフェルトLechfeldにおいて決定的に打ち破り(955)、その脅威を根絶した。この勝利はオットーの名声を内外に高めた。西方では、ロートリンゲンを奪回しようとするフランス王の企図をくじき、逆にフランス国内の政争に調停者として介入するほどの実力を示した。
国内では、ロートリンゲン大公ギゼルベルト、フランケン大公エーベルハルトなどの反抗を鎮圧、ロートリンゲン大公には娘婿コンラート、シュワーベン大公には息子リウドルフ、バイエルン大公には弟ハインリヒと血縁者を配し、ザクセン、フランケンを皇帝の直轄とし、王権の確立を図った。だが、リウドルフがコンラートと結んで反乱を企てる(953~954)に及び、この政策の限界を悟り、教会勢力との提携によって世俗諸侯を抑える政策に転換。弟のマインツ大司教ブルンにロートリンゲンの統治をゆだねたのをはじめ、側近の聖職者を大司教、司教、帝国修道院長として配置、多くの所領と特権とを与えて、国家統一の支柱とした。これは帝国教会政策とよばれ、ザクセン朝、初期ザリエル朝の諸王によって継承されたが、のちに叙任権闘争を惹起(じゃっき)する原因ともなった。
オットーの王権確立の最後を飾るのはイタリア政策である。すでに951年イタリア王の寡婦アーデルハイトの保護を名目に第1回の遠征を行い、彼女と結婚しランゴバルト王の称号を得たが、国内の反乱により兵を収めた。961年、イタリア王を自称するベレンガールに対する教皇ヨハネス12世の救援要請を受け、再度イタリアに遠征、翌年ローマで教皇から皇帝として戴冠(たいかん)された。神聖ローマ帝国の誕生であり、オットーはその皇帝位をビザンティン帝国にも承認させるため、長期間の外交交渉を続け、972年ビザンティン皇女テオファーノを息子オットー2世の妃に迎えることで目的を達した。オットーは学芸の保護にも力を用い、オットー朝ルネサンスを招来した。後世「大帝」とよばれるゆえんである。973年5月7日メムレーベン宮で没した。
[平城照介]