エチオピア

百科事典マイペディア 「エチオピア」の意味・わかりやすい解説

エチオピア

◎正式名称−エチオピア連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Ethiopia。◎面積−112万7127km2。◎人口−8490万人(2010)。◎首都−アディスアベバAddis Ababa(274万人,2007)。◎住民−オロモ(ガラ)人40%,アムハラ人40%など。◎宗教−エチオピア教会50%,イスラム30%など。◎言語−アムハラ語(公用語)40%,ガラ語など。◎通貨−ビルBirr。◎元首−大統領,ムラトゥMulatu Teshome Wirtu(2013年10月就任,任期6年)。◎首相−ハイレマリアムHailemarian Desalegn(2012年8月就任)。◎憲法−1994年12月制定,1995年8月発効。◎国会−二院制。上院(定員108),下院(定員547)。最近の選挙は2010年5月。◎GDP−265億ドル(2008)。◎1人当りGDP−180ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−81.1%(2003)。◎平均寿命−男62.0歳,女65.3歳(2013)。◎乳児死亡率−68‰(2010)。◎識字率−39.0%(2007)。    *    *アフリカ北東部の共和国。古くはアビシニアとも。大部分が標高2400m前後の高原地帯で気候温暖。北東部にダナキル砂漠がある。農業が主で,コーヒーが主産品,重要輸出品。テフ(穀物の一種),大麦,小麦もつくられる。羊,牛,ヤギの畜産もある。アディスアベバを中心に繊維,食品加工など小規模な工業も行われる。〔歴史〕 前10世紀にエジプトの支配を脱し,独立王国が成立したと伝えられる。紀元前後からアクスム王国が発展,4世紀にコプト派のキリスト教が伝わり,のちのエチオピア教会となった。7世紀にイスラム勢力の包囲で,他のキリスト教世界から孤立。のち群小国に分裂。19世紀半ばテオドロス2世の手によって統一国家が出現。1889年メネリク2世が即位,エリトリアを占領後エチオピアに攻め入ったイタリア軍を1896年,アドワの戦で撃退した。1936年イタリアに占領されたが,1941年独立を回復(イタリア・エチオピア戦争)。1952年エリトリアと連邦を形成,1962年これを併合。1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争(オガデン戦争),および干ばつによる10万人餓死という惨状,石油危機の影響による物価騰貴が引金となって,首都のデモ騒乱から軍隊の反乱が起こり,1974年9月皇帝ハイレ・セラシエ1世は軍部によって逮捕,廃位させられ,翌1975年帝制は廃止となった。1977年臨時軍事評議会議長にメンギストゥが就任,1987年メンギストゥは大統領に就任,人民民主共和国となった。同政権はソ連に強く依存する政策をとったが,エリトリア独立派との戦闘での敗北や干ばつ被災地の拡大など困難な情勢に立たされ,1991年反政府ゲリラ組織に打倒された。1993年5月エリトリアが平和裏に分離・独立。1994年新憲法を制定し,連邦制を採用。政権を奪取したエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)は,親米路線をとっている。1998年5月に勃発したエリトリアとの国境紛争は,2000年6月和平協定の調印で終結へ向かったが,国境画定をめぐってその後大きな進展はない。2006年12月,イスラム原理主義が優勢なソマリアへ侵攻。
→関連項目アフリカアフリカの角ウサマ・ビン・ラディンシミエン国立公園

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エチオピア」の意味・わかりやすい解説

エチオピア
Ethiopia

正式名称 エチオピア連邦民主共和国 Federal Democratic Republic of Ethiopia。
面積 106万3652km2
人口 1億447万7000(2021推計)。
首都 アジスアベバ

アフリカ大陸北東部の国。アムハラ語では Ītyop'iya。西はスーダンと南スーダン,南はケニア,東はソマリアとジブチ,北はエリトリアに国境を接する。国土の大半が標高 2000~3500mのエチオピア高原で,そのほぼ中央部をアフリカ大地溝帯(グレートリフトバレー)が北東から南西方向に貫通。気候は一般に高原性で快適。6~8月が雨季。年平均気温はアジスアベバで 16℃,海岸部で 31℃。降水量は高原部に多く年平均 1270mm,草原や耕地が発達。低地は乾燥が激しく,北東部にはダナキル砂漠が広がる。前数世紀以来アクスム王国(→アクスム)をはじめいくつかの王国が栄えたが,16世紀の一時期イスラムが支配,19世紀末ショア王メネリク2世の時代に近代国家の基礎が築かれた。アフリカ大陸にあって最後まで植民地化を免れた独立国であったが,1936年イタリアが占領,第2次世界大戦で 1941年連合国軍が奪還,1952年,旧イタリア植民地エリトリアとともにエチオピア連邦を結成,1962年エリトリアを完全に統合した。1974年エチオピア革命により帝制を廃止し,社会主義国エチオピア人民民主共和国となったが,1991年エチオピア人民革命民主戦線 EPRDFを中心とする反政府勢力が首都を制圧,暫定政府を樹立した。1994年12月に承認された新憲法のもとで,大統領の地位は形式的なものとし,国民議会が選出する首相に行政権を与えている。議会選挙が実施され,1995年8月エチオピア連邦民主共和国が正式に発足した。住民は,アラビア半島から移住してきたハム系(→ハム語系諸族)とセム系(→セム語系諸族)に大別され,セム系のアムハラ族が古くから支配層を形成。住民の大部分は 4世紀からのコプト派キリスト教徒。農業,牧畜を主とし,コーヒー,皮革が主要輸出品。ほかに自給用として穀類,トウモロコシなどを産する。銅,プラチナの鉱床があるが本格的な開発は行なわれておらず,国民総生産 GNPではアフリカ諸国の平均を下回る。言語の種類は 100をこえるがセム語系(→セム語族)が最も広く用いられ,そのなかのアムハラ語が事実上の公用語。エリトリア地方はイスラム教徒が多く,分離・独立運動が続いていたが,1991年の政変に伴い,1993年に独立を問う住民投票の結果,独立した。(→エチオピア史

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旺文社世界史事典 三訂版 「エチオピア」の解説

エチオピア
Ethiopia

アフリカ北東部,ナイル川上流にある国。アビシニアともいう。首都アディスアベバ
古くからセム語族系およびハム語族系の諸侯が住んでいたが,前15世紀ごろエジプトに征服され,前11世紀末に独立した。1世紀末にアクスム王国が統一。4世紀にはキリスト教化し,単性説的なコプト教会が発展。7世紀にはイスラーム勢力に包囲され,孤立した。10世紀初めアクスム王国は滅び,群小の封建国家が割拠した。15世紀末にポルトガル人に「プレスター=ジョンの国」としてヨーロッパに紹介された。19世紀後半,列強のアフリカ分割が開始されると,特にイタリアの侵略目標となり,1895年の第1回エチオピア戦争となったが,アドワの戦いで撃退し,以来,列強の勢力均衡の中で独立を維持した。1930年ハイレ=セラシェ1世が即位し,立憲君主国となったが,35年,イタリアのファシスト政権による第2回エチオピア戦争の結果,占領された。1942年イギリスの支援で独立を回復。1962年エリトリアを統合,しかし74年2月,軍部のクーデタが起こり,9月皇帝が追放され,75年に共和国となり,77年からメンギスツ政権下で社会主義国家の建設が進められた。いっぽう,1962年の併合直後からのティグレ族によるエリトリア独立闘争に加え,77年にはソマリアの支援をうけた解放勢力によるオガデン州解放運動も起こった。こうした政情不安のなかで1987年,メンギスツ大統領のもとでエチオピア人民民主共和国が発足した。しかし,エリトリア解放勢力と反メンギスツ民主勢力の合流による首都攻勢が進むなか,1991年5月メンギスツが国外に逃亡し,人民革命民主戦線による新政権が成立した。なお,エリトリアは住民投票の結果,1993年5月に独立した。

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精選版 日本国語大辞典 「エチオピア」の意味・読み・例文・類語

エチオピア

(Ethiopia)
[1] アフリカ東北部、紅海に面する国。アビシニア高原の大部分を占める。紀元前からアクスム王国が成立。一九三六年イタリアに併合されたが、四二年独立を回復。六二年から九三年まで北部のエリトリアを併合。七五年帝政廃止。首都アジスアベバ。アビシニア。
[2] (昭和一〇年(一九三五)エチオピア皇帝の来日の頃東京の魚市場に大量に入荷し始めたところから) 魚「しまがつお(縞鰹)」の異名

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世界大百科事典 第2版 「エチオピア」の意味・わかりやすい解説

エチオピア【Ethiopia】

正式名称=エチオピア連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Ethiopia面積=113万3882km2人口(1996)=5671万人首都=アジス・アベバAddis Ababa(日本との時差=-6時間)主要言語=アムハラ語,オロモ語,英語通貨=ビルBirrアフリカ大陸北東部に位置するアフリカ最古の独立国。1974年の革命で帝政が倒れたのち社会主義が宣言され,臨時軍事政権のもとにあったが,87年民政移管をはたした。

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世界大百科事典内のエチオピアの言及

【大航海時代】より

…しかしこれは成功せず,ジョアン2世はとにかく東回りで一刻も早く中国,日本に到着しようとして,アフリカ西海岸にさかんに船を派遣した。この間86年にはニジェール川流域にあったベニン王国と接触し,ここでアフリカ大陸奥地にキリスト教王国(エチオピア)のあることを知った。ジョアン2世はこれを伝説上のキリスト教徒の王プレスター・ジョンの王国であると考え,彼と接触しようとした。…

【プレスター・ジョン伝説】より

…その後この王と王国の実在はカトリック修道士を中心に疑問視されるようになった。そして15~16世紀になると,今度は同じくキリスト教徒のいるエチオピアにプレスター・ジョンの存在を求めるようになり,ヨーロッパ人によるアフリカ探検の原動力となった。なお,エチオピアは〈プレスター・ジョンの国〉と雅称されることがある。…

※「エチオピア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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