エセン(英語表記)Esen

デジタル大辞泉 「エセン」の意味・読み・例文・類語

エセン(Esen)

[?~1454]中国明代、モンゴルオイラート部の族長。全モンゴルを制覇して、オイラートの全盛期を築き、1449年にはに進攻して土木堡どぼくほで明軍を破り英宗捕虜にした(土木の変)。のちみずから大ハン位に就き、大元天聖大ハンと称したが、部下に殺された。也先。

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改訂新版 世界大百科事典 「エセン」の意味・わかりやすい解説

エセン (也先
)
Esen
生没年:?-1454

中国,明代のオイラートの首長。1388年の元朝滅亡後,混乱を続けたモンゴリアでは,1430年西モンゴル族オイラートの部長トゴンが台頭,東モンゴリアにも手を伸ばしたが,チンギス・ハーン家の血を神聖視する通念は依然根強かったため,その末裔トクトア・ブハを名目的なハーンにつけ,みずからはタイシ(太師)と称し実権を握った。39年にトゴンは死に,長子エセンは統一モンゴルの力を利して対外拡張を開始,東はウリヤンハイ三衛・女真人地区,西はハミ,モグーリスターンまでを掌握した。明とは平和通商関係を保持しようとしたが,明側が貿易制限に出たため,1449年四手に分かれて侵攻,迎撃する英宗親征軍を土木堡で大破し,英宗自身をも捕虜とした(土木の変)。翌50年英宗を送還したが,この間しだいにトクトア・ブハと対立を深め,51年これを倒し,53年みずから大元天盛大可汗(ハーン)と称して名実ともに元朝を継承する主権者たることを宣言した。しかし,翌54年部下のアラク知院の反乱で倒された。
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百科事典マイペディア 「エセン」の意味・わかりやすい解説

エセン

漢字では也先。中国,明代のモンゴル,オイラート部の首長。東は東満州から朝鮮に迫り,西は中央アジア進出,南は明と争った。1449年明軍に大勝して英宗を捕え(土木の変),1451年には汗(ハーン)位につき,大元天盛大可汗として元朝の後継者を称した。オイラート最盛期を現出したが,まもなく部下のアラク知院に殺された。
→関連項目ジュンガル正統帝

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エセン」の意味・わかりやすい解説

エセン
えせん
Esen
(?―1454)

15世紀モンゴルの覇者オイラートのチョロス部の指導者(在位1439~54)。父トゴンを継いで全モンゴルの実権を握り、東方では女真(じょしん)を、西方では東チャガタイ・ハン国を制圧し、ウズベクを撃破し、ほとんどチンギス・ハン時代のモンゴル帝国を再現した。中国、明(みん)朝とは朝貢使節の人数の制限問題で衝突し、1449年、四手に分かれて進攻し、土木堡(どぼくほ)において明軍を撃滅して英宗皇帝を捕虜とした(土木の変)。51年に名目上の北元皇帝トクトア・ブハ・ハンを殺し、53年自ら大元天聖大ハンの位に上ったが、翌年、部下の反乱で殺され、オイラート帝国は瓦解(がかい)した。その子孫がジュンガル部のガルダンである。

[岡田英弘]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エセン」の解説

エセン
Esen 也先

?~1454

オイラトの首領。1439年父トゴン(Toghon)を継いでタイシとなり,大ハーン,トクトア・ブハに姉を嫁がせて全モンゴルの実権を握った。四方に勢力を拡張して西は中央アジア,東は満洲,北はシベリア南部を支配した。44年甘粛行省を置き,49年明に侵入して英宗を捕えた(土木の変)。51年トクトア・ブハを殺し,53年にはみずからハーン位につき,大元天聖大可汗と称したが,翌年部下に殺された。

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