エクアドルの古代文化(読み)えくあどるのこだいぶんか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エクアドルの古代文化」の意味・わかりやすい解説

エクアドルの古代文化
えくあどるのこだいぶんか

エクアドルの高原地方からは多くの黒曜石の打製石器が発見されており、ベネズエラのエル・ホボ、ペルーのピキマチャイ、アルゼンチンインカワシボリビアのビスカチャニなどとともに、農耕発生以前の狩猟民が居住していたことは明らかだが、いまのところ集中的に調査が行われたのは、首都キトの近くのエル・インガ遺跡だけである。エル・インガの石器の大部分はスクレーパーだが、北アメリカのクロビス型石器と共通性のある尖頭(せんとう)石器も発見されている。

 狩猟時代から定住時代への変遷は、南部海岸地方のバルディビアやサン・パブロなどにうかがうことができる。いずれも漁労採集に基礎を置いた文化であるが、すでに刻文を主体としたかなり装飾的な土器がつくられており、コロンビアのプエルト・オルミーガとともに、アメリカ大陸最古の土器文化である。また特徴的な女性土偶も多数出土している。バルディビアの起源は紀元前3000~前2500年ごろにさかのぼるとされるが、前1500年ごろグアヤス湾沿岸から内陸にかけてチョレラ文化が興り、彩色土器の伝統が始まった。このころトウモロコシ栽培が始まり、農村集落が発生したと考える学者も少なくない。西暦紀元後、海岸地方の土器文化は多彩な地域的発展を遂げた。南部海岸では、グァンガラの黄地赤彩または黒彩土器がつくられ、身体を刻線や赤彩で飾った男女の土偶も多数制作された。中部海岸のバイーア、ハマ・コアケの文化相においては、型入れの土偶、粘土の枕(まくら)、家屋模型、彩文、ネガティブ文の土器がつくられた。北部海岸のトリタ文化相では、牙(きば)をむき出し四足獣の形をしたスフィンクス的な怪獣像がつくられ、同時に大小の金属製品も制作された。紀元後500年以後は、北部のアタカメス、中部のマンテーニョ、南部のミラグロなどの新しい文化相が発生して、土器制作にさらに特異な表現力が発揮された。一般にエクアドル海岸地方の土器は、その表現における強烈な超現実的空想力が特色である。

 1524年以後、インカ帝国を求めてエクアドル沿岸地方に侵入し始めたスペイン人が、当時の社会の記録を残しているが、小規模な首長制社会が北から南までみいだされ、15世紀末にエクアドルに侵入したインカ人の政治的支配も、海岸までは及ばなかったことがわかる。アタカメス、コアケなど、かなり大きな集中集落も存在していた。

 高原地方の古い時代の様相はまだあまりよくわかっていないが、コロンビアのモミル文化などと同時代にトウモロコシ栽培が導入された可能性が大きい。土器文化はコロンビアとの共通性が強く、ネガティブ文が卓越している。前500年以後中部高原に広がったトゥンカワンという様式はその代表的なものである。その後、プルア、カニャリ、カラなどの文化相でもネガティブ文が著しく多いが、プルア、カニャリでは様式化した人像をかたどった土器も少なくない。エクアドル南部の高原の土器伝統が東部のモンタニャ地方に入り、南のペルーに浸透して、同地域の土器文化の一つの源流になったという見方もある。高原地方においても大きな政治組織は発達せず、多くの首長制社会が並立していたところに、15世紀末、ペルーのインカ人が侵入し、高原の諸文化はインカ文化の強い影響を受けて、クスコ特有の尖底彩文土器や彩色皿が制作されるようになった。その後インカ人の一派はエクアドルに本格的に定着し始め、トゥメパンパ、キトなどに町をつくったが、いずれも、16世紀初めにインカを征服したスペイン人が建設した都市の下敷きとなって消滅し、現在では、カニャル州にあるインガピルカがエクアドルにおけるほとんど唯一のインカ建造物の遺跡である。

[増田義郎]


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