ウルブリヒト(読み)うるぶりひと(英語表記)Walter Ulbricht

デジタル大辞泉 「ウルブリヒト」の意味・読み・例文・類語

ウルブリヒト(Walter Ulbricht)

[1893~1973]ドイツ政治家。1919年、ドイツ共産党入党。第二次大戦後、旧東ドイツ地区に社会主義統一党を結成し書記長就任ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立以後は副首相国家評議会議長などを歴任した。

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精選版 日本国語大辞典 「ウルブリヒト」の意味・読み・例文・類語

ウルブリヒト

(Walter Ulbricht ワルター━) 旧東ドイツの元首。一九一九年ドイツ共産党に入党、ナチ政権成立後ソビエトに亡命。四六年社会主義統一党の書記長、ドイツ民主共和国成立後は第一副首相、党第一書記となり、六〇年国家評議会議長を兼任する。(一八九三‐一九七三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウルブリヒト」の意味・わかりやすい解説

ウルブリヒト
うるぶりひと
Walter Ulbricht
(1893―1973)

ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の政治家。ライプツィヒ生まれ。1912年社会民主党に入り、1919年ドイツ共産党に参加。1921年地方組織の専従員、1923年中央へよばれて組織局と軍事委員会に所属した。1924~1927年たびたびモスクワへ行きコミンテルン組織局で訓練を受ける。1928年帝国議会議員。1933年に亡命、1938年までパリにおいて共産党の国外指導部書記。1938年モスクワへ移り、第二次世界大戦中はドイツ人捕虜への教育宣伝、ソ連軍占領地の軍政に携わり、1943年自由ドイツ国民委員会の創設に参加。1945年ベルリンへ帰還して市政を組織し、共産党再建を指導した。

 1946年、東ドイツ地域の社会民主党との合同になるドイツ社会主義統一党SED。後、ドイツ連邦共和国民主社会党となる)の最高指導部に入り、1950~1953年書記長、1953~1971年第一書記、1949~1960年旧東ドイツ副首相、1960~1971年国家評議会議長(元首)。1971年5月健康上の理由で要職を辞任した。ウルブリヒト体制は国内の政治統制と親ソ政策を基本に、若いテクノクラートを養成し、経済水準の向上成果を収めた。1970年ソ連と西ドイツの急速な接近は東ドイツの頭越しに行われたらしく、彼の引退を決定づけたといわれる。

[中川原徳仁]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ウルブリヒト」の解説

ウルブリヒト
Walter Ulbricht

1893~1973

東ドイツの政治家。家具職人の出。1912年社会民主党入党。19年共産党創立に参加。28~33年国会議員。ナチスの政権掌握とともに亡命。38年以降モスクワにあり,45年ドイツの降伏とともに帰国,東ドイツの政治的組織化にあたる。再建共産党と社会主義統一党において,ソ連との結びつきを背景に権力を握り,50年以後総書記(53年第一書記)として東ドイツの「ソヴィエト化」を指導,国家評議会議長(在任1960~73)となって党と国家の頂点に立った。「ベルリンの壁」構築後は「新経済政策」で東ドイツの経済力の向上,またこの国の国際的地位の向上にも貢献したが,その独裁的指導は党内に亀裂を生み,71年第一書記退任。国家評議会議長の地位には留まったが,事実上失脚した状態で死去。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウルブリヒト」の意味・わかりやすい解説

ウルブリヒト
Ulbricht, Walter

[生]1893.6.30. ライプチヒ
[没]1973.8.1. ベルリン
東ドイツの政治家。 1912年ドイツ社会民主党入党,第1次世界大戦後スパルタクス団に属しドイツ共産党結成運動に参加。 A.ヒトラーの政権掌握後プラハ,パリ,モスクワに亡命したが,ドイツ降伏直前の 45年4月末帰国し,ドイツ共産党組織の再建とソ連占領下のドイツの行政機構樹立に活躍した。 49年ドイツ民主共和国発足とともに副首相に就任。以後 50年ドイツ社会主義統一党書記長,53年第一書記,60年国家評議会議長として,71年5月に党第一書記の地位を E.ホーネッカーに譲り,新設の党議長に就任するまで,東ドイツの実質的な最高指導者の地位にあった。国際的にはソ連外交路線の忠実な支持者として知られ,第2次世界大戦後東ドイツの経済安定化と国際的地位向上に努力,西ドイツによる東ドイツの国際法的承認を要求し続けた。

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改訂新版 世界大百科事典 「ウルブリヒト」の意味・わかりやすい解説

ウルブリヒト
Walter Ulbricht
生没年:1893-1973

ドイツ労働運動指導者。木工職人の出身で1919年ドイツ共産党に入党,28年国会議員となるが,33年フランス,のちにソ連に亡命。45年帰国,50年ドイツ社会主義統一党書記長(-1971)となり,以後一貫して党を指導。60年ピークの死後ドイツ民主共和国(東ドイツ)国家評議会議長(事実上の元首)となる。大衆には人気がなかったが,強い意志で同共和国の強化につとめる一方,ドイツ再統一の夢をも追い続けた。
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百科事典マイペディア 「ウルブリヒト」の意味・わかりやすい解説

ウルブリヒト

ドイツの政治家。1912年社会民主党に加入,スパルタクス団を経て1919年共産党に加わり,テールマンとともに党を指導。1933年ナチスに追われ,モスクワに亡命して自由ドイツ国民委員会を創立。第2次大戦後帰国してドイツ社会主義統一党創立に尽力,書記長となり,ドイツ民主共和国(東ドイツ)初代副首相を経て1960年国家評議会議長(元首)となる。
→関連項目ドイツ民主共和国ホーネッカー

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旺文社世界史事典 三訂版 「ウルブリヒト」の解説

ウルブリヒト
Walter Ulbricht

1893〜1973
旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)の政治家
早くから労働運動に参加し,1919年ドイツ共産党に加入,28年より国会議員。ナチス政権の成立後,ソ連に亡命(1933〜45)。第二次世界大戦後,社会主義統一党(ドイツ統一社会党)を結成して書記長となり,1949年ドイツ民主共和国の成立後,副首相・党第一書記をへて国家評議会議長となる。

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世界大百科事典(旧版)内のウルブリヒトの言及

【ドイツ共産党】より

… ナチス政権成立後,33年2月国会放火事件が起きると,ナチスはこれを共産党の責に帰して弾圧を開始,テールマンをはじめ,有力活動家を逮捕,投獄し,3月には党そのものも非合法化した。党指導部はパリ,次いでモスクワに逃れ,35年ピークウルブリヒトらの指導の下に人民戦線戦術に転換したが,ドイツでは残存した党員グループが独自に反ナチス活動を遂行,大きな犠牲を払った。ソ連に逃れた者も少なからぬ数がスターリンの粛清の対象とされたが,自由ドイツ国民委員会などとともに反ファシズム活動に従事した。…

【ドイツ民主共和国】より

…これに対し東ドイツ政府とSEDは,東ドイツの承認,国家連合による再統一という方式をゆずろうとしなかった。もっとも,60年の東ドイツ初代大統領ピークの死後,国家評議会議長として元首の地位につき,党と政府の実権を一身に集めたウルブリヒトは,基本的にはソ連のヨーロッパ政策の枠組みを守ってはいたが,なおドイツ再統一の将来における実現を完全には放棄してはいなかったといわれる。 63年東ドイツ政府とSEDはソ連に対する賠償支払いの完了,ソ連におけるフルシチョフによる非スターリン化の推進などの新たな国内的・国際的条件のもとで,いわゆる物質的刺激をてことする新経済政策の実施に踏み切った。…

※「ウルブリヒト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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