ウスマン・ダン・フォディオ(英語表記)‘Uthmān dan Fodio

世界大百科事典 第2版 の解説

ウスマン・ダン・フォディオ【‘Uthmān dan Fodio】

1754‐1817
19世紀初期,西スーダン地域におけるイスラム改革指導者。スーフィーのイスラム教師・知識人として,イスラム信仰の純化を図り,現在のナイジェリア北西部にフラニ王国を創設し,近隣のハウサ諸国を支配した。15世紀ころにセネガル川上流のフータ・トロ地方から移住したフラニ族の学者の家に生まれ,父や近親のイスラム学者について学び,1774‐75年ころから教師として活動を始めた。80,90年代には,優れたイスラム学者で弟子の一人でもある弟アブド・アッラーフ,息子ムハンマド・ベロとともに,彼の名声は上がり,ハウサ族農民の支持をも得た。

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世界大百科事典内のウスマン・ダン・フォディオの言及

【ナイジェリア】より

…19世紀に入ると,サハラ南縁の地方にはイスラムの改革運動が続出した。ウスマン・ダン・フォディオはソコトを拠点として,堕落したムスリムに対しジハード(聖戦)を起こし,ハウサ諸国をつぎつぎと支配し,フルベを首長として置き,カメルーンにまで及ぶ広大な領域の王国を形成した。 ナイジェリアの中央にはヌペ族ティブ族などの部族も,独自の社会,文化を発達させている。…

【フラニ王国】より

…フルベ族Fulbe(フラニ族Fulani)はニジェール川やセネガル川の上流域で遊牧を営む民族であったが,しだいに東方に移動し,18世紀にはナイジェリア北部のハウサランドHausaland(ハウサ族の居住地)に定着し,イスラムに帰依した。18世紀後半から北部ハウサランドのゴビル王国で活動していたフルベ族の熱心なイスラム指導者ウスマン・ダン・フォディオは,ゴビル王のイスラム信仰を批判し,ハウサ族農民とフルベ族遊牧民とを合体させてジハード(聖戦)を宣言,19世紀初めまでにハウサランド全域を平定した。ウスマンは,東部を息子ムハンマド・ベロに,西部を弟アブド・アッラーフに統治させ,彼自身は学究生活を送った。…

【マーリク派】より

… ハンバル派ほどではないにしても,マーリク派もまた排他的で,他の法学派との摩擦も多かった。しかしムラービト朝,ムワッヒド朝の熱狂的な宗教・政治運動や,ウスマン・ダン・フォディオの〈ジハード国家〉などは,それらの地域で行われていたマーリク派法学の,預言者のスンナが支配するメディナの原始イスラムのウンマに対する回帰の念と無関係ではあるまい。【嶋田 襄平】。…

※「ウスマン・ダン・フォディオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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