ウォーターズ(読み)うぉーたーず(英語表記)Muddy Waters

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウォーターズ」の意味・わかりやすい解説

ウォーターズ
うぉーたーず
Muddy Waters
(1913―1983)

アメリカのブルースシンガーギタリスト。本名マッキンリー・モーガンフィールドMcKinley Morganfield。第二次世界大戦後のシカゴ・バンド・ブルースを確立した。ミシシッピ州イサクェナに生まれる。子供のころ、近くのクリーク(小川)で泥まみれになって遊んでいたことから、その後のミュージシャン名となる「泥んこ水」を得たが、それは彼の音楽そのものを形容するにもふさわしいものだった。母親の死により1918年クラークスデール郊外のストボール・プランテーションに移り、そこで育つ。1930年代初めごろ、ブルース・ハープハーモニカ)についでギターを手にする。デルタ・ブルースミシシッピ川やヤズー川に挟まれたデルタ地帯で古くから盛んに歌われたブルース)の傑物サン・ハウス Son House(1902―1988)に憧れ、ボトルネック・ギター奏法(スライドギター奏法)を学び、また農作業の余暇にストリング・バンドでも演奏している。

 1941年に議会図書館によるフォーク・ミュージック採集のためにストボールにやってきたアラン・ローマックスAlan Lomax(1915―2002)のために初録音、ハウスやロバート・ジョンソンを目標とするウォーターズの若い姿が記録に残された(『ザ・コンプリート・プランテーション・レコーディングス』(1993))。過酷な労働や差別から逃れるため、1943年にはシカゴへの脱出を敢行。昼間は肉体労働をしながら、夜は地元のミュージシャンたちと交流を深めてゆく。当時のシカゴは、サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅠSonny Boy Williamson Ⅰ(1914―1948)、ビッグ・ビル・ブルーンジーBig Bill Broonzy(1893―1958)、タンパ・レッドTampa Red(1904―1981)、ビッグ・メイシオBig Maceo(1905―1953)、メンフィス・ミニーMemphis Minnie(1897―1973)といった、戦前からのミュージシャンが大きな力をもっており、ウォーターズも当初そうした流れに合わせるようなブルースも試みた。

 一方でより泥臭いミシシッピ直送の音は、主にジュー・タウン(ユダヤ移民街)と呼ばれたマクスウェル・ストリートで醸成されていた。チェス・レコードへ録音したデルタ・ブルース・ナンバー「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」(1948)が思わぬ評判を呼び、田舎臭さを前面に出すことに自信をもったウォーターズは、さらにバンド活動を活発に行い、リトル・ウォルターLittle Walter(1930―1968、ブルース・ハープ、ギター)やジミー・ロジャーズJimmy Rogers(1924―1997、ギター)、リロイ・フォスターLeroy Foster(1923―1958、ドラム、ギター)といった気鋭の若手ミュージシャンを従え、ヘッドハンターズの名でクラブを荒す強者(つわもの)として名をあげていく。1950年代に入って、ブルース・ハープとベースをバックにした「ロング・ディスタンス・コール」がヒットし、1953~1954年にはオーティス・スパンOtis Spann(1930―1970)のロッキン・ピアノ(ビート感を強調した乗りのいいピアノ奏法)、フレッド・ビローFred Below(1926―1988)のバック・ビート・ドラム(後打ちビートによるドラム奏法)がついたシカゴ・バンド・サウンドを完成させる。深いフィーリングを伴った思い切りのよいボーカル、ギター、ブルース・ハープは電気化され、タイトでダイナミックなバンド・サウンドは人気を集めた。さらにウィリー・ディクスンWillie Dixon(1915―1992)による特異なキャラクターを持つ楽曲(「フーチー・クーチー・マン」等)によって、ウォーターズはカリスマ性のあるシカゴ・ブルースの覇者となった。

 このころまでの代表作を収めたLP『ザ・ベスト・オブ・マディ・ウォーターズThe Best of Muddy Waters(1957)はCDになってもほぼそのままの内容を収録しており、ブルースあるいはアメリカ音楽を知るうえでは必須のアルバムである。黒人聴衆のなかでの人気は1950年代なかごろがピークだったが、1958年のイギリス公演、1960年のニューポート・ジャズ・フェスティバルへの出演(『アット・ニューポート1960』At Newport 1960(1960)に収録。ここからシカゴ・ブルース・スタンダード「ガット・マイ・モウジョ・ワーキング」が生まれた)等により黒人以外のファンを得た。ローリング・ストーンズが、そのグループ名をウォーターズの曲「ローリン・ストーン」(1950)から採ったこともあり、そのほかのロック・グループや、ポール・バターフィールドPaul Butterfield(1942―1987)、マイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfield(1943―1981)といった白人ブルース・ファン出身のロック青年たちの父親的存在とも目され、彼らとの共演盤「ファーザーズ&サンズ」(1969)は、ロック・ファンにもウォーターズを深く印象づけるものだった。さらに1976年にはジョニー・ウィンターJohnny Winter(1944―2014)に招かれ、ブルー・スカイ・レーベルと契約した。1980年(昭和55)には来日も果したが、晩年のマディは多かれ少なかれ、過去のスタイルをなぞる演出に終始していたことは否めない。

[日暮泰文]

『サンドラ・B・トゥーズ著、西垣浩二訳『マディ・ウォーターズ ブルースの覇者』(1998・ブルース・インターアクションズ)』『Robert Gordon, Keith RichardsCan't Be Satisfied; The Life and Times of Muddy Waters(2002, Little, Brown & Company, New York)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ウォーターズ」の意味・わかりやすい解説

ウォーターズ

米国のブルース・ギター奏者,歌手。本名McKinley Morganfield。R.ジョンソンに代表されるデルタ・ブルースの影響を受けつつ,シカゴを中心に発達したシティ・ブルースとの融合をはかった。エレクトリック・ギターを用いた先駆者の一人でもあり,〈エレクトリック・ブルースの父〉といわれる。ギターのスライド奏法の名手で,シンプルながらも微妙なトーンを用いた,感情豊かな演奏を得意とした。1950年代にバンド活動の全盛期を迎え,《Hoochie Coochie Man》や《Got My Mojo Working》などのヒット曲を吹き込んでいる。
→関連項目ローリング・ストーンズ

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

朝日日本歴史人物事典 「ウォーターズ」の解説

ウォーターズ

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:1842.7.17
幕末・明治初期に日本で西欧風建築を建設したイギリス人建築技術者。アイルランドのバーに生まれる。万延1(1860)年ごろ来日。慶応1(1865)年薩摩(鹿児島)藩の奄美大島白糖工場の建設に従事。以後,明治10(1877)年まで,日本に様々な西欧風施設を建設した。代表的なものとして,大阪造幣寮工場(1871),竹橋陣営(1871),銀座煉瓦街(1878)などがある。弟のアルバート,ヘンリーも来日し,兄トーマスの建設事業などに協力した。明治10年ごろ離日。光緒13(1887)年の中国・上海での住所がわかっているだけで,それ以降の経歴は不明である。<参考文献>三枝進「ウォートルスの経歴に関する英国側資料についてⅠ・Ⅱ」(『銀座の文化研究』6号)

(清水慶一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウォーターズ」の意味・わかりやすい解説

ウォーターズ
Waters, Ethel

[生]1896.10.31. ペンシルバニア,チェスター
[没]1977.9.1. カリフォルニア,チャツワース
アメリカの黒人女優,歌手。初めナイト・クラブで歌っていたが,黒人キャストによるレビュー『アフリカーナ』 (1927) でブロードウェーにデビュー。女優としては『結婚式のメンバー』 (50) などに出演。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ウォーターズ」の解説

ウォーターズ Waters, Thomas James

ウォートルス

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android