ウォーシェル(読み)うぉーしぇる(英語表記)Warshel, Arieh

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウォーシェル」の意味・わかりやすい解説

ウォーシェル
うぉーしぇる
Arieh Warshel
(1940― )

イスラエル、アメリカの生物物理学者。イギリス委任統治領時代のパレスチナ(現、イスラエル)のキブツ(集団農業共同体)、スデ・ナハムSde Nahumで生まれる。1958年から1962年まで徴兵制に基づきイスラエル軍(IDF)に召集され、その後も予備役として1967年、1973年に第3次・第4次中東戦争に従軍し、大尉退役。1962年、イスラエルのハイファにあるイスラエル工科大学に入学し、1966年卒業。ワイツマン科学研究所に入り1967年、1969年にそれぞれ修士号、博士号を取得した。1970年から2年間、アメリカのハーバード大学で博士研究員として働いた後、1972年ワイツマン科学研究所に戻り、1975年より2年間、イギリス医学研究会議(MRC)の分子生物学研究所の研究員も兼務した。1976年に南カリフォルニア大学の化学科助教授、1977年からワイツマン科学研究所準教授、1979年から南カリフォルニア大学に戻り準教授、1984年から同大学教授を務めている。

 ハーバード大学のマーティン・カープラスのもとで、研究に取り組んだ博士研究員時代に、化学反応を正確にシミュレーションするプログラム作成研究を本格化させた。当時のコンピュータは、性能が低く、小さな分子の反応の計算しかできなかったが、二人は、ウォーシェルの同僚だったワイツマン科学研究所のマイケル・レビットの協力も得て、同研究所の大型コンピュータを使い、それまでむずかしかった生体高分子の反応なども再現した。

 さらに二人は、それまでむずかしかった「自由電子」の動きをコンピュータで計算することにも成功した。電子は原子核を周回しているが、いくつかの分子では電子が自由に原子核の間を行き来し、「自由電子」として化学反応の重要な役割を担っている。網膜生体機能と量子化学の関係に興味をもっていたカープラスは、網膜の中の自由電子の動きを量子物理学的な方法で、通常の電子の動きを古典的な方法で処理してシミュレーションすることに成功した。これで光が当たった網膜の中で自由電子がエネルギーを得て、網膜の分子構造を変えるという視覚プロセスを再現できた。

 2年後、ウォーシェルがイスラエルのワイツマン科学研究所に戻ると、MRC分子生物科学研究所から派遣されていたレビットと再会。DNA、RNA、タンパク質など生体分子のコンピュータ解析で世界をリードするレビットと、酵素など生体内でダイナミックな動きをみせる高分子のコンピュータ解析の共同研究をスタートした。それまでは、反応のない生体分子の解析しかできなかったが、二人は1976年、化学反応の活性中心(他の物質、分子と結合して変化しやすい活性部位)を量子力学的手法(QM法)で計算し、活性中心以外の部分を古典力学的な手法(MM法)でとらえるプログラムを開発、世界で初めて、多糖類を分解する酵素「リゾチーム」の反応を再現できるコンピュータ・モデルを構築することに成功した。この手法は、タンパク質など生体内の巨大な高分子から低分子までの動きを、分子の大きさに関係なく再現できるところが画期的で、マルチスケール法とよばれる。今日の医薬品開発など、薬がどのように生体に作用するかの解析に役だてられている。

 1975~1976年にヨーロッパ分子生物学機構(EMBO:European Molecular Biology Organization)からフェローシップ(研究奨学金)を受け、1993年国際量子生物・薬理学会年次表彰、2003年トルマン・メダルを受賞。2008年イギリス王立化学協会フェロー(特別研究員)、2009年アメリカ科学アカデミー会員に選出された。2013年に、「複雑な化学反応をコンピュータでシミュレーションするマルチスケールモデルの開発」で、カープラス、レビットとともにノーベル化学賞を受賞した。2014年にはイスラエル化学協会賞を受賞した。

[玉村 治 2021年11月17日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウォーシェル」の意味・わかりやすい解説

ウォーシェル
Warshel, Arieh

[生]1940.11.20. パレスチナ,スデナハム
アメリカ合衆国の化学者。パレスチナに生まれ,1966年にイスラエル工科大学(テクニオン)を卒業後,イスラエルのワイツマン研究所で 1967年修士号,1969年博士号を取得。ハーバード大学,ワイツマン研究所,イギリスの MRC分子生物学研究所を経て 1976年に南カリフォルニア大学に移り,1984年教授に就任,2011年特別教授に就任。ワイツマン研究所でマイケル・レビットとともに研究に携わった。1970年に博士研究員としてハーバード大学のマーチン・カープラスのもとで研究を始めた。2人は 1972年,分子の状態を計算している際に,量子力学と古典力学で計算した結果をうまくつなげればよいことを示した。分子の性質について計算をするには,量子力学を元にして計算する方法(量子力学計算 QM)と,古典力学的に計算する方法(分子力学計算 MM)がある。QMは正確だが,計算自体は複雑で大容量のコンピュータと膨大な時間を要する。MMは,計算は容易だが電子状態が必須となる化学反応は扱えない。1976年にレビットと共同で,リゾチームという酵素の反応性を計算するのに,活性中心以外の部分は MMで計算,それが与える影響を考えて活性中心付近は QMで計算する,QM/MM法の基本的な考えを確立した。2013年,生体内の蛋白質など巨大で複雑な分子の働きをコンピュータで効率的に計算する技法,マルチスケールモデルを開発した功績により,カープラス,レビットとともにノーベル化学賞を受賞した。

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