ウェイトリフティング(英語表記)weightlifting

翻訳|weightlifting

改訂新版 世界大百科事典 「ウェイトリフティング」の意味・わかりやすい解説

ウェイトリフティング
weightlifting

バーベルを一定の方法でもち上げて,その挙上重量を競う競技。重量挙げともいう。

旧約聖書に出てくるサムソンや,日本の神話で天の岩屋戸を押し開けた手力雄神(たぢからおのかみ)に代表される怪力者の話は,昔から世界各地にあり,有史時代に入ってからもこれに似た話はいくつも残っている。例えば前6世紀ごろクロトン(現クロトーネ)のミロン(ミロ)は,子牛が成牛になるまで毎日かついで歩く訓練をして筋力を鍛えたという。そして古代オリュンピアの祭典でレスリングに二十数年間無敵を誇った。ところが羊飼いのティトルモスTitormosは,そのミロンでさえもち上げられなかった大石を,肩にかついで14mも歩いたといわれている。

 日本でも昔から大きな石や米俵をもち上げる〈石ざし〉や〈俵ざし〉が行われ,江戸時代にもっとも盛んであった。これらの力比べは,昭和の初めまで全国の農村青年や運送業者,土建業者,穀物販売業者などの間で広く行われていた。もっとも,以上のような力比べは,今日のウェイトリフティングではない。現在のウェイトリフティングに近いものは,19世紀後半,サーカスやミュージックホールの怪力者strong manによって試みられ始めたようである。1891年,ロンドンにあるカフェー・モニカで,両手にそれぞれダンベルをもって行う挙上種目8種によりその挙上回数を争ったのが第1回の世界選手権大会だったといわれる。このときは,イギリスのレビーE.L.Levyが優勝した。しかし,現在のウェイトリフティングとはその種目がかなり異なっていた。

 バーベルを用いた種目によるウェイトリフティングは,近代オリンピックの歴史とともに発展してきた。96年にギリシアアテネで開かれた第1回オリンピック大会で,ウェイトリフティングは体操競技の一環として行われた。このとき採用された種目は〈両手によるクリーン・アンド・ジャークtwo hands clean and jerk〉と〈片手によるクリーン・アンド・ジャークone hand clean and jerk〉の2種類で,体重制限はなく,参加者も少なかった。その後,1924年のパリ大会(第8回)までは,〈両手によるスナッチtwo hands snatch〉や〈片手によるスナッチone hand snatch〉〈両手によるプレスtwo hands clean and press〉などがそのときどき適当に盛り込まれ,種目数も一定しなかった。〈両手によるプレス〉〈両手によるスナッチ〉〈両手によるジャーク〉の3種目方式に統一されたのは,28年のアムステルダム大会(第9回)からである。こうして3種目方式は72年のミュンヘン大会(第20回)まで続いたが,〈プレス〉の判定をめぐってトラブルが絶えず,73年からはこれを除いて〈スナッチ〉〈ジャーク〉の2種目方式に変わり,現在に至っている。1920年に国際ウェイトリフティング連盟International Weightlifting Federation(略称IWF)が設立された。この年開かれたアントワープ・オリンピック大会(第7回)で初めて体重制が設けられた。このときは5階級しかなかったが,第2次世界大戦後,階級が増えていき,現在は次の8階級に分けられている。56kg級(56kg以下),以下同様に62kg級,69kg級,77kg級,85kg級,94kg級,105kg級,+105kg級(105kg以上)である。女子の世界選手権大会は1987年から始まり,2000年のシドニー大会(第27回)からオリンピックにも採用された。現在,次の7階級がある。48kg級,53kg級,58kg級,63kg級,69kg級,75kg級,+75kg級。これらの階級は再改定の可能性もある。

 日本におけるウェイトリフティングの歴史は,1934年3月,IOC(国際オリンピック委員会)委員の嘉納治五郎オーストリアから国際用バーベルを購入,文部省体育研究所でこの競技の研究にとりかからせたことに端を発する。36年5月には全日本体操連盟主催のもとに第1回全日本選手権大会が開かれた。翌37年,体操連盟から独立して,日本重量挙競技連盟(現在の日本ウェイトリフティング協会)が誕生。国際競技への初参加は51年の第1回アジア競技大会(ニューデリー)で,2名の選手が派遣された。オリンピックには52年のヘルシンキ大会(第15回)から参加した。64年の東京大会(第18回)と68年のメキシコ大会(第19回)では,三宅義信がフェザー級に連続優勝,日本チームとしても好成績を残した。世界選手権大会は毎年開催され,オリンピック開催年はオリンピックの競技会がそれを兼ねる。なお,アメリカでは81年に初の全米女子選手権大会が開かれている。

4m四方のプラットフォームと称する競技台の上で,〈スナッチ〉と〈ジャーク〉の2種目が行われる。競技は同一階級内の選手どうしで行う。スナッチ,ジャークともに各3回ずつの試技を許される。バーベルの目方は順次増量されていく。試技はコールされてから1分以内に行う。成功した試技後の重量増加は2.5kg以上とする。一度試みた重量に失敗したからといって,次回の試技でバーベルの重量を下げることはできない。試技の判定は3名のレフェリーが電気判定システムを使って行う。〈白〉が〈成功〉,〈赤〉が〈失敗〉で,判定は多数決で決まる。順位は2種目の各最良記録の合計で争われる。スナッチとジャークの合計による順位以外に種目別の順位もつけられ,それぞれ表彰される。なお合計記録が同一の場合には,競技前に検量した体重の軽いほうが勝者となる。またこの体重も同一の場合には,対象となる記録を先に樹立したほうが上位となる。

 選手の服装はワンピース型ユニフォームで襟なし,体にフィットした見た目にも美しいものでなくてはならない。腰にベルトを巻いてもよいが,この最大幅は12cm以内となっている。選手はウェイトリフィティング・シューズかスポーツ・シューズをはかなくてはならない。かかとの下が広がっているものは使用できない。
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百科事典マイペディア 「ウェイトリフティング」の意味・わかりやすい解説

ウェイトリフティング

重量挙げとも。バーベルを一定の方法で頭上に持ちあげてその重量を競う競技。スナッチ,ジャークの2種目がある。スナッチは一挙動で引き上げるもので,ジャークは正式にはクリーン・アンド・ジャークといい,バーベルを肩まで引き上げたあと,両足,腰の反動により頭上に差し上げる。各種目について3回ずつ試技を行い,各最高記録を合計した重量で順位を決める。筋力強化のための薬物使用が大きな問題となったため,厳しいテストが課されるとともに,1993年から体重制も改められ,男子は54kg級,59kg級,64kg級,70kg級,76kg級,83kg級,91kg級,99kg級,108kg級,108kg超級の10階級。1987年からは女子の世界選手権大会も開催されるようになり,46kg級,50kg級,54kg級,59kg級,64kg級,70kg級,76kg級,83kg級,83kg超級の9階級に分けて行われている。オリンピックでは男子は第1回アテネオリンピックと1904年のセントルイスオリンピックに体重制限のない片手ジャークと両手ジャークが実施されたが,当時は体操種目の一つとされた。1920年のアントワープオリンピックで体重別の階級分けがなされ,単独の正式種目となった。1996年のアトランタオリンピックでは10階級にまで膨らんだ。2000年のシドニーオリンピック以降男子の階級再編が行われ,現在は8階級で実施されている。女子は2000年シドニーオリンピックから正式種目で7階級となっている。男子は伝統的には旧ソ連が強豪だったが,近年は中国が強豪で,アメリカ,ブルガリアなどが続く。女子は中国が圧倒的な強さを誇っている。日本は男子が,1960年のローマオリンピック56kg級(旧バンタム級)で三宅義信が銀,1964年の東京オリンピックで三宅義信は62kg級(旧フェザー級)で金メダル獲得,一ノ瀬史郎が銅,77kg級(旧ミドル級)で大内仁が銅。三宅義信は1968年のメキシコシティーオリンピックで連続して金メダルを獲得した。メキシコシティーオリンピックでは77kg級(旧ミドル級)で大内仁が銀,62kg級では三宅義信の弟の三宅義行も銅を獲得。他に,1976年のモントリオールオリンピックの56kg級で安藤謙吉が銅,62kg級で平井一正が銅,1984年のロサンゼルスオリンピックで54kg級(旧フライ級)で真鍋和人が銅,56kg級で小高正宏が銅,85kg級で砂岡良治が銅を獲得した。女子では2012年のロンドンオリンピックで三宅宏美が48kg級で銀メダルを獲得,ウェイトリフティング女子で初の快挙となった。

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