ウィーン体制(読み)ウィーンたいせい

改訂新版 世界大百科事典 「ウィーン体制」の意味・わかりやすい解説

ウィーン体制 (ウィーンたいせい)

1814-15年のウィーン会議で,イギリス,フランス,ロシア,プロイセンオーストリアの五大国が中心となってヨーロッパの政治的再編がはかられたが,その後ヨーロッパ諸国の勢力均衡を利用しつつ,オーストリア宰相メッテルニヒが中心となって推し進めた,48年革命まで続く政治体制をいう(ドイツ史ではとくに,1848年の三月革命以前のこの時代を三月前期Vormärzとよぶ)。その政治的原理は復古的保守主義であった。

 1801年のヘーゲルの言葉によれば,ドイツはまだなお〈国家〉とはいえなかった。ドイツは政治的にも経済的にも,そして文化的にも四分五裂の分裂状況を呈していたのである。それなりに主権を持った領主約300,帝国直轄領約30,帝国騎士領約1400~1500,貴族数は約4万5000で,彼らは土地および官職のすべてを支配していた。住民の大部分は世襲臣属的な農民であり,約2300の都市は,そのほとんどが人口1000人以下で,未発達であった。この政治的分裂を反映して,経済圏も細分化され,度量衡や貨幣も地方によって異なり,国内市場も未統一であった。たとえばドレスデンからマクデブルクへ行くまでに16の関税線を通過しなければならなかった。要するに〈国民〉という概念は実態的になお未成立であった。ドイツのみならず,イタリアも分裂しており,またオーストリアのハプスブルク帝国は巨大な多民族国家であり,統一的な国民国家ではなかった。したがって,イギリス,フランスとくらべてドイツ,オーストリア,イタリア,東欧諸国は後進的状況を呈していた。しかしそのなかでも,プロイセンとオーストリアの場合は,1810年代以降商工業が徐々に発達し,近代化ないし資本主義化の道をたどり始めた。とくにドイツは,政治的にも統一された国民国家の方向をめざし始める。当時の政治思想としてこのような方向を支えたのは自由主義ないし民主主義である。ウィーン体制はこのような方向に対して,政治的かつ思想的に歯止めをかけようとした復古的分立主義であった。

ウィーン会議の結果,1815年6月8日に,34の主権を持った侯国と四つの自由都市によって〈連邦議定書〉が調印され,〈ドイツ連邦〉が成立した。しかしこれは統一されたドイツ国家ではなく,ドイツ諸侯がその主権を保証し合う君主同盟であって,統一よりも分裂の原理の勝利を意味した。連邦議定書はドイツ連邦の基本法ともいうべきものであったが,そこにはナポレオンに対する勝利を,フランス革命に対する勝利と考えるような復古的原理が貫かれ,したがって市民的要求はほとんど考慮されなかった。すべての連邦内国家に領邦身分制的な憲法ができること,出版・通商・交通の自由が今後審議されることなどが述べられたにすぎない。したがって統一的な国民国家をつくり出そうとする運動もまた鎮圧されることとなった。20年のトロッパウ会議,21年のライバハ会議では〈革命に際しては旧秩序を再建する〉ことが決議され,実際にイタリアではオーストリア軍のナポリ侵入が支持され,ギリシアの民族解放運動(ギリシア解放戦争)に対しては,支配者であるオスマン帝国に間接的支持が与えられた。さらに22年のベロナ会議では,スペイン革命の鎮圧がフランス軍に委嘱されたのである。

 これは,ウィーン会議直後にプロイセン,オーストリア,ロシアを中心にして君主間に結ばれた〈神聖同盟〉の政策でもあったが,それに対する反発はドイツ国内でも生じた。この段階で抵抗の中心となったのは学生であり,その政治目標はリベラルな立場でのドイツ統一であった。1815年イェーナで学生の同郷人組織ブルシェンシャフトが結成され,17年10月には全ドイツの12の大学から468人の学生がワルトブルクに集まり,〈一つのドイツ〉を求めて示威運動を行った。この運動は革命的性格を持つものではなかったけれども,ドイツ連邦はそれに対して権力的に対応した。19年3月23日学生カール・ザントが文筆家コツェブーをロシアのスパイとして殺害した事件を契機に,同年8月〈ドイツ革命〉を鎮圧するためのドイツ連邦閣僚会議が開かれ,〈カールスバート決議〉が行われる。これによって,連邦諸国の国内情勢が不穏となり,しかもその国が連邦決議を遂行する力を持たない場合には,連邦軍を派遣する権利が連邦議会に与えられ,さらに出版物の事前検閲,大学・教師・学生に対する管理が強化されることとなった。同年9月連邦議会はブルシェンシャフトを禁止し,さらに〈革命の陰謀とデマゴギー的組織〉を防ぐために,11月にはマインツに本部をおく〈中央調査委員会〉が設置され,逮捕権と裁判権をもって〈デマゴーク追及〉にあたることになった。

1830年フランスの七月革命によってルイ・フィリップがフランスの王座につき,1815年に始まった王政復古期が終わってブルジョア的な立憲王制が成立した。この七月革命によって神聖同盟の勢力は大きな打撃を受け,ヨーロッパ政治も新しい段階に入る。とりわけベルギー独立戦争が,またポーランドに反ロシア蜂起が生じた。ポーランドでは30年11月士官学校生徒がロシア総督のいるワルシャワ王宮を襲撃し,それを契機に臨時政府が成立し,翌年1月ポーランド議会はポーランド独立を宣言した。しかし9月ロシア軍の侵入の前にワルシャワは陥落する。以後西ヨーロッパ各地にポーランド協会ができ,ポーランドの独立が支援される。西ヨーロッパの文明対ロシアの野蛮という図式が,この時期から人々の意識に定着する。

 1830-31年ドイツ各地に民衆暴動が生じ,それに火をつけられてリベラルな反体制運動の第2の波が生じた。32年5月27日バイエルン官吏ジーベンパイファーPhilipp Jacob Siebenpfeiffer(1789-1845)と弁護士ウィルトJohann Georg August Wirth(1789-1848)らが全国に呼びかけてハンバハ集会を挙行した。〈法的自由とドイツの民族的尊厳〉がそのスローガンであった。集会には,主として手工業者からなる約3万の代表が全ドイツの都市から送られた。これによってドイツにも革命的大衆運動の基盤があることが立証され,ドイツ連邦議会は同年7月検閲を強化し,すべての政治結社を禁止し,連邦諸国相互間での政治的亡命者の引渡しを義務づける等の対応措置をとった。33年4月には学生,知識人,職人,亡命ポーランド将校らがフランクフルト・アム・マインの衛兵所を襲撃し,軍によってただちに鎮圧されたが,それらの事態を前に,オーストリア,プロイセン,ロシアは神聖同盟を更新して政治的弾圧を強化することになった。34年には,詩人G.ビュヒナーと牧師ワイディヒFriedrich Ludwig Weidig(1791-1837)がビラとパンフレットによる体制批判の活動を続け,《ヘッセンの急使》を刊行したが,ワイディヒは逮捕され,国際的警察網と検閲の強化の前に,以後40年までドイツ国内における公然たる反体制運動は影をひそめた。

 以後その運動はドイツ国外で,とりわけパリとスイスで続けられることとなった。パリでは,1834年ドイツ人民協会を母体とする秘密結社〈追放者同盟〉がつくられる。その闘争目標は祖国ドイツであり,立憲制を含めたあらゆる王制の打倒,民主主義的共和制の樹立がそのスローガンとなった。しかし37-38年になると,同盟内部に左右の対立が生じ,左派の職人たちによって義人同盟が結成された。単なる民主主義にはあきたらず,〈財産共同体〉をめざす共産主義の運動がここに生まれるのである。これらの運動は〈手工業者共産主義〉と呼ばれる。しかし,39年のブランキスト蜂起に参加したため,パリの同盟組織は崩壊し,以後同盟はパリ,ロンドン,スイスに分かれて活動することとなる。スイスではワイトリングに指導された義人同盟のほか,マッツィーニの〈若きヨーロッパ〉の流れをくむ〈若きドイツ(青年ドイツ)Junges Deutschland〉が活動し,反封建的絶対主義と外国支配からの人民解放をその闘争目標としていた。

ドイツおよびオーストリアにおける狭義の〈三月前期〉は,1840年以降をさす。この時期に近代化への傾向とそれにともなう諸矛盾が,はっきりと社会の表面に現れてくるのである。すでに1830年代の後半,たとえばハノーファー国王の憲法破棄に抗議したゲッティンゲン大学7教授の運動にも示されたように,立憲制を求めるリベラルな運動はかなり定着した。しかし40年代にはいると,運動はこれらの政治的要求の枠を乗り越えて,はっきりと社会問題を対象とするようになる。ドイツ語での〈共産主義〉という言葉も40年ころ使われ始め,43年ころにはかなり定着するのである。また農業および工業における古い諸関係の弛緩ないし解体が急速に進み,しかもその反面では近代的諸関係はなお未成立という過渡的状況が生じる。44年には,シュレジエン織工一揆が生じ,ドイツにおける〈プロレタリア劇の血の第1幕〉などといわれた。しかしこの時期のプロレタリアートというのは,なお近代的なものではなく,その多くは流動的・過渡的存在であった。さらに1840年代後半にはいると,農村の底辺人口は分解し流動化していくのに,それを吸収する近代的工業はなお十分に存在しないという過渡期の矛盾が表面化して,大衆的貧困が一般化し,不作,伝染病,失業,物価騰貴等によって革命前夜の様相を呈する。47年のベルリンを中心にドイツ各地に起こったいわゆる〈ジャガイモ革命〉は革命の序幕であった。

 プロイセンでは,1823年に八つのラントにラント議会ができたが,それらは土地所有者が排他的に代表するものであって,市民層の代表権はなきに等しかった。47年になって八つのラント議会は統合されるが,しかし身分的な代表原理は元のままであり,したがって48年革命において憲法制定の要求と共に,君主の主権か人民主権かという問題が鋭く提起される。オーストリアでも事態の本質は変わらず,憲法制定議会の召集,国民軍創設,検閲の廃止,封建的賦課の廃止等が市民の要求として提示され,メッテルニヒの失脚,亡命と共にウィーン体制は実質的に終わる。
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百科事典マイペディア 「ウィーン体制」の意味・わかりやすい解説

ウィーン体制【ウィーンたいせい】

1814年―1815年のウィーン会議メッテルニヒに指導されたヨーロッパの政治体制。神聖同盟四国同盟を支柱として自由主義・民族主義運動を弾圧しつつヨーロッパの現状維持を図った国際的保守反動体制である。しかしギリシアをはじめとする諸民族の独立や,七月革命三月革命などを通じて体制は崩壊。
→関連項目カルボナリ党正統主義二月革命(フランス)ブオナローティリソルジメントリバプール伯

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィーン体制」の意味・わかりやすい解説

ウィーン体制
うぃーんたいせい

ナポレオン戦争の戦後処理を通じてつくり出された支配体制。オーストリアの宰相メッテルニヒが主導したことから、欧米ではメッテルニヒ体制Metternich Systemとよぶ。ナポレオン戦争に勝利したヨーロッパの君主、貴族などの復古勢力は、フランス革命を端緒とする革命の大波の復活を抑え込み、ウィーン会議が生んだ国際秩序を維持するためにこの体制を必要としたが、そのために依拠したのが神聖同盟と四国同盟(のちに五国同盟)という2本の柱であった。ウィーン体制のイデオロギー面を担う前者に対して、後者は諸大国間の軍事的、外交的協議機構としての役割を果たした。四(五)大国の指導者は、初め定期的に会合し、スペイン、ナポリで発生した自由主義者の反乱を鎮圧したが、まもなく、神聖同盟の原理のもとに結集する東欧三国(ロシア、オーストリア、プロイセン)と、革命干渉を好まないイギリス、フランスに立場が分裂していった。五大国の利害対立に利せられてギリシアは独立を遂げ、また先進資本主義国としての利益を追求するイギリスの外交によって、中南米諸国はウィーン体制の側からの干渉を免れた。1830年にフランスで七月革命が起こると、ウィーン体制はさらに大きく分裂するようになり、フランス、イギリスが真摯(しんし)協商を形成して自由主義の旗印を掲げると、東欧三国は三国秘密協商を結成して神聖同盟の再興を図るありさまであったが、各地の反乱は「一八四八年の革命」となって噴出し、ウィーン体制は崩壊した。

[百瀬 宏]


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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ウィーン体制」の解説

ウィーン体制(ウィーンたいせい)

ウィーン会議によって樹立されたヨーロッパの国際的政治体制。メッテルニヒ体制とも呼ばれる。正統主義の原則によって回復された政治秩序を諸大国の勢力均衡によって維持しようとする体制で,現状維持により秩序安定をめざしたともいえる。反面,現状の打開をめざして各国に勃興した自由主義,民族主義の運動とは真っ向から対立,これを徹底的に弾圧した。神聖同盟五国同盟などによって支えられたが,イギリスの離反,ギリシアの独立などによって破綻をきたし,1830年,48年の諸革命を通じて動揺,崩壊していった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィーン体制」の意味・わかりやすい解説

ウィーン体制
ウィーンたいせい
Vienna System

ウィーン会議の決定に基づいて組立てられた,ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序。ウィーン会議をリードした諸大国間の四国同盟 (のちフランスを加えて5国) や神聖同盟を骨格とし,自由主義や民族主義を抑圧する保守反動体制であり,メッテルニヒがその指導者であった。 1848年の三月革命で崩壊。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ウィーン体制」の解説

ウィーン体制
ウィーンたいせい

ウィーン会議後,19世紀前半のヨーロッパを支配した保守反動体制
ウィーン会議の原則であった正統主義を維持強化するために神聖同盟・四国同盟が結成され,メッテルニヒを中心として1820年前後に,ドイツのブルシェンシャフト運動,イタリアのカルボナリの運動,スペインやポルトガルの自由主義運動,ロシアのデカブリストの乱など,各地の自由主義・民族主義運動を弾圧した。しかし,この体制もラテンアメリカ諸国の独立,ギリシアの独立,七月革命を契機に動揺し始め,二月革命で完全に崩壊した。

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世界大百科事典(旧版)内のウィーン体制の言及

【反革命】より

…ロシア革命にみられるように,国内の旧体制反革命勢力が革命の国外波及を恐れる外国勢力と結びつき,外国軍による干渉戦争すら引き起こすこともある。 次に,既存体制が革命を予防する場合の体制武装化による反革命の例では,まず1814年のウィーン会議後,メッテルニヒによって組織された神聖同盟体制(ウィーン体制)がある。これはナポレオン失脚後,革命的風潮の漂うヨーロッパの国際秩序を再構築する際に,ロシア皇帝アレクサンドル1世の提案により国際的な反革命軍事体制づくりを行ったものである。…

【48年革命】より

…フランス革命と48年革命の間の時期を〈二重革命の時代〉(ホブズボーム)と呼ぶように,この時期は資本主義的経済体制の発展を象徴するイギリス,フランスの産業革命と依然として大きな影響力を持っていたフランス革命の理念によって規定されていた。政治的にはフランス革命の理念の展開を抑えるウィーン体制が存在していたが,革命の理念はそれを超えてさまざまな展開を示し体制をその基盤から揺り動かした。スペインの〈リエゴの進軍〉(1820),ギリシア解放戦争(1821),フランス七月革命(1830),ポーランドの蜂起(1830),リヨン労働者の蜂起(1830,34),イギリスのチャーチスト運動の高揚(1839,42,48),シュレジエン織工一揆(1844)と続く運動はしだいにフランス革命の理念さえも超えた意味内容を持ったものになっていった。…

【リソルジメント】より

…これ以降,南イタリア(メッツォジョルノ)の農民にとって土地問題は最大の争点となり,リソルジメントの過程に独自の介入を示すことになる。
[カルボナリから青年イタリアへ]
 ナポレオン体制が崩れたあと1815年以降のウィーン体制のもとで,イタリアには次の諸国家が分立する。サボイア朝のサルデーニャ王国,オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国,ハプスブルク家のトスカナ大公国,ローマ教皇の支配する教会国家,スペイン系ブルボン朝の両シチリア王国,それにパルマ公国,モデナ公国,ルッカ公国などで,全体としてオーストリアの強い影響下にあった。…

※「ウィーン体制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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