インド文学(読み)いんどぶんがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インド文学」の意味・わかりやすい解説

インド文学
いんどぶんがく

インドとパキスタンは、1947年にイギリスの統治から独立するとともに、分離して二つの国となり、さらに1971年バングラデシュの独立によって東西パキスタンも分離した。両国分離のおもな原因は宗教上の問題にあったから、インドの文学はヒンドゥー教を、パキスタンの文学はイスラム教を思想的背景とするたてまえであるが、実際にはかならずしもそのとおりではなく、ウルドゥー語によるイスラム教的文学はインドでも行われている。インドとパキスタンの文学は、歴史的には分離して考えることはできないし、スリランカの文学もインド文学に包含される。3国の文学は長い歴史の間に多くの変遷を経過し、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、イスラム教などの宗教を背景とする独自の文学が発達し、また使用言語も、インド・アーリア語系とドラビダ語系に大別され、近代にはさらに多数の地方語の文学も発達したので、その様相はきわめて複雑である。インドの文学は使用言語ごとに、ベーダ文学、プラークリット文学サンスクリット文学、タミル文学、近代諸言語の文学に大別することができる。

[水野善文]

古代・中世のインド文学

古代・中世文学の特色

インドの文芸作品は古来、宗教的思潮を背景とするものが多くを占めていたため、文学史を語る際も、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、イスラム教といった教派の歴史的展開と対照させることがしばしばなされてきた。しかし、純然たる文学という視点にたてば、文学史上のジャンル区分は宗教教派の区分と平行関係にあるわけではない。むしろ、インドにおいて歴史的にも社会的にも非常に複雑な様相を呈している言語状況と照らし合わせながら文学の流れをたどることが、創作・享受・伝承に携わっていたのはどういう人々なのかを知るうえでも肝要である。まず概観を述べてから、個別に詳述しよう。

 広いインド亜大陸の各地には、かつてインダス川沿いに繁栄したインダス文明の担い手と目されるドラビダ民族(ドラビダ語族に属する諸言語を使用、現在も南インドに居住)をはじめ、ムンダ系など、アウストロアジア語族に属する言語を使用する諸民族も居住していたが(現在もインド各地に点在)、紀元前1500年ごろ西方から移入してきたアーリア人による、紀元前1200~1000年ごろ成立の『リグ・べーダ本集(ほんじゅう)』をもって、文芸創作活動の端緒が開かれた。以降、アーリア人が使用するインド・ヨーロッパ語族に属する諸言語による創作活動がインドの文芸の主体であり続けるのだが、そのなかには先住の諸民族の文化的要素も多分に混ざり込んでいること、また、1世紀ごろから南インドで始まったとみられるドラビダ系のタミル文学との間に相互の影響があったことは無視されるべきではなく、今後さらに研究が進めば、具体的事例が次々と解明されるはずである。

 『リグ・ベーダ本集』を初めとするいわゆる「ベーダ文献」群の言語は、広義のサンスクリット語に含められることもあるが、厳密にはベーダ語という呼称が適当である。サンスクリット語とは、紀元前5~4世紀の文法学者パーニニがベーダ語の用例を参照しつつ当時の北西インドの話しことばを整備し体系化したものをさす。文法規則が詳細にわたって規定され、文体等に差異は認められるものの、現在まで固定された形を保つ特殊な言語である。これが社会の上流階級の使用言語および文章用語とされ、万般にわたる文献の具となったのだが、文学の分野では王宮をおもな舞台に2~3世紀ごろからおよそ1000年間「古典サンスクリット文学=カービヤ文学」という形で娯楽を提供した。その一方で、一般民衆は各地で自らの言語を使用していた。それらは総称して「自然な、ありのままの」という意味の単語を用いてプラークリット諸語とよばれる。いわば民衆の日常語であるから、地域的バラエティーのみならず、時間的にもさまざまな要素のもとで刻々と変化し、アパブランシャという段階を経て、10世紀ごろから徐々に近代語の特徴を備え、外来の言語と接触しつつ、ついには今日みられる言語状況へと至るのである。この、中世期までのプラークリット諸語による文学を一括して「プラークリット文学」とよぶことができる。文献化された作品にみられる言語は純然たる話しことばとは異なり、文語とみなさざるをえないものではあるが、民衆の言葉に近いものであることはサンスクリット語との差異の著しさからも明らかである。

 ベーダ文献はそもそも口頭伝承されていたものであり、文字化されたのは後代であった。われわれの眼前に現存する文献の背後に、こうした口承文芸の広大な世界が存在することを念頭に置かなくては、インドの文学史をつぶさに観察することにはならない。口頭で伝承されてきたものが、あるとき文字化され、文芸作品に仕立てあげられ、文献としても伝承されるようになったケースが少なくないのである。『マハーバーラタ』および『ラーマーヤナ』の「二大叙事詩」も民間において、ベーダを保持した人々とは別の、「語り」を生業とする集団によってそれぞれ長く伝承されてきたものがサンスクリット語でまとめられたものなのである。正規のサンスクリット文法を逸脱している形態が散見されるところに、洗練されていない純朴さが認められるが、ここに語られた多くのトピックが、王宮にいたカービヤ詩人によりくみ上げられ、洗練された叙事詩作品や戯曲作品として幾度もよみがえることになる。また二大叙事詩は演劇や影絵芝居といった芸能の形態をとりながら東南アジアなど、おもに東方の諸国に広く伝播(でんぱ)した。

 サンスクリット語で現存する各種の説話集のたぐいも、個々の説話は元来文字どおり人々の語り伝えていたものであったこと、すなわち一般民衆の側にあったことは、3世紀ごろには存在したと推測される最古の説話集『ブリハットカター』がプラークリットの一つであるパイシャーチー語でできていたという伝説からも傍証される。それ以前、やはりプラークリットの一つパーリ語で紀元前4~3世紀に成った、仏教聖典の一角をなす『ジャータカ』(ブッダの過去世物語)は各種の民話を素地としたものであった。そうした作品に採用された説話・民話は、カービヤ文学において幾度も焼き直し、組み替えがなされ、近代語文学へも継承されたから、一つのモチーフがいくつものバージョンにわたって展開していく様子を観察することができる。ただ、現地での民話採録によって今日も口頭伝承の持続が確認される事実からかんがみて、文献伝承と口頭伝承の密接な相乗作用を十分に勘案しなければならない分野といえよう。インドの説話文学は、おもに西方へ広がり、ペルシア、アラビアからヨーロッパ各地にも伝えられている。

 日本の文学でいえば和歌や俳句に相当し、短い単独の詩で一作品を形成しているのがインド文学における抒情(じょじょう)詩である。まさに俳句のように季節の風物詩を織り込んだり、男女間の恋愛の機微を数行で表現するものである。この分野の最初期の詩集に1~2世紀のハーラ編集の『サッタサイー』という作品があるが、これもプラークリットの一種マーハーラーシュトゥリー語によっていた。子音の発音が弱まり頻繁に母音が連続する傾向から必然的に同音異義語が多くなるこの言語は、掛詞(かけことば)などの豊かな表現を可能にするので、抒情詩の創作に最適だとさえいわれている。にもかかわらず、カービヤ詩人たちはこのジャンルも、王族・貴族の娯楽に取り込んでしまう。

 おしなべてインドの文学では、民衆の側で萌芽(ほうが)したものが王宮の雅(みやび)やかな世界にくみ上げられ洗練をみるという傾向を示している。その動きのなかには、巷間(こうかん)の詩人が王宮に登用されるといった創作の当事者たちの移動によるケースも多々あったものと思われる。王宮にあって、王族たちの嗜好(しこう)に基づき、作品の主題およびストーリー展開の独創性よりも表現の美しさを追求することが使命とされたカービヤ詩人たちは、既存の作品と同一の主題であっても臆(おく)することなく採用し、技巧を凝らし独自に脚色して新たな作品に仕立てあげることに専念した。ここに中世期までのインド文学の大きな特徴が認められる。こうした嗜好を反映するもう一つの現象として、比喩(ひゆ)などのさまざまな修辞や文芸鑑賞理論を扱う「文学理論書」が数多く記述されたことがあげられよう。

[水野善文]

ベーダ文学

紀元前1200年から前500年ごろまでの間に逐次創作された一連のベーダ文献は、祭式を重視するバラモン教の宗教文献である。補助文献を除き、すべては神の啓示によるとして天啓文学(シュルティ)とみなされ、聖者が創作した聖伝文学(スムリティ)と区別される。祭式の役割分担ごとに「リグ」(神の勧請と称讃(しょうさん))、「サーマ」(旋律つきの歌詠)、「ヤジュル」(供施などの実務)、「アタルバ」(増益および調伏のち祭式全体の監督)の各べーダがあり、そのそれぞれに「サンヒター(本集)」(讃歌、祭詞の集成)、「ブラーフマナ」(運用法、意義の解説)、「アーラニヤカ」(秘説)、「ウパニシャッド」(哲学的考察)という各部が独立して、あるいは融合して存在する。このうち文学的な観点から重要なのは『リグ・ベーダ本集』である。10巻1028歌よりなるが、実際の創作は複数の詩人によっているから、詩歌によって巧拙の差がある。太陽神、風神などもろもろの自然現象の背後に想定される神々に対して詠まれる華麗、荘重なる讃歌が主体となっている。この、神々を称讃する詩歌の形式は、のちの仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教のいずれにも引き継がれ、ストートラ(讃歌)とよばれるジャンルを形成することになる。

[水野善文]

プラークリット文学

大まかに古層(2~3世紀まで)、中層、新層(10世紀以降)の三つに時代区分される。古層に属するものとして、パーリ語による仏教聖典群のなかに、説話文学の上流をなす既述の『ジャータカ』のほか、『テーラ・ガーター』(長老の偈(げ))、『テーリー・ガーター』(長老尼の偈)という詩集には、のちのカービヤ文学の抒情詩的要素をもつ詩があり、文学史の一翼を担うものとみなしうる。また時代的には中層になるが『マハーバンサ』など、教団史を描いた作品は叙事詩形式をとっていて味わいがある。パーリ仏典の伝統は今日もスリランカや東南アジア諸国に残っている。

 ジャイナ教徒は、白衣派がアルダ・マーガディー語というプラークリットで膨大な聖典を残しているほか、裸形派も時代に応じてさまざまなプラークリット語で創作し、この文学の発展に貢献した。2~3世紀ごろのマーハーラーシュトゥリー語による『パウマチャリヤ』は、後述する叙事詩『ラーマーヤナ』のジャイナ版である。また既述の説話集『ブリハットカター』のジャイナ伝本として『バスデーバヒンディ』という作品も残されている。11~12世紀に出たジャイナの学匠ヘーマチャンドラは多くの学術書に加え、ストートラや叙事詩形式の聖者列伝なども創作し、詩人としての活躍も著しい。

 ハリバドラ(12世紀)による『ネーミナーハ・チャリウ』など、アパブランシャ語による新層を形成する諸作品も、ジャイナ教徒の手によるものが目だつ。

 また、中層の時代、シャウラセーニー語、マーガディー語、パイシャーチー語等は劇用プラークリット語として、カービヤ文学の戯曲作品のなかで、登場人物の身分に応じて、台詞(せりふ)などに使用された。

[水野善文]

二大叙事詩

紀元前10世紀ごろ北インドで実際に起こったと考えられているバラタ族の親族同士、クル族とパーンダバ族との間の18日間の戦争を主題とする『マハーバーラタ』は、もともと吟遊詩人が語り伝えていた骨格部分にもろもろの要素が付加され拡大して、後5世紀ごろまでに、全18巻、補遺「ハリバンシャ」を含めて約10万の詩句からなる現在の形になった。神話、伝説も多く盛られてヒンドゥー教の百科全書的色彩を帯びているが、第6巻にあって約700の詩句よりなる「バガバッド・ギーター」はヒンドゥーの精神を代表するものとして、現在も重んじられている。また、「サービトリー物語」「ナラ王物語」などは個別の詩篇(しへん)としても高く評価されている。

 インドの人々が理想の男性像として敬慕するラーマ神の所行を描くラーマ物語のたぐいは、インド文学史上数多く存在するが、そのうちの最初期に位置するのがバールミーキに帰せられる『ラーマーヤナ』である。全7巻、約2万4000の詩句よりなる現存の形は3世紀ごろできあがったとみられ、言語・文体の洗練度からアーディ・カービヤ(最初のカービヤ作品)と評され、この後迎えるカービヤ文学の先駆と位置づけられることもある。現在のインド人は16世紀トゥルシーダースによるヒンディー語(アワディー方言)の『ラーム・チャリット・マーナス』をもってラーマ物語を代表させることが一般的であるが、それはヒンドゥー教ビシュヌ派のバクティ信仰(信心を重んじる易行道)の隆盛と連動しているからであり、ラーマ物語のインド文化に占める甚大さを証左している。ラーマ物語の伝承がインドのみにとどまらず、東南アジア諸国にも至っていることは前述した。

 同じく巷間の人々(とくに寺院や巡礼地の僧職者)によってヒンドゥー文化の万般にわたる事項が記録されている点で、二大叙事詩とならび称されるプラーナ文献群が、4世紀ごろから成立していたとみられ、おもなものとして18種あげられるが、文学的価値は総じて低い。ただ、10世紀ごろ南インドで成立したとされる『バーガバタ・プラーナ』は、ラーマ神と人気を二分するクリシュナ神の生い立ちを含み、やはりバクティ信仰のなかではぐくまれる15~16世紀のヒンディー(ブラジ・バーシャー方言)文学へ連なる点で重要である。このほかにもヒンドゥー教の各教派が保持する聖典(アーガマ等)が多数あるが文学作品として数え上げられるものではない。

[水野善文]

古典サンスクリット文学=カービヤ文学

カービヤ文学の先陣をきったのは仏教詩人であった。中央アジアで20世紀初め発見された写本断片から、インド最古の戯曲作品が仏教劇であったと判明したが、王宮をおもな舞台とするカービヤ文学であるから、統治する王朝がどの教派を信仰していたかが宮廷詩人の信教に如実に反映されるのである。仏教を奉じたクシャン(クシャーナ)朝のカニシカ王と親交があったとされるアシュバゴーシャ(馬鳴(めみょう))に仏陀(ぶっだ)の生涯を描く叙事詩『ブッダチャリタ』および『サウンダラナンダ』などがある。『ラーマーヤナ』からの影響および後世への影響の両面が認められる点で重要な位置を占める詩人である。同様の重要性をもつ戯曲に、生没年などが未詳であるバーサに帰せられる13作品がある。写本が南インドで発見されているそれらの戯曲の主題は、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』および『ブリハットカター』系の説話などから引かれている。

 カービヤ文学の最高峰はグプタ期の詩聖カーリダーサである。ゲーテも絶賛したといわれる傑作『シャクンタラー』という戯曲作品をはじめ、ラーマを扱う『ラグバンシャ』などの叙事詩、後の使者文学としてしばしば模倣される抒情詩『メーガドゥータ』(雲の使者)などを残している。

 以降、叙事詩にバーラビの『キラータールジュニーヤ』、マーガの『シシュパーラバダ』(いずれもマハーバーラタに取材)や、ラーマ物語のなかに文法規定の例示を意図した特異な作品『ラーバナ・バダ』(バッティBhatti作、6~7世紀)などがある。10~12世紀には、詩人が仕える王侯の事績を織り交ぜた叙事詩も創作された。

 戯曲作品の創作には、仏教信者の王ハルシャ、ラーマを扱う『ウッタララーマチャリタ』などを残すババブーティ、人気を博した『バーニー・サンハーラ』の作者バッタナーラーヤナBhatta Narayana(7~8世紀)、数多くの作品を残す詩人シュードラカShudraka(9~10世紀)などが貢献した。11世紀クリシュナミシュラKrsnamisraによる『プラボーダ・チャンドローダヤ』は、ビシュヌ派の教義の宣揚を意図し、抽象概念が人格化され登場する寓意(ぐうい)劇である点で特徴的だが、この作風はしばしば模倣され、近代語文学でも翻案されることになる。

 散文によって技巧を駆使し奇を衒(てら)った内容の、いわゆる伝奇小説の作者に、ダンディン、スバンドゥSubandhu(7世紀ごろ)、バーナの名前があげられ、いずれも7世紀前後に活躍した。

 プラークリットの『サッタサイー』に端を発した抒情詩の流れのなかには、バルトリハリ、アマル、ビルハナといった詩人たちがいる。12世紀ベンガルの王朝に仕えたジャヤデーバによる『ギータゴービンダ』は、クリシュナとその恋人ラーダーとの恋の機微を詠(うた)う恋愛抒情詩であるが、全体としてはストーリーがあり叙事詩的かつ戯曲的でもあって、形式が特異であるばかりでなく、章節の合間に地元の歌謡形式が採用されていて近代語文学への移行を予兆し、まさにカービヤ文学の終焉(しゅうえん)を象徴する秀品とみなされる。

 説話文学の分野では前述のブリハットカター系にカシミールのソーマデーバSomadeva(11世紀)による『カターサリットサーガラ』(11世紀)など、しばしば大部の説話集が編まれた。それらに組み込まれた一部が独立の作品としても伝えられている例として『ベーターラパンチャビンシャティカー』(屍鬼(しき)二十五話)などがあり、近代語文学にも継承されている。

 教訓を説くことに主眼をおいた説話集に『パンチャタントラ』(5巻よりなる書)とよばれる作品があり、無数とも思えるバージョンが伝わっている。イソップ寓話に比される動物寓話を含むので両者の起源が取りざたされるところだが、インドで生まれたこの種の説話が6世紀にはペルシア語訳されたとされ、その系統から現存する古代シリア語訳(6世紀)、アラビア語訳(750年ごろ)、ヘブライ語訳(12世紀)を経て、スペイン語、ドイツ語(15世紀)、イタリア語、英語(16世紀)にも移植されていたという。インド文学が世界の文学に大きな影響を及ぼした一例である。

[水野善文]

文学理論書

以上みてきたもろもろの文学作品の背後には創作するうえで準拠しなければならない約束事があったはずである。そうでなければ、ジャンルごとの作品形式および韻律等の詩形式にこれほどまでの統制はみられなかったであろう。韻律に関しては、古く、ベーダの補助学の一つに数えあげられていたが、当初はそれも成文化されたルールではなかった。人間の生活万般にわたる諸分野で理論書(シャーストラ)が頻繁に編まれたように、文芸に関しても理論書が編まれるようになるが、その最初は成立が3世紀ごろと目される、バラタBharataの『ナーティヤ・シャーストラ』である。その後、ダンディン、バーマハBhamaha(8世紀)などをはじめ、18世紀ごろの近代語文学に至るまで、多くの詩論家が出た。彼らは比喩(ひゆ)などの修辞法に関して煩瑣(はんさ)なまでの議論をしたり、ラサ論とよばれるインド独特の心理学的考察に基づく文芸鑑賞理論を発展させた。

[水野善文]

近代のインド文学

近代文学の特色

近代インドの諸文学は10~13世紀の間に産声をあげた。サンスクリット、プラークリットなどの古典的な言語は、そのころ史的に変化し、いくつかの言語に分化してきていて、古典語と民衆の話しことばの差異がきわめて大きくなってきた。こうして近代語の萌芽(ほうが)が話しことばのなかにみられるようになり、古典時代の最終段階のアパブランシャ文学と併存または混在する形で諸近代語による賛歌、民謡などの断片的な作品がつくられたのである。それ以来今日まで不断の歴史的展開を遂げてきた近代語の文学は、インド・アーリア語系では、ヒンディー文学、ウルドゥー文学、ベンガル文学、オーリヤー文学、アッサミー文学、パンジャービー文学、グジャラーティー文学、マラーティー文学、シンディー文学、シンハラ文学など多数に上り、ドラビダ語系ではタミル文学、マラヤーラム文学、カンナダ文学、テルグ文学の四つがある。なお、タミル文学の起源はこれらのなかでは例外的に早く、紀元1世紀ごろである。

 これらの文学は、それをはぐくんできた民族・地域・宗派に固有の主題と様式をもってきた。たとえば、古代の文学アカデミーの奨励のもとに編まれてきたサンガム文学(タミル文学)、アラビアの古詩に起源をもつ叙情詩形ガザル(ウルドゥー文学)、後期密教の賛歌チャルヤーパダ(ベンガル文学)、サンスクリット語と近代の民族語との混交文体たるマニプラバーラム(マラヤーラム文学)などは、それらに固有の作品とジャンルである。しかしながら、近代インドの諸文学は一つ一つが孤立した存在ではない。それらはある程度まで共通の時代背景――強大な統一国家の崩壊、群雄割拠、西北方からのムスリム勢力の浸透と支配、イギリスによる植民地化とそれからの解放――のもとに育ってきたのであり、また、プラーナ文献や叙事詩などサンスクリット文学の伝統を共有し、さらに全インド的な広がりをもったバクティ(熱烈信仰)の運動を多くが経験している。したがって、おのおのの文学が固有のものをもちながらも、思想と素材において類似・関連する部分をもあわせもっている。同じ『バーガバタ・プラーナ』の翻案が東のオーリヤー文学ではジャガンナータダーサにより、西のマラーティー文学ではエークナートEknath(1533ごろ―1599ごろ)Kampan(1180ごろ―1250ごろ)により、ともに16世紀に書かれている。『ラーマーヤナ』の翻案も、南のタミル文学では12世紀のカンバンKampan(1180ごろー1250ごろ)の手で、北のヒンディー文学ではトゥルシーダースにより16世紀に著されている。

 近代のインド文学は、イギリスのインド統治を境に三つの時期に分けられる。(1)誕生からイギリス統治の確立まで(18~19世紀)、(2)イギリス統治時代、(3)イギリスからインドとパキスタンが独立(1947)して以降。

[坂田貞二]

誕生からイギリス統治の確立まで

この時期には、諸宗教教団または大小の宮廷に属し、あるいはその周辺にいた人たちにより、主として韻文文学がつくられた。そこでは教団・宗派の教義が賛歌や叙事詩の形で説かれ(スールダースの『スールサーガル』、トゥルシーダースの『ラーム・チャリット・マーナス』など)、王侯の武勇と恋愛が詠まれた(チャンド・バルダーイーChand Bardai(1126ころ―1192ころ)の『プリトビー・ラージ・ラーソー』、ビハーリーラールの『ビハーリー七百吟(サトサイー)』など)。したがって、この時期の文学は限られた人たちのものと解せなくもないが、その背景では、おのおのの宗派が神と人を合一させるためのさまざまな運動を、民衆を巻き込む形で展開させていたし、民間に流布していた歌謡・伝説・物語などが文学につねに素材を提供していたので、民衆に由来する諸要因が宗教文学と宮廷文学の形成に大きく寄与していた。

[坂田貞二]

イギリス統治時代

インドがイギリス統治下に組み込まれてからの文学は、英語を通じて西欧の思想と文学から多くを学び、そのなかから近代の光に照らして自己のあり方を求める運動を展開し、民族意識の形成と発揚に多大な貢献をした。このころには、韻文文学が絶えてなくなったわけではないが、散文文学が主流の座を占めるようになり、主題も宗派の教説と王侯の武勇・恋愛といった定式化された殻から解放され、民族と国家のあり方を問い(バーラテンドゥ・ハリシュチャンドラBharatendu Harishchandra(1850―1885)のエッセイ、プラサードJaishankar Prasad(1889―1937)の詩など)、世俗の人の生活と情念を伝えるもの(プレームチャンドやヤシュパールの長・短編小説など)へと移り変わってきた。

[坂田貞二]

イギリスからの独立以降

インドがイギリスから独立してからは、隷属から解放された喜び、自分たちの新しい社会を建設しようという意気込みが文学にみなぎった(たとえばラームダーリー・シンフRamdhari Singh(1908―1974)、筆名ディンカルDinkarの文化論集)。しかしやがて、宗教・地域・階層・政治的な立場などの相違に起因する国内の対立が噴出して流血の惨事を繰り返すようになり、また、近代的な自我に目覚めた人と彼らを取り巻く伝統的な社会との緊張関係もあらわになってきて、そういう状況に生きる者の苦渋が文学に刻み込まれるようになった(バルマーの小説、ムクティボードの詩など)。

[坂田貞二]

現状と課題

近代インドの文学は、そのあり方自体に大きな悩みをもっていた。社会的な不平等の著しいインドでは、文学の創造と享受に参加できる人が、上層・中層に属する都市の知識人、それもおもに男性に限られていた。そのため、その人たちと大多数を占める他の人々との間に異和感ないしは乖離(かいり)が生じ、それをいかに克服して国民文学を構築するかというのが、インドの諸文学の課題であった。しかしながら、近代インドの文学の創造と享受に参加できる人の層は、1970年代からだいぶ広がってきた。教育の普及、下層中産階級の増大、女性の社会進出などの要因がはたらいて、作者、主人公、読者が現実のインドのありように近づいてきたのである。作家の階層では、マラーティー文学でダヤー・パワールらダリト(踏みにじられた人=不可触民)が小説、詩、評論などを通じて社会的な発言をするようになり、ほかのインド文学にも少なからぬ影響を及ぼしている。主人公に着目すると、ヒンディー語のジャグディーシュチャンドラが1972年の小説『土地も富もなく』で「不可触民」の若者の抵抗と敗北を作品の中心に据えている。また、マンヌー・バンダーリーMannu Bhandari(1931―2021)のヒンディー語小説『アープカ・バンティー(ぼくの庭にマンゴーは実るか)』(1971)は、働く女性の離婚によりその子供バンティーが動揺するさまを描いている。モハシェッタ・デビMahasweta Devi(1926―2016)によるベンガル語の中編『ジャグモーハンの死』(1979)は、部族民の象使いが苦しい生活を余儀なくされていることをとりあげている。主題の点では、インドとパキスタンが分離独立した1947年に両国の国境付近で宗派間対立と抗争から流血の惨事が起こり、その事件から主題をとった作品が出版された。クリシャン・チャンダルのウルドゥー語短編集『ペシャーワル急行』(1947)が出版され、四半世紀を経て1974年にビーシュム・サーヘニーBhisham Sahni(1915―2003)のヒンディー語小説『タマス(暗黒)』が出版された。

 児童文学も、作者と読者を得て国際的な交流をしながら展開している。勇気ある少年の冒険をたたえたA・K・ダッタArup Kumar Datta(1946― )の『カズィランガの小径(密猟者を追え)』(1979、英語)がインドで出版されたのをはじめ、パキスタン、スリランカなどでも英語と諸民族語の物語が単行本や雑誌で普及してきている。インドの児童文学は創作のほかに、古典説話集から題材を多くとっていて、伝統を子供たちに伝えるうえで、大いに寄与していることにも注目したい。

 こうして1970年代は、インドの近代文学が作者、主人公、読者の層を広げて国民的な文学への道を歩み始めたときといえる。この傾向はその後も続いており、1980年代には南インドの山地に暮らす協同組合の活動家の夢を描いた『マレナード物語』(1980)がドラビダ語系であるカンナダ語でK・P・テージャスウィKuppali Puttapa Poornachandra Tejaswi(1938―2007)により書かれた。そのころには、文学作品は諸言語の単行本、ポケットブック、新聞・雑誌の連載などの形で手軽に入手できるようになってきた。

 なお、1980年代以降のインド文学で看過できないのは、インドの作家と外国在住のインド系民族による英語作品である。インドの作家では、『ガイド』(1958)を書いたナラヤンR. K. Narayan(1906―2001)、外国在住作家では『かくも長き旅』(1991)を書き、カナダの文壇に確固たる地位を占めているロヒントン・ミストリーRohinton Mistry(1952― )は、世界中で読者を獲得している。1993年には、文学的な「大事件」がおきた。ビクラム・セートVikram Seth(1952― )の1000ページを超える大部な小説『相応(ふさわ)しい婿』A Suitable Boyが2600万ルピー(約8000万円)で著作権を取得した出版社から発売された。富裕な家の娘の婿選びが、本人の気持ちとは別の思惑で大家族制度のなかで進められるという設定は、伝統的な制度と個人の意志がしばしば軋轢(あつれき)をおこすインドの現実である。この作品は、ノーベル文学賞の候補になったといわれる。

[坂田貞二]

言語系統別のおもな文学

インド文学は、前述したようにその複雑な言語状況に照らし合わせながらみていく必要がある。ここでは、言語系統別の主要な文学について概括する。

[石田英明]

ヒンディー文学

ヒンディー文学は北インドで話されるヒンディー語とその諸方言による文学の総称であり、その始まりは西暦1000年ごろである。初期から中期にかけて(11~18世紀)は各地の方言による韻文を主とする文学が栄え、19世紀なかば以降は共通語としての地位を確立したヒンディー語(カリー・ボーリー方言)による近代文学が発達した。

 初期(11~13世紀)にはさまざまな宗教詩のほか、各地の王侯の英雄叙事詩が好まれた。チャンド・バルダーイーは英雄叙事詩の代表的な詩人である。中期(14~18世紀)は人々の宗教的情熱(とくにヒンドゥー教徒のバクティ信仰)が文学活動にも現れた。クリシュナ信仰詩ではビッディヤーパティVidyapati(1352ごろ―1448)、スールダース、ミーラー・バーイー、ラーマ信仰ではトゥルシーダースが出た。イスラム教の影響を受けた宗教詩人にはカビールがいた。16世紀のジャーエシーはスーフィー思想(イスラム神秘主義)を折り込んだ恋愛物語を書いた。中期の後半にはビハーリーラールらの宮廷詩人が恋愛詩を基調として修辞や技巧を競った。

 ヒンディーの近代文学は19世紀後半にバーラテンドゥがひらいた。彼の功績は散文を推進したことで、戯曲や随筆によって社会意識の覚醒(かくせい)を目ざした。20世紀に入るとM・ドゥビベーディーMahavirprasad Dwivedi(1864―1938)はカリー・ボーリー方言をヒンディーの標準文学語として定着させた。第一次世界大戦後、ロマン主義的なチャーヤーワード(陰影主義)が主流となり、J・プラサードらが植民地支配下での民族的自覚を表現した。1930年代には進歩主義が台頭し、自由を求める民衆の希望と挫折(ざせつ)が描かれた。プレームチャンドは当時の代表的小説家である。40年代後半からアッギェーエは理知主義的なプラヨーグワード(実験主義)を進めた。小説の分野では1950年代なかばにおもに都市の中産階級の心情を描く「新しい短編小説」と地方の農村を描く「地方文学」がおこった。この二つの文学潮流はその後のヒンディー文学の基調となり、大衆の革命的エネルギーに期待を寄せた1970年代の「並行文学」や1980年代から今日に至る「人民文学」などはこの延長線上で展開した。現在は社会の急激な変化に伴い多彩な傾向の作品が生まれているが、「地方文学」は方言を多用して地方へのかかわりをいっそう強め、地方の生活色豊かな作品群を生み出している。

[石田英明]

ウルドゥー文学

10世紀後半から続いたガズナ朝のインド、パンジャーブ地方支配、13世紀以降のデリー・ムスリム諸王朝、1526年に成立したムガル朝と、北インドでは外来のイスラム教徒による王朝が続いた。この間にアラビア語起源の語彙(ごい)を多く含むペルシア語の語彙とデリー周辺で話されていたカリー・ボーリー方言が混交した結果、ウルドゥー語が成立したとされている。北インドのムスリム王朝ではペルシア語の影響が圧倒的に強かったために、南インド・デカン地方のムスリム王朝の下でウルドゥー文学が発達した。北インドでウルドゥー文学が盛んになるのは18世紀に入ってからである。この時代の有名な詩人としてはミール、ソウダー、ミール・ダルドMir Dard(1720/1721―1785)などがいる。ムガル朝の没落に伴い文学の中心はデリーからラクナウのアワド藩王国へと移り、技巧を凝らした詩が好まれるようになった。

 19世紀に入り、イギリスのインド支配が確立されていく過程で、社会変動に対応する動きが文学にも現れ、ナズィール・アフマドNazir Ahmad(1830―1912)は女子教育の重要性を説いた『花嫁の鑑(かがみ)』を執筆した。また詩の分野では定型抒情(じょじょう)詩ガザルを批判し、多様な主題を詠むことを主張する者たちも登場した。ラクナウの芸妓(げいぎ)の生涯が描かれているミルザー・ルスワーMirza Muhammad Hadi Ruswa(1857/1858―1931)の『ウムラーオ・ジャーン・アダー』はウルドゥー語の最初のリアリズム小説として有名である。

 20世紀になるとインドの反英運動が高まりをみせ、ロシア革命、共産主義思想の影響を受け、社会的問題を主題にした小説が執筆されるようになり、インド社会の諸矛盾を鋭く描出したプレームチャンドはウルドゥー現代小説の先駆者となった。このころ、哲学詩人イクバールも登場している。1930年代になると人間心理を巧みに描くサアーダット・ハサン・マントー、社会問題を精力的に取り上げたクリシャン・チャンダル、女性の心理描写に優れたイスマット・チュグターイーIsmat Chughtai(1915―1991)、パンジャーブの農村の貧困や矛盾を告発したアフマド・ナディーム・カースミーなどの作家や社会変革を訴える詩人ファイズなどが登場した。1947年のインド・パキスタン分離独立は多大な人的犠牲を伴うことになり、その凄惨な状況を題材にした小説が多くの作家によって執筆された。小説『火の河』でインド・ムスリムの存在理由を考究したクッラトゥル・アイン・ハイダルQurratul Ain Haidar(1927―2007)、インドやイスラム世界の物語、寓話(ぐうわ)などを素材にして想像力を駆使した作品を執筆しているインティザール・フサインIntizar Hussain(1925―2016)などは注目すべき存在である。

[萩田 博]

ベンガル文学

ベンガル語固有の文字による記述は10世紀に始まり、その最古の文献として知られるのはチョルジャポド(チャルヤーパダ)とよばれる一種の宗教歌である。チョルジャポドは、仏教の影響の色濃い讃歌(さんか)として知られるが、以後中世紀全般にわたって、ベンガルでは宗教詩がその主流を占めた。宮廷文学が発達しなかったベンガルにおいては叙事詩がほとんどみられず、これら宗教詩は叙情的な要素を濃厚にもちつつ民衆の間で発展していった。このような宗教叙情詩を代表するものとしてボイシュノブ・ポダボリがあげられる。これらは、ボイシュノブ(バイシュナバすなわちビシュヌ派)とよばれる詩人たちによる作品群で、ビシュヌ神の化身であるクリシュナ神と牧女ラーダーとの恋物語を基本としているが、宗教的セクトを越えて広く人々に受け入れられ、ベンガル文学の伝統を形づくった。ほかにモンゴル・カッボとよばれるさまざまな神々を詠んだ物語詩も盛んにつくられた。形式上はこれらの宗教詩は歌または歌に近いものがほとんどであり、キルトン(宗教歌謡の形式)やバウル(吟遊詩人の一種)のように、今日においてもその精神の一部は引き継がれている。野外劇のジャットラもまた、中世に始まりいまなお命脈を保っている。

 19世紀初頭にベンガルは、イギリスを通してヨーロッパ文化に触れ、その文学もまた大きく変貌(へんぼう)した。新聞、雑誌類の発行や散文の導入などを経て、19世紀もなかばになるとボンキムチョンドロ・チョットパッダエBankim Chandra Chattopandhyay(1838―1894)のような作家が現れ、小説というジャンルが定着したほか、詩においてはモドゥシュドン・ドットMadhusudan Dutt(1824―1873)、戯曲においてはギリシュチョンドロ・ゴーシュGirischandra Ghosh(1844―1912)がそれぞれの近代的なスタイルを形づくった。そののちに現れたロビンドロナト・タクル(タゴール)は、ベンガル文学史上最大の巨星で、彼は詩、小説、戯曲などあらゆるジャンルに優れた作品を残し、ベンガル語の語法から文学的情緒に至るまで現代ベンガル文学の基盤をつくりあげ、さらにノーベル文学賞受賞(1913)によりその存在を世界に知らしめた。その後もベンガル文学は、作家ショロトチョンドロ・チョットパッダエSaratchandra Chattopadhyaya(1876―1938)や詩人カジ・ノズルル・イスラムKazi Nazrul Islam(1899―1976)など多くの個性的な文学者を輩出している。1947年のインド・パキスタン分離独立、1971年のバングラデシュ独立を経て、ベンガルはインドの西ベンガル州とバングラデシュに二分されているが、東西ベンガルは文学上の遺産を共有しつつそれぞれ独自の発展を遂げている。

[丹羽京子]

マラーティー文学

マラーティー文学はインド中西部のマハラシュトラ州を中心に使用されるマラーティー語による文学で、約1000年の歴史を有している。初期から中期にかけて(11~18世紀)はおもに宗教詩の時代で、19世紀なかばに近代文学が開花した。

 マラーティー語の最初の文学活動はクリシュナ信仰の一派マハーヌバーオ派の宗教詩で、12世紀末ごろのムクンドラージがその代表的な詩人である。マラーティー文学の実質的な創始者とみなされているのは13世紀末のドゥニャーネーシュワルDñãneśvar(1275―1296)で、ビシュヌ派のバクティ信仰(ワールカリー派)に哲学的基盤を与えた。その後、ナームデーオNãmdeo(1270ころ―1350)、エークナート、トゥカーラーム(1608―1649)ら多くの宗教詩人(サント)が続いた。ラーマ信仰ではラームダースRamdas(1608―1681)が出て、シバージーのマラータ王国建設を精神的に支えた。18世紀には宗教詩人の伝統は薄れ、詩の修辞や技巧が重要視されるようになった。モーローパントMoropant(1729―1794)はその時代の代表的な詩人である。

 西洋文化に早くから接したマハラシュトラ地方は近代的な社会改革運動が早くから起こり、19世紀なかばにはザーンベーカルやロークヒトワーデーらが随筆や評論に健筆を振るって、マラーティー近代文学を出発させた。創作文学が本格化するのは19世紀末で、H・N・アープテー(1864―1919)は社会問題を描いた小説や歴史小説で一世を風靡(ふうび)した。20世紀前半は理想主義的な作風のV・S・カーンデーカルVishnu Sakharam Khandekar(1898―1976)と現実主義的なN・S・パドケーNarayan Sitaram Phadke(1894―1978)が小説界をリードした。近代詩は西洋ロマン主義の影響を受けたケーシャブストKeshavsut(1866―1905)によりひらかれた。ロマン主義的な詩はマラーティー詩の伝統で、1920年代の「陽光会」の詩人にも受け継がれた。独立後はマルデーカルBal Sitaram Mardhekar(1909―1956)が新しい感性の詩を導入した。戯曲はマラーティー文学の重要な分野で、ゴービンダーグラジュ(1885―1919)が近代戯曲を確立し、現代のV・テーンドゥルカルVijay Tendulkav(1928―2008)に至っている。独立後の小説界ではG・ガードギールGangadhar Gopel Gadgil(1923―2008)やV・マードグールカル(1927― )らの「新しい短編小説」が新しい人物像を模索した。1960年代なかばに衝撃的に登場したのが社会の最底辺の人々の文学運動である「ダリト文学」である。その衝撃はインドの文学界全体に及び、現在ではインドの多くの言語でその地域の「ダリト文学」が書かれるまでになっている。

[石田英明]

邦訳作品について

インドの文学作品は1980年代以降、比較的バランスよく邦訳されるようになってきた。古典文学は岩波文庫や東洋文庫(平凡社)で、近・現代文学は『現代インド文学選集』(めこん)や『アジアの現代文芸』(大同生命国際文化基金)で、作品の言語別、ジャンル別の専門家による翻訳で出版されている。近・現代インド文学の邦訳の状況については、坂田貞二(さかたていじ)(1938― )「南アジア近代諸語による文学作品の邦訳」(1992・『南アジア研究』第4号所収・日本南アジア学会)、および森本素世子(そよこ)(1955― )「邦訳で読む南アジア近・現代文学」(2000・同誌第12号所収)に詳細が記されている。

[坂田貞二]

『辻直四郎著『サンスクリット文学史』(1973・岩波書店)』『森本達雄編『インドのうた――戦いと瞑想の中から』(1976・法政大学出版局)』『辛島昇編著『インド入門』(1977・東京大学出版会)』『田中於莵弥・坂田貞二著『インドの文学』第2版(1978・ピタカ)』『カーシーナート・シン著、荒木重雄訳『わたしの戦線』(1980・めこん)』『中村元監修・補訳『ジャータカ全集1~10』(1982~1991・春秋社)』『麻田豊訳注『ウルドゥー文学名作選』(1983・大学書林)』『鈴木良明編著『現代ヒンディー文学への招待』(1984・めこん)』『クリシャン・チャンダル著、謝秀麗編『ペシャーワル急行』(1986・めこん)』『アフマド・ナディーム・カースミー著、鈴木斌訳『パルメーシャル・スィング』(1987・大同生命国際文化基金)』『アフマド・ナディーム・カースミー著、鈴木斌訳『静寂』(1988・大同生命国際文化基金)』『モーハン・ラーケーシュ著、田中敏雄訳『焼跡の主』(1989・めこん)』『サアーダット・ハサン・マントー著、鈴木斌・片岡弘次編訳『グルムク・スィングの遺言』(1990・大同生命国際文化基金)』『プレームチャンド著、坂田貞二訳『厳寒の夜――プレームチャンド短篇集』(1990・日本アジア文学協会発行、めこん発売)』『ビーシュム・サーヘニー著、田中敏雄訳『タマス』(1991・大同生命国際文化基金)』『ウペーンドラナート・アシュク著、高橋明監修、三木雄一郎訳『崩れる壁』(1991・大同生命国際文化基金)』『ハディージャ・マストゥール著、鈴木斌編訳『ダーダーと呼ばれた女』(1992・大同生命国際文化基金)』『上村勝彦・宮元啓一編『インドの夢・インドの愛――サンスクリット・アンソロジー』(1994・春秋社)』『藤山覚一郎・横地優子訳『遊女の足蹴――古典インド劇・チャトゥルバーニー』(1994・春秋社)』『ファイズ・アフマド・ファイズ著、片岡弘次訳『ファイズ詩集』(1994・花神社)』『ラシプラム・クリシュナスワミ・ナラヤン著、森本素世子訳『ガイド』(1995・日本アジア文学協会発行、めこん発売)』『丹羽京子編訳『ノズルル詩集』(1995・花神社)』『ロヒントン・ミストリー著、小川高義訳『かくも長き旅』(1996・文芸春秋)』『石田英明訳注『マラーティー短編選集1、2』(1996・大学書林)』『上村勝彦編『インド詩集・夢幻の愛』(1998・春秋社)』『坂田貞二訳注『ヒンディー語民話集』(1999・大学書林)』『マンヌー・バンダーリー著、橋本泰元監訳・きぬのみちえ訳『ぼくの庭にマンゴーは実るか』(1999・段々社発行、星雲社発売)』『長弘毅監訳『現代ヒンディー短編選集1』(1999・大同生命国際文化基金)』『岩本裕訳『カター・サリット・サーガラ1~4』(岩波文庫)』『ダンディン著、田中於莵弥・指田清剛訳『十王子物語』(平凡社・東洋文庫)』『金倉圓照・北川秀則訳『ヒトーパデーシャ』(岩波文庫)』『辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』(岩波文庫)』『カーリダーサ著、辻直四郎訳『シャクンタラー姫』(岩波文庫)』『ソーマデーヴァ著、上村勝彦訳『屍鬼二十五話――インド伝奇集』(平凡社・東洋文庫)』『ヴァールミーキ著、岩本裕訳『ラーマーヤナ1~2』(平凡社・東洋文庫)』『中村元訳『尼僧の告白――テーリーガーター』(岩波文庫)』『中村元訳『仏弟子の告白――テーラガーター』(岩波文庫)』『鎧淳訳『マハーバーラタ ナラ王物語――ダマヤンティ姫の数奇な生涯』(岩波文庫)』『上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』(岩波文庫)』『小倉泰・横地優子訳『ヒンドゥー教の聖典二編――ギータ・ゴーヴィンダ、デーヴィー・マーハートミャ』(平凡社・東洋文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「インド文学」の意味・わかりやすい解説

インド文学 (インドぶんがく)

インドの文学は言語の上からも宗教的背景の上からもきわめて複雑である。かつてインドに行われ,また現在行われている言語は多種多様であるが,それらのうち文学を発達させた言語はインド・ヨーロッパ語族系とドラビダ語族系に大別される。ドラビダ民族の歴史は古いが,その文学は紀元前にさかのぼるものはない。これに反しインド・ヨーロッパ語の文学は過去4000年の長きにわたり,インド文学の主流をなしている。インド文学史は言語史の上から,古代のベーダ文学,中古の古典サンスクリット文学,近世の諸地方語文学に分けられる。古代・中古の文学はインド・アーリヤ語の文学であって,近世の文学もインド・ヨーロッパ語文学を主流とするが,便宜上ドラビダ文学もこれに含める。各時代を通じ文学の背景をなしている宗教思想は,主としてバラモン教ないしヒンドゥー教であるが,仏教やジャイナ教の宗教文学もあり,近世文学においてはヒンドゥー教のほかにイスラム教徒によるウルドゥー文学もある。

前1500年ころイラン地方からインドの北西部に移住したアーリヤ人は,その素朴な詩情を自然賛美の抒情詩歌によって表現した。彼らは宇宙の森羅万象に神性を認め,これを神として崇拝賛美したが,これらの古代詩人による自然神賛歌こそインド文学の夜明けを告げる声であった。その後約1000年にわたるバラモン教の宗教文学を総括してベーダ文学という。ベーダとは元来〈知識〉を意味するが,特に宗教的知識の意味に用いられ,さらに転じてバラモン教の聖典を意味するようになった。ベーダ文学の中核をなしているのは4種のサンヒター(本集)で,このうち諸神を祭壇に勧請してその威徳を賛称するための自然神賛歌など1000余種を集めた《リグ・ベーダ》本集を中心とし,これに歌詠のための《サーマ・ベーダ》,祭式供犠のための《ヤジュル・ベーダ》,攘災招福のための呪詞を集めた《アタルバ・ベーダ》を合わせて4ベーダという。この4ベーダ本集にはおのおのこれに含まれる賛歌祭詞の適用法とその起源,目的,語義などを説明した散文の神学的文献ブラーフマナが付随し,さらにこれを補足して祭式の神秘的意義を説き,特に森林において伝授される秘法を集めたアーラニヤカ(森林書),梵我一如の要諦を説く哲学的文献ウパニシャッド(奥義書)が付随している。古来インドでは,上述のベーダ聖典に関する知識は,聖賢が神の啓示によって感得したものと考えてシュルティ(天啓文学)と呼ばれ,これに対し祭式施行に必要な補助的知識は,師伝口授によるものとしてスムリティ(聖伝文学)と呼ばれる。このベーダ祭式の補助学として発達した6種のベーダーンガ(ベーダ支分)は,音声,祭式,文法,語源,韻律,天文から成り,スートラと呼ぶきわめて簡潔な文章で綴られている。ベーダ文学は時代の推移に伴い,神話的のものから神学的,哲学的,祭儀的となった。

インドの国民的二大叙事詩《マハーバーラタ》と《ラーマーヤナ》は,古代文学と中古文学の中間にあってインド文学史上重要な地位を占め,その影響は国外にまで及んでいる。《マハーバーラタ》はバラタ族に属するクルとパーンドゥの2王族間の大戦争を主題とする大史詩で,18編10万余頌の本文と付録《ハリ・バンシャHarivaṃśa》から成り,4世紀ころに現形を整えるまでに数百年を経過したものと思われ,その間に宗教,神話,伝説,哲学,道徳,制度などに関するおびただしい挿話が増補されて全編の約4/5を占めているが,それらのうち宗教哲学詩《バガバッドギーター》,美しいロマンスと数奇な運命を語る《ナラ王物語》,貞節な妻《サービトリー物語》などは最も有名である。《ラーマーヤナ》はバールミーキの作といわれ,ラーマ王子が魔王ラーバナにさらわれたシーター妃を奪還する冒険武勇譚で,7編2万4000頌から成り,現存の形を整えたのは2世紀ころと推定される。この史詩の言語,文体は洗練され,後世発達したカービヤ文学の起源といわれている。

 《マハーバーラタ》特にその付録《ハリ・バンシャ》の流れを汲む一群の古伝,神話を集めた擬似的歴史書をプラーナと呼び,大プラーナと副プラーナとおのおの18種の名が挙げられている。プラーナとは〈古譚〉を意味し,宇宙の創造,その破壊と再建,神々および聖賢の系譜,人間の始祖マヌの支配する長期間の記述,日種および月種の王族の系譜の5題目を主題とする規定であるが,現存のプラーナ文献の多くはヒンドゥー教の主神ビシュヌとシバの両神に関する神話,伝説を主体とし,信徒は宗派の聖典とみなしている。二大叙事詩の言語はすでに古代のベーダ語に比し変化を示しているが,前4世紀に大文典家パーニニが出て古典サンスクリット語の基礎を確立するに及び,この言語は文章語として,俗語を基礎として発達したプラークリット語とともに,中古文学の用語として使用され,幾多の傑作・逸品を残した。

素朴単純なベーダの宗教文学は,中古文学にいたって内容とともに文体,措辞,韻律の方面で著しい発達をとげ,修辞と技巧を主とする繊細華麗な美文体のカービヤ文学時代を現出し,各分野にインド文学の最盛期を画した。中古文学最初の作家は仏教詩人アシュバゴーシャ(馬鳴(めみよう))である。仏伝に取材した《ブッダチャリタ》(漢訳《仏所行賛》)はその代表作で,数世紀にわたる古典文学隆昌の先駆をなしたが,20世紀初めに中央アジアから彼の仏教劇の断片が発見されたことは,古典劇最古の実例を示すものとして文学史上注目に値する。劇作家バーサ(3世紀ころ)の名は古くからうたわれていたが,彼の作と認定される13種の戯曲は1910年にいたって南インドで発見された。その中の《チャールダッタ》は4幕までの未完成作品であるが,この劇を発展補足させた10幕の戯曲《ムリッチャカティカーMṛcchakaṭikā(土の小車)》はシュードラカの作に帰せられ,初期の古典劇中特異な社会劇として高く評価されている。グプタ朝(4~6世紀)は文運の興隆した時代であるが,その最盛期に詩聖カーリダーサ(4~5世紀)が現れ,古典サンスクリット文学は黄金時代を現出した。カーリダーサは抒情詩,叙事詩,戯曲に縦横の才筆をふるい,傑作《シャクンタラー》劇によってつとに西欧文壇にその名を知られ,インド随一の文豪と呼ばれている。

 カーリダーサ以後約800年間はサンスクリット文学の隆昌期で,抒情詩,叙事詩,戯曲,伝奇小説,説話等各方面に多数の作家,作品を出したが,この間に修辞的技巧は極度に発達して,かえって煩雑な形式主義に堕する弊害にさえ陥った。抒情詩壇においては3種の〈シャタカ〉(百頌の詩集)の作者バルトリハリ(7世紀)の名が最も高く,恋愛詩人アマル(8世紀),ビルハナ(11世紀),ジャヤデーバ(12世紀)らの詩人が輩出した。叙事詩においてはバーラビ(6世紀),バッティBhaṭṭi(7世紀),マーガ(8世紀)らが出て,古代の二大叙事詩に取材して詩的技巧に才腕をふるい,カルハナ(12世紀)はカシミール王統の歴史を述べた《ラージャタランギニー》(1148)によって特異の地位を占めている。戯曲においてカーリダーサと並び称されるのは傑作《マーラティー・マーダバ》ほか2編を残したババブーティ(8世紀)である。仏教の庇護者として文化の興隆に意を用いた戒日王ハルシャ・バルダナ(在位606-647)も自ら戯曲3編を残した。このほかにもバッタナーラーヤナBhaṭṭanārāyaṇa(7~8世紀),ビシャーカダッタViśākhadatta(9世紀),ラージャシェーカラ(10世紀)など多くの劇作家が輩出した。7世紀ころには散文の伝奇小説が台頭し,ダンディン,スバンドゥSubandhu,バーナBāṇaの3巨匠が相前後して出て,独特の分野を開拓した。

 世界文学の上から最も重要な意義をもっているのはインドの説話文学である。5編から成る教訓的説話集《パンチャタントラ》の原本は散逸したが,数種の異本により伝えられ,6世紀以後シリア語,アラビア語等に翻訳され,《カリーラとディムナ》あるいは《ピルパイの物語》の名で広く東西諸国に広がり,世界各国の説話文学に大きな影響を与えている。10万頌から成りパイシャーチー語で書かれたというグナーディヤ作の大説話集《ブリハット・カター》も原本は失われたが,要約本が数種伝わり,ソーマデーバの《カターサリットサーガラ》は最も有名である。これらの説話集は一つの枠物語の中に多数の挿話を包含する形式をとっているが,この形式にのっとり《ベーターラパンチャビンシャティカー(屍鬼二十五話)》《シュカサプタティ鸚鵡七十話)》など小規模な興味本位の説話集も作られた。サンスクリット語の文献は以上のような純文学作品のほかに,哲学,宗教,文法,修辞,辞典など直接文学に関係のあるもの,あるいは法制,経済,美術,音楽,天文,数学,医学,性愛など学術あるいは実際方面のものもあり,韻文で書かれたものもあるので,広義の文学作品とみなされている。

仏教とジャイナ教は各種のプラークリット語を用いて文学作品を残したが,プラークリット語はまたサンスクリット劇において,上流階級の男子を除き婦人や下層階級の登場人物が各種のプラークリット語を用いる規定があったので,文学用語として重要であった。しかしそれ以外にも独特の文学作品を残しており,ハーラ(3~4世紀)の《サッタサイー》はプラークリット抒情詩独自の詩境を示すものとして名高い。

仏教とジャイナ教は古代インドの思想文化史上に偉大な足跡を残したが,この両者はともに独自の宗教文学を発達させた。初期の仏教文学はプラークリット語の古形たるパーリ語を用い,根本仏典の三蔵(ティピタカ)の中には文学的価値の高いものがある。仏陀前生の物語として集録された説話集〈ジャータカ〉は,サンスクリット文学における《パンチャタントラ》とともに東西説話文学上重要である。仏教文学はパーリ語仏典のほかにサンスクリット語による文学的価値の高い経典も多く,またアシュバゴーシャやアーリヤシューラ(聖勇,6世紀)などすぐれた仏教詩人が出ている。ジャイナ教文学は数種のプラークリット語を用いて教祖の伝記や経典を多く残しているが,後にはサンスクリット語も使用し,サンスクリット文学の翻案やその影響をうけた文学作品を残している。
執筆者:

インドの文学について〈近代〉と称するとき,それは,古典的な言語が史的に変化し分化して多数の民族語が形成されるようになったとき(10~13世紀)以降をさす。

 近代のインドには,古くからの四つの言語系統に属する200近い言語とさらに多数のそれらの下位方言があり,それぞれがなんらかの形の文学をもっている。山岳地帯の少数部族民が古くからの神話,伝説,民謡などを今日まで伝えている場合があり,また消滅してしまった部族の口誦伝承が,周囲の有力な言語の話し手の文学の形成に重要な寄与をした場合もある。さらに,外国からの支配者によって比較的新しくもたらされたペルシア語と英語も,本国でつくられた作品を伝えると同時に,インドにおいても文学をつくっている。

 しかし,素材と主題と様式との史的な展開を見せながら,今日まで作品を生み出してきているのは,インド,パキスタン,バングラデシュでは,ヒンディー文学,ウルドゥー文学,ベンガル文学,アッサミー文学,オリヤー文学,パンジャービー文学,シンディー文学,マラーティー文学,グジャラーティー文学(以上,インド・アーリヤ語系),タミル文学,テルグ文学,カンナダ文学,マラヤーラム文学(以上,ドラビダ語系)などに限られる。ただし,最近の地域主義的傾向のなかで,ビハール州のマイティリー方言,ラージャスターン州の諸方言で各種の作品を著し,マイティリー文学,ラージャスターニー文学を樹立しようとの動きもある。なお,ネパールのネパーリー文学とスリランカのシンハラ文学も,民族文学としての一貫した歴史をもっている。

 上に名を掲げた諸文学の萌芽は,10~13世紀ごろに認められる(ただしタミル文学はそれより早く,1世紀ごろ)。その時期は,インドの歴史で大きな転換点となっていた。すなわち,政治的には北インドのグプタ朝,ハルシャ・バルダナ王朝,南インドのチョーラ朝のような広い版図をもつ強力な国家が崩壊し,各地方に群小の勢力が割拠するようになる過程にあたる。その後は,南インドの一部を除く地域がムスリム勢力の政治と文化の影響下に繰りこまれる。言語的には,サンスクリット,プラークリット,アパブランシャといった古典的な言語と近代語との距離が大きくなって,古典語の創造力が弱まる時期である。宗教面では,仏教とジャイナ教が退潮し,ヒンドゥー教が表に出てくるときにあたる。

 近代インドの諸文学は,このような変動の過程でアパブランシャ文学のなかに混在する断片的な賛歌,民話・民謡の様式化という形で姿を示しはじめた。そこには,各文学が古典的な文学と思想を共有し,類似の時代背景をもつという求心的な力が働く一方,各民族に固有の主題と文芸様式を開花させるという地方化への力も働いている。このことを如実に示す例をあげるなら,サンスクリット叙事詩《ラーマーヤナ》が15世紀以降の民族文学で続々と翻案され,ベンガル文学におけるクリッティバース・オージャーの《ラーマーヤナ》,ヒンディー文学におけるトゥルシーダースの《ラーム・チャリット・マーナス》,タミル文学におけるカンバンの《ラーマーヤナ》などが著されている。同一の古典を基盤に置く求心性と,それに独自の解釈を加える地方化・民族化への力が相互に作用するなかから新たな創造がなされたわけである。

 多数の近代語による文学が並存するインドにおける注目すべき特徴は,諸文学相互の影響関係である。古くは,タミル文学のアールワール(神秘的賛歌の吟唱者たち)の作品に盛られた思想と熱情が,バクティの運動の大きなうねりをおこして,北インドの諸文学のバクティ文学の形成に大きな刺激を与えたことがあり,19世紀の事例では,外界に接することの多いベンガル文学とマラーティー文学が新しい思潮と文芸を他に伝えた。このような影響・伝播は,時代が下るにつれて顕著となり,今日では民間の努力と政府(国立文学アカデミー,各州機関)の支援とにより,民族文学のすぐれた作品が他の民族語に翻訳され,一民族の作品を多くの民族が享受する機会が多くなってきている。

 インドの近代文学の流れを通観すると,その発生から19世紀初頭までは,宗教文学と宮廷文学が大部分を占め,ごく一部を除いては韻文によっていた。そののちに,イギリスのインド支配が確立したころから,散文が主流となって民族主義的な作品を生み,自分たちの現実の生活を主題とする作品を多くもつようになってきている。ただし,文学の創造に参加できるのが,いまなお社会の上層と中層の一部,それも大多数が男性であるという現実のもとでは,作品の世界が限定される傾向があり,それを無理に乗り越えようとするとき,上層者が下層民に同情を寄せる視角になり,真の現実から遊離した世界を描く危険を伴う。万人のための文学の成立にはより平等な社会の実現が期待されるわけであるが,同時に今日のインドの文学はその実現への志向を広め深める責務を負うている。

ヒンディー文学というのは,ガンガー(ガンジス)川とヤムナー川の中流域を中心に分布する諸言語,諸方言から成った複数の文語による作品の総称である。すなわち,10世紀から13世紀ごろまでのあいだにラージャスターニー語に基づく文語で,王侯の事績をたたえる叙事詩が多数編まれた。14世紀以降は,アワディー方言による恋愛物語と,同方言を文語化した言語によるラーマ信仰の叙事詩がつくられる一方,ブラジュ方言に基づく文語でクリシュナ信仰の抒情的な詩と技巧的な恋愛詩がよまれるようになった。そして19世紀中ごろからは,ムガル朝治下で広い地域に普及していたカリー・ボーリーKhaṛī Bolī方言が先行の諸文語の語彙をとりいれながら共通語となって,従来の韻文から散文を主とする近・現代文学を担うこととなった。

 ヒンディー文学の主要な潮流を,そのつくり手と主題などに着目しながらほぼ年代順に概観すると,ナルパティ・ナルハーの《ビーサルデーバ・ラーソー》(12世紀),チャンド・バルダーイーの《プリトゥビーラージ・ラーソー》(12世紀末?)などの叙事詩は,宮廷詩人が民間の物語を自由にとりいれながら王侯・貴族をたたえたものである。カビール,ダルムダース(15~16世紀)らの神秘的な短詩は,教団の指導者による教説の展開である。これはベンガルの密教文学の底流をヒンディー文学のバクティ文学に伝える懸橋ともなった。イスラムの神秘主義思想家クトゥバンの《ムリガーワティー》(16世紀初め),同じくジャーエシーの《パドマーワット》などは,アウド地方の民間説話を素材にして,彼らの思想を親しみやすい形で説いた恋愛物語である。ビシュヌ神にかかわるバクティ文学には,同神の化身としてラーマをあがめる系譜とクリシュナをビシュヌ神の化身とする系譜とがある。ラーマ信仰の作品では,トゥルシーダースの叙事詩《ラーム・チャリット・マーナス》,ナーバーダースの《バクト・マール(熱烈信仰者列伝)》(16世紀末)などが今日なお親しまれている。クリシュナ信仰の主要作品には,ビディヤーパティの《パダーワリー(賛歌集)》,スールダースの《スール・サーガル》,ミーラー・バーイーの《パダーワリー》(16世紀)などがある。ラーマ信仰文学もクリシュナ信仰文学も,それぞれの教団・教派の僧の手になるものが多いが,世俗の信徒の寄与も大きい。作詩法の技巧をこらした恋愛詩は,クリシュナ信仰の官能的な側面を強調したもので,王侯・貴族の喜びのために宮廷とその周辺の詩人が献上するという形で多くがよまれている。ケーシャブダースの《ラシクプリヤー》,ビハーリーラールの《サトサイー(七百吟)》(17世紀)などがその代表的な例である。

 以上は大部分が韻文文学であるが,19世紀後半のバーラテンドゥ・ハリシュチャンドラは,評論・戯曲の創作と翻訳を行いながら散文を広めようと努力した。彼の主張の根幹は,インドの伝統を近代の諸条件のもとで再興しようというものである。20世紀初めのドゥビベーディーは,それをさらに進めて,広い世界のなかでインドのありかたを探求する姿勢のなかから,明晰な散文文体を確立させた。
執筆者: 翻訳と啓蒙の時代を経て,第1次世界大戦以降〈チャーヤーワード(陰影主義)〉という広範なロマン主義文学運動が主流となった。1920年代はガンディーの指導する運動が独立運動史に登場する時代である。30年代には社会主義が影響を及ぼすようになり,両大戦間時代は,進歩主義文学運動がロマン主義文学運動を吸収してゆく過程であった。40年代の後半から,進歩主義文学運動の政治至上主義の反動として理知主義文学運動が生まれ,第2次大戦後,ヒンディー文学における試みは詩,小説,戯曲等の分野で多様なものとなっている。
プレームチャンド
執筆者:

11世紀ころから徐々に発達したウルドゥー語は初めヒンディー,ヒンダビーなどと呼ばれて話し言葉の段階にあり,スーフィーたちが布教活動に用いる程度であったが,14世紀中ごろデカンにバフマニー朝が成立すると,文学活動も緒につき叙事詩の詩人が現れるにいたった。バフマニー朝に次いでアーディル・シャーヒー朝(ビジャープル王国),クトゥブ・シャーヒー朝(ゴールコンダ王国)が興ると,スルタンたちの保護を受けて宮廷文学が隆盛期を迎え,ズフーリー,ムキーミー,ロスタミー,ムッラー・ワジュヒー,ガッワーシー,イブン・ニシャーティーらの詩人が多くの叙事詩や散文物語を著し,ダキニー・ウルドゥー文学は最盛期を現出した。クトゥブ・シャーヒー朝第5代スルタンのムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーも優れた詩人であった。1687年にムガル朝がデカンを併合すると文学活動の拠点はデリーに移った。ペルシア語詩が中心であったデリーの詩壇はワリーの影響によってアールズー,ハーティムなどの詩人がウルドゥー抒情詩ガザルをよみ始めた。彼らに次いでサウダー,ダルド,ミールらの著名詩人によって首都デリーを中心にして興ったデリー詩派は,18世紀中ごろに黄金時代を迎えた。一方,ムガル朝の凋落を機にアウド王国に移住した詩人ジュルアト,ムスハフィーやインシャー・アッラー・ハーンによって主都ラクナウを中心に築かれたラクナウ詩派は,ナーシクとアーティシュにより技巧的で華麗な詩風を確立するにいたった。殉教史詩マルシアの二大詩人アニースとダビールも特筆に値する。古典デリー詩派は,ゾウク,ガーリブ,モーミンを最後にして,ムガル朝の瓦解とともに終わった。

 ウルドゥー散文文学は1800年カルカッタに設立されたフォート・ウィリアム・カレッジの教師陣によるペルシア,アラビア,サンスクリット文学の翻訳・翻案活動を契機に発展し,インド大反乱後アフマド・ハーンによって組織された近代文学運動に引き継がれた。ハーリー,シブリー,アーザード,ナジール・アフマドらにより伝記,評論,詩,小説,随筆,歴史などの分野が確立された。現代小説はプレームチャンドの登場で文学の主流を占めるようになった。アリー・アッバース・フサイニー,クリシャン・チャンダル,マントー,アフマド・ナディーム・カースミーらが多くの優れた作品を発表したが,イスマット・チュグターイーを頂点とする女流作家の進出も顕著である。抒情詩ガザルと並び現代詩も非常に多くよまれ,哲学詩人イクバールやファイズのような抵抗詩人を生み出している。短編小説と詩はここ当分文学活動の中心となっていくであろう。現代ウルドゥー文学はインドとパキスタンに分かれて作家と読者が存在するが,文学者や作品の交流は円滑に行われていない。最も緊密な関係にあるヒンディー文学の翻訳はほとんどなく,外国文学も全くといってよいほど紹介されていない。識字率の向上,印刷技術の改良などと共に,ウルドゥー文学の質を高めるためになすべきことは数多くある。
ムスリム五王国
執筆者:

近代に至るまでベンガル文学では宗教詩が圧倒的な比重を占めていた。それらの多くは個々の宗派の行者たちや宮廷詩人たちによって歌うために作られたものである。その背景には膨大な広がりを持つ民間口承文学が存在するが,ベンガルの場合,この両者の境界線が必ずしも明確であるわけではない。古代の文献では,10~12世紀の密教の行者による歌を集めたといわれる《チャルジョ・ギティ》と,12世紀の宮廷詩人ジョエデブの《ギータゴービンダ》が重要である。前者はベンガル語最古の文献でベンガル密教文学の伝統を示すものであり,後者はサンスクリット語の作品ではあるが後のビシュヌ派文学への影響を考えると見逃すことができない。中世の初頭は,トルコ系のイスラム教徒によるベンガル征服のためほぼ200年にわたる空白がある。15世紀に入るとバイシュナバVaiṣṇava(ビシュヌ派。ビシュヌ神の化身クリシュナ神へのバクティ(信愛)を説く一派)の信愛歌を中心とする抒情詩,シャクト(世界の根源力としての女神を信仰する一派)系の霊験記を中心とする神譚や祈りの歌が文学の主流を占める。前者の代表作としてボル・チョンディダシュ(バル・チャンディーダースBaru Caṇḍīdās)の《クリシュナ神賛歌》,チョンディダシュやビッダポティ(ビディヤーパティBidyāpati)の抒情詩。16世紀前半のチョイトンノ(チャイタニヤ)による宗教改革の後,この派の抒情詩文学は全盛時代を迎え,16世紀後半にはゴビンドダシュ(ゴービンドダース),ギャンダシュ(ジュニャーンダース)らの優れた詩人を輩出した。またチョイトンノの伝記を扱ったクリシュノダシュ(クリシュナダースKṛṣṇadās)の《チョイトンノ不滅の生涯》もこの時期の傑作である。一方シャクト系では,モノシャ神,チョンディ神などをめぐる霊験記が多く書かれたが,代表的なものとしてコビコンコン・ムクンドラム(カビカンカン・ムクンダラーム)の《チョンディ神霊験記》(16世紀末ないし17世紀初頭),バロトチョンドロ(バーラトチャンドラ)の《オンノダ神霊験記》(1752)が挙げられる。

 ベンガル近代文学は,英語による近代教育の普及を背景に育った知識人たちによって,〈ベンガル・ルネサンス〉と呼ばれるベンガル文化全般にわたる近代化の動きの中で形成された。その最初の大きな収穫は,1850-60年にかけて小説家のバンキムチャンドラ,詩人のダット,劇作家のディンボンドゥ・ミトロ(ディーナバンドゥ)らによってもたらされた。ことにバンキムチャンドラはベンガル近代散文の確立者として批評・随筆の領域にも幅広い功績を残した。彼によって切り開かれた近代散文をさらに展開すると共に,詩の領域に比類ない業績を残したのはタゴール(タークル)である。この2人によってベンガル文学の黄金時代が築かれたと言えよう。この後20世紀に入って登場した小説家の中ではシャラットチャンドラ,ビブティブション・ボンドパッダエ(ベンガル映画《大地の歌》の原作者),タラションコル・ボンドパッダエ,マニク・ボンドパッダエ,詩人ではイスラーム,ジボナノンド・ダーシュ,ブッドデブ・ボシュらが重要である。第2次大戦後もこれらに続く優れた作家・詩人が輩出している。
執筆者:

ドラビダ民族は,インド亜大陸南部に住むインドの先住民族であるが,彼らの主要グループであるタミル人は,紀元初頭にまでさかのぼる文献を豊富に所有しており,それらの資料は古代インド文化を知る上で,サンスクリット文献に次ぐ重要な位置を占めている。後1世紀から3世紀にかけて主要部分が成立した現存最古のタミル文学《エットゥトハイEṭṭutokai(八つの詞華集)》と《パットゥパートゥPattuppāṭṭu(十の詩編)》は,恋愛や戦争をテーマとした抒情詩や王に対する賛歌がおもな内容で,宮廷学士院〈サンガム〉で編纂されたという伝説に基づいてサンガム文学と呼ばれている。サンスクリット文学と比較して,サンガム文学は世俗的性格が強く,短い韻文の形式を好む点に特色がある。また,タミル最古の文法書《トルハーピアム》も,このころに完成したとみられている。サンガム文学の成立に続く2,3世紀の間,南インドでは仏教とジャイナ教が栄え,倫理的宗教的傾向のある作品が比較的多く作られた。古典タミル文化の象徴とされる箴言集《クラル》(5世紀ころ)がティルバッルバルによって,女性を主人公とするタミル独自の叙事詩《シラパディハーラム》(5世紀中葉?)と《マニメーハライ》(5世紀後半?)が,思想的にジャイナ教に近いイランゴー・アディハルと仏教徒サータナールCāttaṉārによって,それぞれ完成された。6世紀になると仏教とジャイナ教は衰退し,代わってシバ教とビシュヌ教が民衆の間に広まった。7,8世紀を頂点に,ナーヤナール(シバ派),アールワール(ビシュヌ派)と呼ばれる宗教詩人が数多く現れて,熱烈な信仰を歌にうたって各地の寺院を巡り歩いた。彼らの歌は後に集大成されて,シバ派の聖典《ティルムライTirumuṟai》とビシュヌ派の聖典《ナーラーイラディブヤプラバンダムNālāyira-divya-prabandham》となった。

 10世紀から12世紀にかけて,南インドはチョーラ朝の下で最盛期を迎える。このころアーリヤ文化の南インドへの浸透は頂点に達し,サンスクリットの叙事詩やプラーナ文献をモデルとした作品が数多く作られた。現存する作品のうち主要なものとして,ジャイナ教の叙事詩《シーバハ・シンダーマニ》(10世紀前半,ティルタッカデーバルTiruttakkadēvar作),シバ派の聖人の伝記を集めた《ペリヤ・プラーナム》(12世紀前半,シェーキラールCēkkirār作),そして,タミル叙事詩の最高傑作《ラーマの降臨》(12世紀後半?,カンバン作)がある。《ラーマの降臨》は,サンスクリットの叙事詩《ラーマーヤナ》に素材を借りているとはいえ,サンガム以来の豊かなタミル文学の土壌に根を下ろした新しい生き生きした作品となっている。13世紀にチョーラ朝が滅びると,南インドはイスラム勢力とビジャヤナガル王国の支配下に入り,タミル語の権威は著しく低下した。その結果,以後近世に至るまで,神秘思想家シッタルの宗教詩や吟遊詩人たちの作品を除いて,文学的に特筆すべきものは少ない。

 ところで,タミルの古典文献は,サンスクリットの場合と同様にほとんどが韻文で書かれている。しかし17世紀に入ってキリスト教宣教師の活躍が始まると,彼らの影響で,タミル地域でも散文の作品が書き始められた。特に19世紀になって,イギリスの統治が確立して西洋の文物が大量に流入すると,小説,戯曲,伝記といった散文の作品が文学活動の主流を占めるようになった。現代のタミルの作家は短編小説を得意とするが,日常生活から題材を採り,それを短い形式で表現するサンガム文学の伝統が,このような形で今も生き続けている。
執筆者:

インド西部マハーラーシュトラの公用語,マラーティー語による文学をいう。ヤーダバ朝,バフマニー朝から次のマラータ王国期にかけて,この地方に興隆した宗教改革運動としての〈サント(聖賢詩人)〉たちの活動の過程で多くの宗教・哲学作品が残され,これが言語としてのマラーティーの発展に資するとともに,その文学とくに韻文史の上でも重要な意味をもつ。ジュニャーネーシュワル(1271-96)の《バガバッドギーター》の注釈書,エークナート(1533-99?)の諸著作,トゥカーラーム(1608-49)の信仰詩《アバング》,ラームダース(1608-81)の《ダースボード》がその代表である。同時期,大衆的恋愛詩ラーワニーや英雄譚ポーワーダーなどとともに,支配者の業績を綴る散文文学としてのバカルが多く作られた。

 マラーティー文学もイギリス統治確立の過程で西欧近代文明の不可避の影響を受ける。最初のマラーティー・英語辞典(モレスワース辞典)の出版は1831年で,1830-40年からもろもろのマラーティー語定期刊行物が出始める。近代マラーティー語の最初の小説は,パドマンジーB.Padmanjīの《ヤムナーの旅》(1857)とされ,社会改革を主題としている。小説の他の主題はマラータやラージプートを扱う歴史物で,シバージーの前半生を描くR.グンジカル(1843-1901)の作品はその先駆をなす。この2潮流を書き分けたのがH.N.アープテ(1864-1919)で,多くの歴史小説のほか,新しい中間階層の生活を描写する《だが誰が注意を向けよう》(1893)などの社会小説も発表した。彼は19世紀末~20世紀初めのマラーティー文学の一つの頂点であり,多くの模倣者を輩出させた。詩の世界でも多くの作品が生み出され,ケーシャブスト(1866-1905),N.W.ティラク(1865-1919),ビナーヤク(1872-1909),R.G.ガドカリ(1885-1919)らは新しい時代の社会を詩を通じて模索しようとした。

 戦間期(1920-40)にマラーティー小説は高揚期を迎え,N.S.パドケー,P.Y.デーシュパンデ,V.S.カンデーカル,G.T.マドコールカルらは,それぞれ心理・政治・社会小説などによって若い読者をひきつけた。また教育を受けた女性を主人公とする《スシラーの神》(1930)などを書いたV.M.ジョーシ(1882-1943)は今日なお多くの読者をもつ。ガンディーの理想を掲げて国民会議派の政治・社会活動と結びつけた多くの短編を書いたS.グルジー(1899-1950)もいまだに農村部で根強い人気を有する。S.N.ペーンドセー(1913- )は第2次大戦後から活動し,《エルガール》《追放者》など現代インドの政治・社会および人間の個の問題など幅広い主題を扱い,今日もっとも広く読まれる作家の一人である。女性の文学も第1次大戦後から盛んで,詩人L.ティラク,随筆家D.バグワット,社会学者I.カルベーらの作品は全インド的にも知られている。

 現代マラーティー文学の新しい貢献は〈ダリト文学〉である。〈不可触民〉として抑圧を受けてきた人々(ダリト)が文学活動を通じて政治的・社会的発言をしようとの動きは1950年代から始まるが,60-70年代と急速に盛んになり,例を上げれば,B.バーグール,N.ダサール,A.ダングレーら多くの作家が輩出し,他のインド諸語文学にも新しい潮流として影響を及ぼしている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インド文学」の意味・わかりやすい解説

インド文学
インドぶんがく
Indian literature

インド亜大陸でさまざまな言語で書かれた文学作品の総称。インド文学は言語の種類が多いことと,思想的背景をなしている宗教が多様なために,きわめて複雑である。インド文学に使用されている言語は,インド=ヨーロッパ語族ドラビダ語族とに大別されるが,これらの言語は歴史的にも地方的にも多くの言語に分けられる。たとえば前者にはサンスクリット語,プラークリット語,パーリ語,ベンガル語,ビハール語,グジャラート語,ヒンディー語,カシミール語,オリヤ語,パンジャブ語,ラージャスターン語,ウルドゥー語,シンディー語,後者にはマラヤーラム語,タミル語,カンナダ語,テルグ語などがある。宗教をみても,インド固有の宗教すなわちバラモン教,仏教,ジャイナ教,ヒンドゥー教や外来のイスラム教,ゾロアスター教などは,それぞれその宗教を反映した独自の文学をもっている。インド文学は通常,古代,中世,近代の3期に分けられるが,その内容は必ずしも年代順ではなく,言語的にあるいは宗教的に一括して説く場合もある。したがって,古代,中世文学はおもにインド=ヨーロッパ語族によるバラモン教,仏教,ジャイナ教,ヒンドゥー教の文学で,近代文学は以上の系統を継ぐ諸地方語文学のほか,イスラム文学,ドラビダ文学を含んでいる。
最も初期のインド文学はベーダと呼ばれるバラモン教およびヒンドゥー教の聖典で,サンスクリット語で書かれていた。ベーダにはブラーフマナウパニシャッドのような散文の注釈が加えられた。サンスクリット文学が書かれた期間は前 1500年から 1200年の期間にわたり,1世紀から7世紀にかけて頂点を迎えた。聖典や哲学的著作に加えて,エロチックな詩や賛歌,宮廷詩,叙事詩,戯曲,説話などが生れた。なかでも叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』は代表的作品である。
仏教やジャイナ教のような改革運動では,バラモン・ヒンドゥー教と同一視されていたサンスクリット語を使わず,それぞれパーリ語,プラークリット語を用いた。この二つの言語や他の言語から北部インドの近代言語が生れた。これらの言語の文学はサンスクリット文学に共通なテーマを多く取入れているのが特徴で,『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』『バーガバタ・プラーナ』で語られるクリシュナの物語,その他のプラーナの伝説,寓話集などがその源となった。このようにサンスクリット文学はのちのインド文学の大切な源泉であり,サンスクリット派の修辞法は多くの近代文学における宮廷詩の発達に重要な役割を果した。例外的にサンスクリット文学の影響がないのは,独自の古典的伝統をもつ南インドのタミル文学と,イスラム教を背景に生れたウルドゥー語とシンディー語による文学である。
19世紀の初めになると,イギリスをはじめとする西洋の文学がインド文学に大きな影響を与えるようになった。最も重要なのは,散文を用いるようになったことである。インドの作家は短編小説といったそれまで知られていなかった形式を採用しはじめた。写実主義や社会問題に対する新しい興味,心理描写もこの時期に導入された。

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