イルハーン国(読み)イルハーンこく(英語表記)Īl Khān

改訂新版 世界大百科事典 「イルハーン国」の意味・わかりやすい解説

イル・ハーン国 (イルハーンこく)
Īl Khān

チンギス・ハーンの孫フレグ・ハーンが,イランの暗殺者教団イスマーイール派やバグダードアッバース朝を倒して建国したモンゴル王朝。1260-1353年。ササン朝の旧領に匹敵するイランの地を領有し,初めタブリーズ,後にスルターニーヤSulṭānīyaに都した。初代フレグ以下歴代のイル・ハーン(トルコ語で〈国の王〉の意)は元朝の宗主権を認めて友好関係を維持しつつ,辺境に侵攻するキプチャク・ハーン国,チャガタイ・ハーン国の軍隊と対決し,片や,シリアをめぐるマムルーク朝との争いに際しては,キリスト教国やローマ教皇と結んで対処した。フレグとともに征服地に居ついた部族軍は,本来はフレグ一門の私的な軍隊ではなかったので,1282年第2代アーバーカー・ハーン(在位1265-82年)が外敵の侵入を退け,内政を一応安定させて没すると,ハーン位継承争いと絡んだ有力部族長間の政争が頻発し,これと財政破綻とが相まってイル・ハーン国は国家存亡の危機に直面した。95年フレグの曾孫ガーザーン・ハーンは,この政争を収拾してハーン位につくと,敵国マムルーク朝への遠征を繰り返し敢行して内部結束を固める一方,国史編纂事業を推進し,麾下の諸部族にモンゴル帝国の栄光とガーザーン・ハーンに対する忠誠心をよびおこさせた。さらに彼はラシード・アッディーンを起用し,税制改革を軸とする諸改革を断行して中央集権化を進めるとともにイスラムに改宗してイラン人との融和をはかった。危機が克服されたウルジャーイートゥー・ハーンの時代にも前代の諸策が推進されて国力は安定し,諸ハーン国との友好関係も確立されて最盛期を迎えた。しかし,1335年第9代アブー・サイード・ハーンが没してフレグの直系が絶えるとモンゴル諸勢力分立の状態となり,1353年チンギス裔の最後の一人が殺されてまったく滅んだ。その後,フレグ家〈筆頭家老〉の家系が北西イランを支配したジャラーイル朝ティムールに討たれた後,1411年に滅ぼされた。
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世界大百科事典(旧版)内のイルハーン国の言及

【イクター】より

…ザンギー朝(1127‐1222)をはじめとして各地に成立したアター・ベク政権はその典型である。セルジューク朝の分裂後,イラン・イラクを支配したイル・ハーン国(1258‐1353)は,国庫の欠乏を補うためにモンゴル軍人に対し王室領や遊牧地をイクターとして分与した。14世紀以降のイランではソユールガールの授与が一般化し,サファビー朝(1501‐1736)時代になると,これに加えてトゥユールが授与されるようになった。…

【イスラム美術】より

…イベリア半島では,ナスル朝(1230‐1492)下のグラナダで後期イスラムの宮殿建築を代表するアルハンブラ宮殿(13~14世紀)が造営されている。 イランでは,垂直性の強調,セルジューク朝時代に始まる二重殻ドームの発展,さらに,煉瓦やしっくいに代わる彩釉タイルによる装飾美の徹底した追求などの特質が,イル・ハーン国(1258‐1353)およびティムール朝(1370‐1507)時代の,壮大なスルターニーヤのウルジャーイートゥー・ハーンの墓廟(14世紀初期),壮麗なマシュハドのゴウハルシャード・モスク(1419),サマルカンドのビービー・ハーヌム・モスク(1399着工),グール・アミール廟(15世紀)などに認められる。さらに,イラン文化の爛熟期サファビー朝(1501‐1736)にいたり,イランのイスラム建築は技術的にも装飾的にも完成の域に近づく。…

【貨幣】より

…アイユーブ朝(1169‐1250)は,中央アジアとヨーロッパの銀によりディルハム銀貨を鋳造し,金貨の供給減を補った。13世紀の中ごろ以降,アナトリア東部からペルシアまでを支配したモンゴルのイル・ハーン国も金貨よりも銀貨を本位貨幣とした。イル・ハーン国(1258‐1353)は貨幣単位も新しくし,銀ディーナールという単位を使用するようになった。…

※「イルハーン国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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