イブン・タイミーヤ(読み)いぶんたいみーや(英語表記)Ibn Taymīya, Taqī al-Dīn Amad

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イブン・タイミーヤ」の意味・わかりやすい解説

イブン・タイミーヤ
いぶんたいみーや
Ibn Taymīya, Taqī al-Dīn Amad
(1263―1328)

中世イスラムの代表的思想家。伝統主義的なハンバリー学派の法学者および神学者である。シリアのハッラーンで学者の家に生まれる。モンゴル軍の侵入を避けてダマスカスに移り、そこで教育を受け、のちには教鞭(きょうべん)をとった。彼の活動はシリア、エジプトにまたがり、単なる学究にとどまらず、当時の政治、社会問題に大胆に発言し、論争を巻き起こした。そのためしばしば投獄され、ダマスカスの城塞(じょうさい)に幽閉中死んだ。コーランハディースのテキスト、そして最初期のムスリムイスラム教徒)の教説を尊重し、後世の、神秘主義者の極端な神人合一論、聖者崇拝、またギリシア思想の影響を受けた人間理性の使用を強調する合理主義的神学を、反イスラム的であると激しく非難した。彼の後世に与えた影響は大きく、ことに18世紀にアラビア半島で起こった復古的改革を目ざすワッハーブ運動の思想的源流となった。

鎌田 繁 2018年4月18日]

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百科事典マイペディア 「イブン・タイミーヤ」の意味・わかりやすい解説

イブン・タイミーヤ

中世のイスラム法学者,神学者。十字軍,モンゴルの侵入を受け停滞するイスラム世界を見て,宗教蘇生を強く訴えた。人間の最高の目的は神への奉仕にあるとし,その基盤シャリーア(イスラム法)の絶対性とその完全な遂行においた。このため,伝統諸学に盲従するウラマー(宗教学者)と厳しく対立したが,後のワッハーブ派やサイイド・クトゥブなど,近・現代のイスラム改革者に強い影響力を与えた。
→関連項目ワッハーブ派

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イブン・タイミーヤ」の解説

イブン・タイミーヤ
Ibn Taymīya

1263~1328

マムルーク朝前期の法学者,神学者。ダマスクスで法学教授,ムフティーとして活動しつつ,モンゴルの脅威を背景に,スンナ派イスラームの精神的復興を説いた。イブン・アルアラビーらの哲学,スーフィズムと同時に,アシュアリー派神学を批判し,ウラマーからも政治的迫害を受けた。その思想は近代に入って,サラフィーヤワッハーブ派に影響を与えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イブン・タイミーヤ」の意味・わかりやすい解説

イブン・タイミーヤ
Ibn Taymīyah

[生]1263. ハッラーン
[没]1328.9.26. カイロ
ハンバル派の法学者。コーランと宗教法を厳格に遵守しつつ神に奉仕することが,その宗教思想の根本である。彼の思想は,神と人間との間に絶対的断絶があるという信念に基づいている。したがって既成の哲学,神秘主義思想が神と人間との交渉もしくは合一の可能性を容認しているという理由で,これらに対して戦闘的に論争を挑んだ。このため彼の行くところいたるところで政治的,思想的摩擦を引起した。哲学的思考によるコーラン解釈よりも,コーランの一語一語の内包する宗教的生命力について瞑想することの重要性を説いて回った。イスラム教教義の抽象化に反対する彼の運動は,彼以後のイスラム世界の思想傾向に大きな影響を与えた。主著『裁定集』 Fatāwā。

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