イスファハーン(英語表記)Isfahān

精選版 日本国語大辞典 「イスファハーン」の意味・読み・例文・類語

イスファハーン

(Esfahan)⸨イスパハーン・エスファハーンイラン中部の都市。紀元前六世紀アケメネス朝ペルシア帝国の頃建設され、一六、七世紀にはイランの首都となった。イスラム様式の見事な建造物が残されている。

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デジタル大辞泉 「イスファハーン」の意味・読み・例文・類語

イスファハーン(Eşfahān)

イラン中部、イスファハーン州の都市。同州の州都。前6世紀、アケメネス朝ペルシア帝国のころ建設。16世紀末、サファビー朝アッバース1世により首都に定められ、都市計画に基づきイマーム広場を中心に多くのイスラム寺院や宮殿が建造された。イスラム建築の宝庫、また伝統工芸の中心地として知られる。人口、行政区160万(2006)。エスファハーン。

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改訂新版 世界大百科事典 「イスファハーン」の意味・わかりやすい解説

イスファハーン
Isfahān

イラン高原中部の都市。人口152万3006(2003)。ペルシア語の正しい発音ではエスファハーンEsfahān,アラビア語ではイスバハーンIṣbahānと呼ばれる。ザーグロス山脈とその支脈の山々に囲まれた標高約1600mの盆地状の高原にある。町の南にザーグロス山脈に水源を発するザーヤンデ・ルード川が西から東へ流れている。周辺の農村はこの川によって灌漑され,その豊かな生産力によってイスファハーンはイラン屈指のオアシス都市として古来,繁栄してきた。

 町の歴史は7世紀を境にして古代オリエント時代とイスラム時代に分かれる。その起源は伝説によるとバビロン捕囚(前597-前538)で,イラクにいたユダヤ人の一部が現在の市街地の北東部に移住し,居留地をつくったことにはじまるといわれている。アッシリア,メディア,パルティアの支配のあと228年にササン朝のアルダシールに征服された。総督が駐屯する城塞は現在の市街から川に沿って8km南東に行ったジャイイに独立の町としてつくられたが,今は廃墟となっている。

 7世紀のアラブによる征服後,この町はイスラム都市の時代に入る。しかし,本格的な町づくりが行われるのは,アッバース朝期の767年にザーヤンデルード川の北のフシーナーン地区にアラブ戦士のための軍営地(ミスル)ができてからである。この軍営地とその北東にある昔からのユダヤ人居留地との境目あたりに〈古い広場(メイダーネ・コフネ)〉がつくられ,これを中心に市街地ができた。ブワイフ朝のアドゥド・アッダウラ(在位949-983)はアラブ支配期の都市プランを継承・発展させて町をとり囲む市壁を建設した。セルジューク朝期に一時,首都にもなったが,1244年のモンゴルの攻略,1387,1414年のティムールの来襲によって灰燼に帰した。

 1597年,サファビー朝のシャー・アッバースは首都をカズビーンからイスファハーンに移し,まったく新しく町づくりを行った。〈古い広場〉の南西に町の核になる512m×160mの矩形の〈王の広場(メイダーネ・シャー)〉を建設し,ここに政治,経済,宗教などおもな都市機能を集中させた。西側に王宮と官庁街,東側と南側に壮麗な二つのモスク(シャー・モスクとロトフォッラー・モスク),北側にバーザール,キャラバンサライがそれぞれ配置された。ブワイフ朝時代にくらべて4倍の規模の市壁も建設された。さらにザーヤンデルード川に橋が架けられ,川の南部地域が開発された。シャー・アッバースはカフカス遠征のときに捕虜にした多数のアルメニア人を強制的にそこに集団移住させ,ジョルファJolfāの居留地区をつくった。最盛時のイスファハーンの人口は70万人といわれ,当時のロンドン,パリにひけをとらない大都会であった。このためこの町を訪れたヨーロッパの外交官,商人は〈世界の半分〉とたとえてその栄華のさまを賞賛した。しかし1722年,アフガン系遊牧民がこの町を攻略すると,徹底的に破壊され再び元の状態に戻らないまま近代を迎えることになる。

 カージャール朝ができて首都がテヘランに移っても(1786),この町は19世紀前半までタブリーズと並ぶイランの二大都市の一つであった。しかし,1869-72年の大飢饉,イギリス,ロシアの綿製品の輸入増加による,錦織,更紗,綿織物などを中心とする伝統的な諸産業の衰退によってイスファハーンの経済的重要性は低下した。171業種のギルドもほとんど解体した。市域はサファビー朝期にくらべて3分の1に縮小し,人口も1870年代には5万人にまで落ちこんだ。

 19世紀後半のこの町の特徴として第1に指摘できることは,織物などの貿易に従事していた商人が,商品作物として栽培が行われるようになってきたタバコ,ケシの利の多さにひかれて資本を土地に投下し,地主(マーレク)化したことである。この結果,荒廃したまま放置されていた市街地が農地に転用されるほどであった。第2にイスファハーンの南西部に遊牧するバフティヤーリー族との関係が緊密になったことが挙げられる。この部族の有力な族長層は町の西郊チャハール・マハール地方に土地を買い求めて地主化する者が多かったが,またそれとは別にカージャール朝の部族政策からイスファハーンに定住するようになった部族民も多かった。このような関係からイラン立憲革命において,1908年末バフティヤーリー族は,反革命によって壊滅の危機に瀕していた町の立憲革命組織の要請によってイスファハーンに武力進駐した。 パフラビー朝の成立後,この町はレザー・シャーによって行われた都市改造計画で現代都市に変わった。道幅の広い大通り(ヘヤーバーン)が市内を貫き,それに沿ってバーザールに代わる近代的商店街がつくられた。衰退した伝統産業に代わって近代的な繊維工業が興されたが,これは立憲革命期に活躍した進歩的ウラマー,マレコル・モタカッリミーンMalek al-Motakallemīn(1861-1906)が設立した織物工場〈イスラム会社〉を母体にしていた。1980年代前半,ソ連の援助で鉄鋼業が発達した。
執筆者:

イスファハーンは10世紀にブワイフ朝の都となって以来,イランの美術の中心として,特にサファビー朝絵画の中心地,織物(じゅうたん)の産地として重きをなした。建築遺構はセルジューク朝とサファビー朝のものに大別され,前者の代表例にはマスジェデ・ジョメ(金曜モスク)があり,後者の重要な遺構は〈王の広場〉とチャハール・バーク(四苑)通り付近に残る。〈王の広場〉の南側には壮大な入口(ピシュタク)をもつ4イーワーン形式のシャー・モスク(王のモスク。1637),東側には王族の私的な礼拝堂として設けられたロトフォッラー・モスク(1617),北側にはバーザール・カイサリーヤ(1620),西側には王宮への城門ともいうべき5階建てのアーリー・カープー宮(17世紀初期)がある。この北西の庭園内にあるチェヘル・ストゥーン(四十柱)宮は,大部分が17世紀中ごろに完成。チャハール・バーク通り沿いには,ハシュト・ベヒシュト(八楽園)宮(1670)と4イーワーン形式の学院メドレセ・マーダレ・シャー(1714)がある。以上のモスクやメドレセは美しいタイルで,また宮殿や邸宅は壁画や漆喰細工で装飾されている。その他の遺構として,シャフリスターン橋(ササン朝に創設,セルジューク朝に修復),アーケードのついたハージュー橋(1644),南郊のジョルファ地区のアルメニア諸教会(17世紀前半)などが挙げられる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イスファハーン」の意味・わかりやすい解説

イスファハーン
いすふぁはーん
Eşfahān

イラン中部、イスファハーン州の州都。エスファハーンともいう。イラン第三の都市で、テヘランの南方420キロメートル、標高1590メートルの高原に位置する。人口126万6072(1996)、196万1260(2016センサス)。年降水量は109ミリメートル。ザーグロス山脈に源を発するこの国最大の内陸河川ザーヤンデ・ルード川が町を貫流する。古くから伝統工芸の中心地で、更紗(さらさ)、銅細工、彫金細工、象眼(ぞうがん)細工、カーペット織などは有名。19世紀にマンチェスター産綿布が流入するまでは、イランでもっとも重要な綿織物の産地であった。サファビー朝のシャー・アッバースによってジョルファから移されたアルメニア人の居住区(ジョルファ)が町の南部にある。ユダヤ人も多い。町の周辺はイラン高原でもっとも豊かな土地で、ザーヤンデ・ルード川の水を利用し野菜や米などが集約的に栽培されている。19世紀にはアヘンの最大の産地でもあった。イランの古都であるため史跡、名所が多く、シャー・アッバースが設けた王の広場を取り巻くマスジッド・イ・シャー(王のモスク)やアリカプー宮殿、ザーヤンデ・ルード川にアッバース2世(大王)によって架けられたハージュー橋などはとくに有名である。テヘランへは鉄道が通じており、国際空港もある。

[岡﨑正孝]

歴史

アケメネス朝ペルシア時代から存在し、ササン朝ペルシア時代には主要都市の一つであった。大河ザーヤンデ・ルードの水に恵まれ、オアシス農業の中心地として発展した。7世紀中ごろアラブの大征服によってイスラム圏に入り、正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝時代には、それらの総督によって統治された。一時、サッファール朝、サーマーン朝の支配下に入ったこともある。本格的に都市が発展したのはブワイフ朝(932~1062)時代のことで、同朝のジバール地方(中央イラン)における中心地となり、城塞(じょうさい)、市壁、モスクが造営され、バザールも整備された。セルジューク朝時代には一時首都となり、大モスクがつくられ、商業、文化の中心地となったが、スルタンがホラサーンへ移ったのちには、治安も悪化し、荒廃した。イル・ハン朝期には、総督による間接統治下に入り、ある程度繁栄を取り戻したが、ティームール朝、黒羊朝、白羊朝時代にはふたたび衰退した。サファビー朝(1501~1736)時代には再度商業、文化、宗教の中心地となり、とくに16世紀末にシャー・アッバースによって首都に定められて、マスジット・イ・シャーなど中東屈指の建築物がつくられ、「イスファハーンは世界の半分」とうたわれる繁栄を現出した。17世紀中ごろには、162のモスク、1802のキャラバン・サライ(隊商宿)があったという。しかし18世紀前半にアフシャール人のナーディル・シャーがマシュハドに遷都して以来、人口が流出し、飢饉(ききん)の影響もあって衰退の一途をたどった。19世紀末ごろから人口が増加に転じ、現在の大都市へと回復した。近年は工業化が著しい。

[清水宏祐]

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百科事典マイペディア 「イスファハーン」の意味・わかりやすい解説

イスファハーン

イラン西部のオアシス都市。エスファハーンとも。古名はアスパダナ。穀物,ケシ,綿花,タバコを産し,織物(ペルシアじゅうたん)は有名。アッシリア帝国にさかのぼる古都で,ササン朝などを経て7世紀にアラブに征服されてイスラム都市となる。10世紀ブワイフ朝の都がおかれたほか,16世紀末以降サファビー朝の首都として繁栄し〈世界の半分〉と称された。イラン美術の中心地でもあり,宮殿,モスク,学校,浴場など著名な建築物が多い。歴史的建造物が多く立つイマーム広場は1979年,世界文化遺産に登録。175万6126人(2011)。
→関連項目イスファハーンのイマーム広場

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イスファハーン」の解説

イスファハーン
Eṣfahān

イラン中央部にある重要な都市。16世紀末にサファヴィー朝の首都に定められ,「イスファハーンは世界の半分」といわれたほどに栄えた。サファヴィー朝の建造物が多く現存し,華麗なタイル建築で名高い。

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旺文社世界史事典 三訂版 「イスファハーン」の解説

イスファハーン
Isfahan

イラン中央部にある都市。イスパハン(Ispahan)ともいう
アケメネス朝以来の伝統をもち,現在テヘラン,タブリーズにつぐ第3の都会。10世紀ごろから知られ,ティムールの大虐殺を受けたが,16世紀末サファヴィー朝アッバース1世によって新都とされ,「世界の半分」と称されるように繁栄した。市の中心には“王の広場”として知られるメイダーン(広場)がある。

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世界大百科事典(旧版)内のイスファハーンの言及

【市】より

…アッバース朝の首都バグダードにあったカルフの商工業地区はこれの典型である。 大市場のもつ流通機能をイランのイスファハーンのそれを例にとって説明しよう。この町のバーザールはアラブ征服時代からその原形があったが,16世紀サファビー朝時代に整備されて今のような形になった。…

【シャー・モスク】より

…イランのイスファハーンに,サファビー朝のシャー・アッバース1世によって1612‐37年に建立された同朝の代表的なモスク。〈王のモスク〉の意。…

【都市】より

…アッバース朝(750‐1258)の首都として盛時には人口150万を数えたバグダードは,10世紀を過ぎる頃からしだいに衰退し,またバグダードに代わってイスラム世界の中心となったカイロも,14世紀半ばのペストの流行を機に活況を失い,やがてイスタンブールにその地位を明け渡す。サファビー朝(1501‐1736)時代のイスファハーンはヨーロッパとの絹貿易によって繁栄を続けたが,オスマン帝国支配下のアラブの諸都市は一様に人口が減少し,文化活動も概して低調であった。これらの都市に復興の兆しが見え始めるのは,19世紀以後になってからのことである。…

【マスジェデ・ジョメ】より

…イランのイスファハーンにあるモスク。イランにおけるセルジューク建築の傑作。…

※「イスファハーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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