イギリス公使館焼打事件(読み)いぎりすこうしかんやきうちじけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イギリス公使館焼打事件」の意味・わかりやすい解説

イギリス公使館焼打事件
いぎりすこうしかんやきうちじけん

1862年(文久2)12月長州藩尊王攘夷(そんのうじょうい)派志士らの攘夷実行事件。御殿山(ごてんやま)事件ともよぶ。1862年10月、勅使三条実美(さねとみ)、姉小路公知(あねがこうじきんとも)は幕府に攘夷の実行を督促するために江戸へ向かい、幕府は攘夷を承認したものの、一方では品川御殿山の景勝地に外国公使館建築を開始していた。当時、幕政に反抗する諸藩の激派志士らは次々と攘夷事件を起こしていた。長州藩でも、高杉晋作(しんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、志道聞多(しじもんた)(井上馨(かおる))、伊藤俊輔(しゅんすけ)(博文(ひろぶみ))ら激派12名は、同年10月、横浜における攘夷計画に失敗、江戸藩邸に謹慎中であったが、御楯隊(おんたてたい)を組織し、12月12日夜、イギリス公使館内に潜入し、火薬に火を放ち、竣工(しゅんこう)前の公使館を全焼させた。

[井上勝生]

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百科事典マイペディア 「イギリス公使館焼打事件」の意味・わかりやすい解説

イギリス公使館焼打事件【イギリスこうしかんやきうちじけん】

幕末の対英攘夷事件。1862年(文久2年)幕府は攘夷を促す勅諚(ちょくじょう)受け入れを江戸下向中の勅使三条実美らに伝えた。一方で東禅寺事件(第1次)後の諸外国の要求を容れ,各国公使館を品川御殿山(ごてんやま)(現東京都品川区)に移す工事を進めていた。横浜外人居留地襲撃を止められて江戸桜田藩邸に謹慎中だった萩藩高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤俊輔(伊藤博文)・志道聞多(井上馨)ら尊王攘夷派は,勅使が江戸を離れた直後の文久2年12月12日(1863年1月31日)最も工事の進んでいたイギリス公使館を襲い焼打ち,攘夷の気勢をあげた。生麦事件・東禅寺事件(第2次)に続いたこの事件にイギリスは態度を硬化。
→関連項目尊王攘夷運動

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世界大百科事典 第2版 「イギリス公使館焼打事件」の意味・わかりやすい解説

イギリスこうしかんやきうちじけん【イギリス公使館焼打事件】

1863年1月31日(文久2年12月12日)深夜,長州藩の高杉晋作,久坂玄瑞,志道聞多(井上馨),伊藤俊輔(博文)らが,江戸品川の御殿山に建築中のイギリス公使館に侵入し,火薬を仕掛けて全焼させた事件。江戸滞在中の彼ら長州藩尊王攘夷派の志士たちは,幕府に攘夷を督促する勅使三条実美,姉小路公知を迎えてますます意気があがり,御楯組を結成して攘夷決行の機をうかがっていた。そして,当初予定していた横浜外人居留地の襲撃については,周囲から説得されて思いとどまったものの,勅使が離府した直後に素志を実行し,この挙に及んだものである。

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