イギリス・オランダ戦争(読み)いぎりすおらんだせんそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イギリス・オランダ戦争」の意味・わかりやすい解説

イギリス・オランダ戦争
いぎりすおらんだせんそう

17世紀後半、3回にわたるイギリスオランダとの間の戦争

第一次

(1652~1654)イギリス共和国政府による航海法制定と、オランダ船への臨検捜査権の要求が原因となって起こった。ブレークRobert Blake(1599―1657)指揮のイギリス艦隊と、トロンプMaarten Harpertszoon Tromp(1597―1653)指揮のオランダ艦隊が勝敗を繰り返したすえ、講和条約で、オランダがアンボイナ事件の賠償をも含めて譲歩した。

松村 赳]

第二次

(1665~1667)1660年に王政に復したイギリスの航海法の更新、アフリカへの進出、ニュー・ネーデルラント(新大陸のオランダ植民地)占領などによって起こった。末期には、デ・ロイテルのオランダ艦隊がテムズ川河口近くの町チャタムを砲撃したこともあったが、全体的にはイギリスが優勢で、ブレダの和約により新大陸のニュー・アムステルダム(ニューヨークと改名)などを割譲させた。

[松村 赳]

第三次

(1672~1674)フランス王ルイ14世によるオランダ戦争開始に伴うもので、1670年、同王とドーバー密約を結んでいたイギリス王チャールズ2世が約束に従って参戦した。海上戦況はオランダ軍がやや優勢であったが、概して勝敗不分明に終わり、イギリス国内の反戦気運の高まりにより講和となった。

 この戦争で決定的な勝利はなかったが、概してイギリスのほうが優勢で以後オランダの海上権が衰えた。なおアメリカ独立革命時の両国交戦を第四次とすることもある。

[松村 赳]

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百科事典マイペディア 「イギリス・オランダ戦争」の意味・わかりやすい解説

イギリス・オランダ戦争【イギリスオランダせんそう】

英蘭戦争

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世界大百科事典(旧版)内のイギリス・オランダ戦争の言及

【英蘭戦争】より

…17世紀後半にイギリス・オランダ間で3度にわたって行われた海戦。当時両国間には北海の漁業や貿易・海運,植民地をめぐって深刻な対立が生じていたが,全盛期のオランダがイギリスを圧倒する勢いにあった。イギリスはクロムウェル政権の登場とともに,1651年有名な航海法(海運法)を布告して,全面的にオランダに反撃に出た。また市民革命により王位を追われたスチュアート家と,オランダの総督職にある名門オランイェ(オレンジ)家が,姻戚関係にあったことも両国間の政治的緊張の原因となっていた。…

※「イギリス・オランダ戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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