イエメン(英語表記)Yemen

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精選版 日本国語大辞典 「イエメン」の意味・読み・例文・類語

イエメン

(Yemen) アラビア半島南端の共和国。紅海とアラビア海に面する。コーヒー、綿花、革製品などを産出。特に輸出港の名前を冠したモカコーヒーが有名。一九一八年オスマントルコからイエメン王国として独立、六二年に共和制に移行したイエメン‐アラブ共和国(北イエメン)と、一九六七年イギリスから南イエメン人民共和国として独立、七〇年に国名を改称したイエメン民主人民共和国(南イエメン)とが、九〇年に統合して成立。首都サナア。

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改訂新版 世界大百科事典 「イエメン」の意味・わかりやすい解説

イエメン
Yemen

基本情報
正式名称=イエメン共和国Jumhūrīya al-Yamanīya,Republic of Yemen 
面積=52万7968km2 
人口(2010)=2315万人 
首郡=サヌアSan`ā'(日本との時差=-6時間) 
主要言語=アラビア語 
通貨=イエメン・リヤールYemen Riyāl

アラビア半島の南西端部に位置し,アラビア語ではヤマンal-Yamanという。イエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)に分かれていたが,1990年5月,南北統一がなり,イエメン共和国が誕生した。

イエメンとハドラマウトは南アラブの原住地で,彼らはここにサバ,ハドラマウト,カタバーン,マイーン,ヒムヤルなどの王国を建設した。これを総称して古代南アラビア王国というが,その絶対年代については定説がなく,最も古いサバ王国は,その王の名がアッシリアの碑文に現れる前8世紀末以前に建国されたとされるが異説もある。古代南アラビア王国は灌漑農業と,ハドラマウト特産の乳香のほか,インド,東南アジアからもたらされた香料を地中海世界に運ぶ遠隔地通商によって栄え,その豊かな香料のゆえに,古代ギリシア・ローマの著作家は南アラビアを〈幸福なアラビアArabia Felix〉と呼んだ。古代南アラビア王国は,神殿を主とする巨大建造物ならびにダムその他の灌漑施設の遺跡と,のちのアラビア文字と異なる文字で記した多数の碑文を残す。言語はセム系で,文字はフェニキア文字から派生した。宗教は天体崇拝を主とした多神教で,神殿は広大な神殿領と多数の神殿奴隷を持っていた。ヒムヤル王国は前2世紀末に興り,後4世紀にイエメン・ハドラマウトを統一した。ユダヤ教徒のイエメン定住はおそらく1世紀末ごろであろうが,4世紀にはキリスト教も伝えられ,多神教社会に亀裂が走った。同じ4世紀には,ササン朝,アクスム王国による一時的なイエメン支配,ササン朝,ビザンティン帝国によるペルシア湾・紅海経由のインド洋貿易の活発化などもあり,ヒムヤル王国の経済は衰退し,南アラブの一部は遊牧民となって北方へ移住した。コーラン34章16節に記された大洪水はマーリブのダムの決壊のことと解され,イエメンの灌漑農業の荒廃を象徴的に物語る。最後のヒムヤル王ズー・ヌワースDhū Nuwās(在位487-525)はユダヤ教に改宗し,ナジュラーンのキリスト教徒を虐殺した。ビザンティン皇帝の要請を受けたアクスム王は,イエメンに出兵してズー・ヌワースを殺し,その後アビシニアエチオピア)のイエメン支配が続いた。象の年(570)の数年後,ヒムヤル王家の王子サイフの指導するイエメン人の反乱がおこり,彼らはササン朝の軍事援助のもとにアビシニア人を追放したが,その結果イエメンはペルシア人総督の支配のもとに置かれ,5代目のとき631・632年にムハンマドのもとに下った。

 イスラム時代になり,帝国の政治的中心がシリア,イラクに移るにつれ,イエメンは帝国の辺境と化し,同時にシーア派,ハワーリジュ派の反政府運動の拠点となった。アッバース朝のカリフ,マームーンの派遣した総督ムハンマドはイエメンの支配を回復したが,事実上の独立王朝ジヤードZiyād朝(820-1018)をザビードに開いた。9世紀の半ばごろ,ザイド派のイマームが北方のサーダに自立してラッシーRassī朝を開き,のちサヌアに移ったが,このザイド派政権は興亡と断続を繰り返しながら,1962年のクーデタまで続いた。9世紀の末からイスマーイール派の活動が活発になったが,その主勢力は北アフリカに移ってファーティマ朝を開いた。そのあとイエメンでは,イスマーイール派のスライフṢulayḥ朝(1047-1138)が勢力を強め,紅海沿岸のティハーマのナジャーフNajāḥ朝(1021-1159)を破り,1063年にはラッシー朝をサーダに追ってサヌアに都し,一時はヒジャーズをも侵略したが,最後はズー・ジブラに都を移し,同じイスマーイール派のズライーZuray`朝(1138-74)に支配権を奪われた。アイユーブ朝を建設したサラーフ・アッディーンは,兄弟トゥーラーンシャーTūrānshāhにイエメン征服を命じ,タイズに都するアイユーブ朝(1174-1229)が成立した。しかしエジプト・シリアでマムルーク朝がアイユーブ朝に代わったのと同じように,イエメンでもマムルークがアイユーブ朝の支配権を奪い,ザビードに都してラスール朝を開いた。南のアデンに興ったターヒルṬāhir朝(1446-1516)は,ラスール朝を滅ぼしてイエメンの大部分を支配したが,マムルーク朝のスルタン,カーンスーフQānsūḥの遠征によって滅び,メッカのシャリーフ(ハサン家の長)がイエメン総督に任命された。しかし翌1517年,マムルーク朝がオスマン帝国によって滅ぼされると,イエメン総督はオスマン帝国への臣従を誓った。オスマン帝国のイエメン支配はスレイマン1世のときに始まり,1635年までトルコ軍がイエメンに駐留した。その間,サヌアに拠ったラッシー朝はトルコ人支配に対する抵抗を続け,ザイド派イマームのムアイイド1世は1635年,トルコ軍を追放することに成功した。

 16世紀の初めポルトガル人はインド洋に進出し,アルブケルケの艦隊はオマーンやホルムズを占領したが,イエメンの沿岸は難を免れた。スレイマン1世のイエメン支配は,ポルトガル艦隊の紅海への進入を防止するためであった。17世紀にはオランダとイギリスがインド洋の覇権を競い,イギリス東インド会社は1618年,モカに商館を設けた。ナポレオンのエジプト遠征後,インド洋航路の中継地としてのイエメンの重要さに注目したイギリスは,1799年にペリム島(のち撤退),1839年にアデンを占領,54年にクリア・ムリア島,57年にペリム島の割譲を受け,68年から88年にかけてアデンの後背地を買収し,以上を一括してアデン植民地(1937年に直轄植民地)にするとともに,その東方の群小首長国とソコトラ島とを保護領(アデン保護領)にした。

 アラビア半島のナジュドに興ったワッハーブ王国は,1804年にヒジャーズを併せ,翌05年にティハーマに進出した。オスマン帝国スルタンの命を受けたエジプトのムハンマド・アリーはこれに介入し,第1次ワッハーブ王国は18年に滅んだ。やがてワッハーブ王国は再建され(1824),その子ファイサル1世はその支配をイエメン・ハドラマウトの境界にまで広げた。オスマン帝国はファイサル1世没後のサウード家の内紛に乗じて再び介入し,72年にトルコ軍がサヌアを占領して90年まで駐留した。ザイド派イマームはタイズに拠ってトルコ人支配への抵抗を続け,イエメンの事実上の独立を認めた1911年協定の素地がつくられた。
執筆者:

アラビア半島の南西部,紅海に臨み,〈北イエメン〉とも呼ばれた。

国土は紅海に臨む狭いティハーマ平野,中央部の高原地帯,東部の砂漠地帯に大別される。ティハーマ平野は幅約50km,南北に延びる。高原地帯はサウジアラビアのアシール山地に続く高地で,標高1500~3000m,最高峰は3760mのハドゥール(ナビー・シュアイブNabī Shu`ayb)山。東部砂漠はルブー・アルハーリーに続く標高1000mのゆるやかな台地である。海岸地方は高温多湿であるが,高原地帯はアラビア半島の中で最も気候に恵まれ,南西季節風のもたらす雨(年雨量500~960mm)により農業が行われる。住民はヨクタン・セム族と呼ばれる純粋なアラブ人の子孫と言われるが,海岸地方や都市部では混血が強い。公用語はアラビア語,古代の言語が多く残存する。海岸地方ではイスラムのスンナ派,高原地帯ではシーア派の分派ザイド派を信奉する。

1911年,当時高原地帯の支配権を掌握していたザイド派イマーム,ヤフヤー・ハミード・アッディーンはオスマン帝国の宗主権のもとに事実上の独立を得,これが北イエメンの基礎となった。34年イエメンに進撃していたサウジアラビア(イブン・サウード王)と和平協定を結び,北の国境線を決定し正式に独立王国となった。しかしヤフヤーは鎖国政策を取り,専制政治を行ったため民衆の不満が高まり,48年クーデタが起こり,ヤフヤーは殺される。その長子アフマドは王位を回復し,51年開国政策を打ち出し内閣制度も発足させたが,62年9月アフマドの死亡に伴いサラール大佐のクーデタが起こり,王政は廃止され共和政となった。共和政権はアラブ連合(エジプト)の支援を受けて,63年国連に加盟したが,アフマドの子バドルを擁する王政派はイギリスとサウジアラビアの支援で各地で大攻勢を展開し,69年までイエメンは内戦状態となった(イエメン戦争)。サラール大佐は大統領に就任し,64年4月新憲法を公布,アラブ連合と軍事協定を結んだが,67年6月の第3次中東戦争の敗北により,イエメン内紛解決のための調停工作が開始された。アラブ連合とサウジアラビアの和解に反対するサラール大統領は同年11月のクーデタで追放され,和平派内閣が成立,サウジアラビアも王政派への援助を停止したため,69年イエメン内戦は終息した。

 70年恒久憲法が制定され,国会の設置も決まり,総選挙が実施された。しかし,選出された国会議員のほとんどが旧王政派に通じる保守的な部族長であり,北イエメンの政局はこれら保守勢力と共和派内部の主導権争いとで常に政情不安が続いた。南・北イエメン統一問題も協議され,これをめぐって保守勢力と共和派の対立が激化し,国境紛争も発生してきた。74年6月軍部の無血クーデタが起こり,ハムディ大佐を議長とする軍事評議会が発足した。ハムディ政権はサウジアラビアの支援を受け,国内の諸部族勢力の反発を抑えて西側寄りの外交政策を展開し,アメリカから積極的に武器を輸入するとともに,中国とも技術協力協定を締結した。南イエメンとも統一協議を進展させ,東西両陣営に対してバランス外交を展開したが,77年10月首都サヌアで暗殺された。ハムディの後を継いだガシュミ大統領も翌年6月南イエメンのルバイイ大統領の特使の書類かばんに仕掛けられた爆弾により死亡。北イエメンは南イエメンのルバイイ大統領を暗殺の首謀者として非難し,国交を断絶したが,相次ぐ暗殺の真相は諸説紛々として明らかでない。78年サーレハ政権が誕生,南・北イエメン国境地帯での紛争が拡大したが,79年アラブ諸国の仲介で休戦が成立,将来の南北統合の協議に合意した。サーレハ大統領も東西両陣営の双方から援助を受けるが,米ソどちらにもくみしないと言明,バランス外交を展開し,90年5月南北イエメンの統一を実現させた。

古来イエメンは〈幸福なアラビア〉と呼ばれるように,アラビア半島では最も自然条件に恵まれているが,イマーム体制下の鎖国政策による経済の衰退は今なお尾を引いている。しかし近隣アラブ産油国に働く出稼ぎ労働者(約120万人)からの本国送金が増大し,北イエメンに空前の建築ブーム,消費ブームを巻き起こした。さらに東西関係の接点としての戦略的重要性により,東西両陣営からの膨大な援助は同国の経済開発を活発化させた。しかし労働力の海外流出に伴う熟練労働力の不足は,国内産業に深刻な問題を投げかけている。特に農業は食糧自給を重要課題とする政府にとって大きな問題を含んでいる。主要作物はモロコシ,キビ,トウモロコシ,ムギ等の穀物類がほとんどである。モカ・コーヒーの名で愛されてきたイエメンのコーヒーは,現在では生産量が1万tを切っている。麻酔性のある茶樹カートが換金作物として急激な増産傾向にあり,問題となっている。おもな輸出品は綿花,菓子,ビスケット,生皮革,コーヒー。1982年12月サヌアから南へ90kmのダマールで大地震が起き,死者は3000人を超え,575年のマーリブ・ダムの決壊に次ぐ大惨事となった。

アラビア半島の南部,アラビア海,アデン湾に臨み,〈南イエメン〉とも呼ばれた。

自然,住民

アラビア半島南端の海岸沿いに横に細長く延び,西部山地,沿岸平野,北部砂漠(ハドラマウト),南部高原に大別される。西部山地はサウジアラビアのアシール山地の南端にあたり,2700mの高峰もある山岳地帯であり,南部高原へ延びる。北部砂漠はルブー・アルハーリー砂漠の延長で沿岸平野に向かってゆるやかに傾斜する。高原や山地を除いては高温多湿の気候である。雨は春と秋の集中降雨期のほかはほとんど降らない。平野部では平均年150mmにすぎない。夏には砂嵐が吹く。住民は90%がアラブ人であるが,アデンのような都市部には自由貿易港として栄えた時代の名ごりで,インド人,パキスタン人,ソマリア人等が少数だが定住している。宗教はイスラムのスンナ派が大多数を占めるが,戒律は厳しくない。イギリス統治時代に騒音防止の見地からコーランの呼声(アザーン)が禁止され,今でもほとんど行われない。飲酒も許されていて,一般に住民は純朴で,どろぼう等の犯罪はほとんど見られない。

政治

紅海とインド洋を結ぶ中継港としてのアデンの戦略的価値を重視したイギリスは,1839年アデンを占領,53年にはアデンは自由港となり,大いに栄えた。スエズ運河の開通とともにその価値は増大し,1937年イギリスの直轄植民地となった。当時アデンから東のアラビア半島南部には20を超える大小の首長国が存在していたが,1882年から1914年にかけてこれらの首長国はイギリスと保護条約を結び,アデン総督下に置かれ,いわゆるアデン保護領Aden Protectorateとなった。第2次世界大戦後は各地に起こった民族主義の嵐の中で,アデン保護領でも民族解放戦線(NLF)が中心となって対英武力闘争が続けられるようになった。59年6首長国が連合して〈南アラビア首長国連邦〉が誕生,62年東部の5首長国を加え〈南アラビア連邦〉とし,63年アデンもこれに加わり,南イエメンの基礎ができた。65年南アラビア連邦の即時独立を求める動きが急となり,テロ事件が続発したためイギリスはアデンについての憲法(法的資格)の停止,民族主義者の逮捕等の弾圧を行ったが,アデン問題に関する国連のイギリス非難決議が採択され,67年イギリスはスエズ以東から軍事撤退を開始した。同年11月南イエメン人民共和国の独立が宣言された。同年12月国連に加盟,アラブ連盟にも加わった。NLF書記長シャービーal-Sha`bīが初代大統領に就任し,68年ソ連と軍事技術援助協定を結んで社会主義路線を採った。

 69年マルクス=レーニン主義を掲げる左派が台頭し,シャービーを更迭してルバイイ・アリーRubayyi `Alī(?-1978)が大統領になり,国有化政策を強硬に推進した。そのため西側諸国との関係が悪化し,同年10月にはアメリカ合衆国と断交した。70年新憲法を制定,国名を〈イエメン人民民主共和国〉と改めた。アラブ諸国で唯一のマルクス=レーニン主義を標榜する国となり,積極的に東寄りの外交を展開,ソ連,中国から大型の援助を取りつけた。北イエメンやオマーンとの国境紛争が散発するなかで,75年6月のスエズ運河再開を機に産油国接近を図り,76年3月サウジアラビアと外交関係を正常化するなど,アラブ諸国との関係改善に努め,ルバイイ大統領のソ連離れの傾向が見え始め,親ソ派のイスマーイール`Abd al-Fattāḥ Ismā`īl書記長との対立が生じた。78年6月24日北イエメンのガシュミ大統領がルバイイ大統領の特使の書類かばんに仕掛けられた爆弾で不慮の死を遂げる事件が起きると,その2日後にルバイイ大統領も失脚,軍事裁判にかけられ処刑された。同年7月1日ムハンマド`Alī Nāṣir Muḥammad首相,イスマーイール書記長による新体制が発足。筋金入りのマルクス主義者と言われるイスマーイール書記長は最高人民議会議長に就任し,79年ソ連と友好協力条約を締結した。しかし80年4月イスマーイール議長は失脚,ムハンマド首相が全権を掌握して,最高人民議会常任幹部会議長(大統領)になった。

 86年1月,首都アデンでムハンマド大統領派とアンタル副大統領を中心とする反乱派との間で戦闘が勃発し,反乱派が勝利した。新大統領にはアッタースHaydar Abū Bakr al-`Aṭṭās(1939- )が就任,ソ連との協力関係強化に努めた。しかし,ソ連における政治改革の影響でソ連からの援助が激減したこともあって,89年には積極的に北イエメンとの統一交渉に取りくみ,90年5月の南北統一となった。

経済,産業

独立以後企業の70%余が国有化され,公共事業,石油事業,アデン港湾関係,食品加工に至るまで公営となったが,国家財政は慢性的な赤字が続き,後発発展途上国(LLDC),最貧国(MSAC)に指定された。人口の約90%が農業,漁業,遊牧に従事しており,輸出品は鮮魚,コーヒー,綿花,石油製品だが,大幅な入超となっている。南イエメン近海は水産資源の宝庫といわれ,日本からは日魯漁業が独立以前から操業しており,1980年から大洋漁業も加わった。
執筆者:

1990年5月22日,南北イエメンが統一して成立した共和国。首都はサヌア。

 新憲法にしたがって,一院制の国会が置かれ,完全統一までの移行期間(2年半)は大統領評議会が行政をつかさどり,大統領評議会メンバーの互選で大統領(元首)が選ばれた。初代大統領には旧北イエメン大統領のサーレハが就任した。また旧南イエメンのイエメン社会党書記長のビードが副議長(副大統領)に,旧南イエメン国民議会議長のアッタースが首相に,それぞれ選出された。統一後,複数政党制が導入され,40余の政党が誕生した。
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百科事典マイペディア 「イエメン」の意味・わかりやすい解説

イエメン

◎正式名称−イエメン共和国al-Jumhuriya al-Yamaniya/Republic of Yemem。◎面積−55万5000km2。◎人口−2426万人(2010)。◎首都−サナアSana(171万人,都市域人口,2004)。◎住民−大部分がアラブ。他にインド系。◎宗教−イスラム(国教)。◎言語−アラビア語(公用語)。◎通貨−イエメン・リヤールYemen Rial。◎元首−大統領,アブドラッボ・マンスール・ハーディAbdo Rabu Mansour al-Hadi(1945年生れ)。◎首相−ハーリド・マフフーズ・アブドッラー・バハーハKhaled Mahfoud Abdullah BAHAH。◎憲法−1994年10月改正憲法公布,2001年2月改正。◎国会−一院制(定員301,任期4年,2001年6年に延長)。◎GDP−266億ドル(2008)。◎1人当りGNP−280ドル(1998)。◎農林・漁業就業者比率−47.4%(2003)。◎平均寿命−男61.8歳,女64.5歳(2013)。◎乳児死亡率−57‰(2010)。◎識字率−62.4%(2009)    *    *アラビア半島南西部の共和国。アラビア名はヤマン。イエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)が1990年に統合して成立した共和国。大部分は不毛の地であるが,2000m級の山地はアラビア半島で最も気候に恵まれ,乾燥農業が行われ,穀物,果実を産する。特産物はモカ・コーヒーでモカ港から積み出される。古来〈幸福のアラビア〉と呼ばれた肥沃の地。 北イエメンは1911年オスマン帝国の宗主権のもとに事実上の独立を得,1934年には国境画定で紛争を起こしていたサウジアラビアと和平協定を結び,独立王国となった。1962年9月王制反対派によるクーデタで共和国が樹立された。一方,南イエメンの旧首都アデンは中継貿易港として古くから栄えた。1839年イギリス東インド会社がアデンを占領,1869年のスエズ運河開通などでアデンの商業・戦略的価値はいっそう高まり,1937年英国はアデンを直轄植民地とした。第2次大戦後,対英独立闘争が戦われ,1967年11月南イエメン人民共和国として独立した。1990年5月の南北統一後,旧南北指導者間の対立から1994年に内戦が起きたが,旧北側が勝利した。1997年4月,内戦終結後初の総選挙が行われ,国民全体会議が躍進。1999年,初の直接選挙による大統領選挙が実施された。2007年天然ガス田が発見され2009年生産を開始したが,一人当たりのGDPは中東でも最貧。失業率が40%に近く出稼ぎも多い。〔2011年以降〕 2011年1月,終身大統領制に道を開く憲法改正案や息子への権限委譲などサレハ大統領の独裁に対する不満が噴出,サナア大学の学生たちのデモからはじまった政権交代要求のデモが,2月,3月に全土に拡大。大統領側は治安部隊を投入,デモ隊への発砲事件が続き多数の死傷者が出た。反政府デモはさらに大規模化し,4月,野党連合は大統領に権限委譲計画を提案したが,大統領は拒否。サウジアラビアなど6ヵ国の〈湾岸協力会議〉が大統領の早期退陣を促す事態収拾案(湾岸協力会議GCCイニシアティブ)を大統領と野党連合双方に提示し調停をこころみ,米国も支持を表明した。国連もGCCイニシアティブへの署名を大統領に促す安保理決議を全会一致で採択した。サレハ大統領は早期退陣を否定,野党連合も収拾案を拒否,治安部隊と反政府勢力,反政府部族が対峙する情勢が続き多数の死者が出るなど内戦の様相を呈しはじめた。こうしたなか,地方での政府の治安維持能力の低下を招き,イスラム過激派組織〈アラビア半島のアル・カーイダ〉(AQAP),シーア派系勢力フーシ派(シーア派のザイド派を信奉。部族指導者アブドルマリク・フーシが率いる武装組織でイエメン北部が本拠。北部のサアダ県等を実質的に支配),南部運動(通称ヒラーク,南部(旧南イエメン)の分離・独立を主張)が勢力を拡大。さらに南部で,この混乱に乗じるかたちでアル・カーイダ系のイスラム過激派武装勢力(AQAP)が台頭し重大な脅威となり,イエメン軍と戦闘状態に入った。11月,サレハ大統領は,最終的に訴追免除などを条件に湾岸協力会議の調停案を受け入れ退陣を表明,ハーディ副大統領は,野党連合の推薦するバシンドワ元外相を暫定内閣の首相に指名。2012年2月暫定内閣のもとで行われた選挙で,ハーディ前副大統領が,暫定大統領に信任され,事態はようやく収拾の方向に動いた。2011年の反政府デモを先導してきた,ノーベル平和賞(2011年)受賞の女性ジャーナリスト,タワックル・カルマンは,ハーディ大統領支持を表明している。2013年,国民各層からの幅広い参加(シーア派系勢力フーシ派や南部運動(ヒラーク)の一部も参加)を得て新憲法の骨格を協議する国民対話が開始。2014年国民対話の終了を踏まえて,中央集権制から連邦制への移行等が合意され,全土を6州(北部4州と南部2州)に再編することを決定。さらに新憲法案を起草する憲法起草委員会が発足した。諸政党は,〈平和・国民パートナーシップ合意〉に署名し,停戦及びバハーハ首相の新内閣の発足等に合意した。〔内戦〕 しかし,2014年2月以降,フーシ派武装組織がアムラン県やジャウフ県に進出し,イエメン北部で勢力を拡大。8月,政府が連邦制を導入する新憲法案を示したことなどに反発し,政府に憲法案の修正や政府ポストの割り当てなどを要求。フーシ派の呼びかけに応じ,燃料補助金廃止の撤廃及び内閣総辞職を求める反政府デモが発生。9月には,イエメン政府軍・治安部隊とフーシ派武装組織がサナア市で大規模な衝突となり,フーシ派がサナア市の政府機関・国軍関連施設を占拠した。フーシ派が権力を掌握し,独自の政府樹立を進めている。一方,同国南部では独立をめざす南部運動がイエメンからの分離を宣言,イエメンは内戦状態に陥った。さらにフーシ派は2015年3月,大統領官邸を武力で制圧し,ハーディ大統領はサウジアラビアに脱出し,政府は拠点をアデンに移した。フーシ派が急速に力をつけた背景には,アラビア半島地域での影響力拡大を狙うシーア派の大国イランからの援助がある。サウジアラビアを中心とするスンニ派の周辺国有志連合はフーシ派に対して空爆を開始,事態は中東地域全体を巻き込む戦乱に発展する懸念が出てきている。他方,この混乱に乗じて拡大したイスラム過激派AQAPは,フーシ派が台頭した2014年以降,これと対抗する形で,サナアなどでテロ活動を活発化させており勢力を拡大している。
→関連項目アデン湾

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イエメン」の意味・わかりやすい解説

イエメン
Yemen

正式名称 イエメン共和国 Republic of Yemen。
面積 52万8076km2
人口 3158万2000(2021推計)。
首都 サヌア

アラビア語では al-Jumhūrīyah al-Ymanīyah。アラビア半島南西端の国。北はサウジアラビア,東はオマーン,南はアデン湾とアラビア海,西は紅海に接する。 1990年5月,イエメン=アラブ共和国 (北イエメン) とイエメン民主人民共和国 (南イエメン) とが統合して成立。国土は紅海とアデン湾岸の狭い海岸平野,内陸部のイエメン高地,北部の砂漠地帯に分けられる。イエメン高地は夏季でも約 28℃,モンスーンの影響で降雨が多い。海岸平野は乾燥地帯で,涸れ川 (ワディ) 地下水,段丘の流れ水を利用して農業が行なわれる。北イエメンは古くから文化が開け,ミナ文明,サバ文明 (前9世紀~前 115) ,ヒムヤル王国 (前 115~後 525) の中心であった。7世紀にイスラム教徒に支配され,16世紀にオスマン帝国の統治を受けた。 1918年にイエメン王国として独立。 1962年アブドゥッラー・アッサッラールの革命が起こり,イエメン=アラブ共和国となった。その後,王制派と革命派の対立から内戦に発展,エジプトやサウジアラビアなどの外国勢力の介入が続いた。一方,南イエメンのアデン地方は,古くから地中海諸国と東アジアとの中継地として重要であったが,1839年イギリスの東インド会社の手に落ち,インド政庁に所属した。イギリスはこの港を守るため,周辺の首長国を徐々に保護領としていった。 1937年アデン地方はイギリスの直轄植民地とされ,1959年から植民地と保護領からなる連邦化が進められた。こうして 1963年に南アラビア連邦が成立,1967年までイギリスの保護下にあった。 1967年 11月南イエメン人民共和国として独立,1970年にイエメン民主人民共和国と改称。 (→イエメン内戦 ) 農産物はイエメン高地のコーヒーのほか,海岸平野では,サトウキビ,大麦,トウモロコシ,ナツメヤシの実,果実,コーヒー,綿花,カート (軽い麻薬) が栽培され,ヒツジ,ヤギなどの牧畜も行なわれる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「イエメン」の解説

イエメン
Yemen

アラビア半島南西端に位置し,紅海に面する共和国。首都サヌア
イエメンは純粋アラブ人の発祥の地といわれ,古くは“幸福なアラビア(アラビア−フェリックス)”と呼ばれ,交易で栄えた。サバー王国(前950〜前115)の後,ヒムヤル王国(前115〜後525)が栄え,6世紀からエチオピア(アクスム王国)の支配を受ける。9世紀ごろシーア派のザイドを開祖とするラシード家の領土となり,1517年オスマン帝国の侵攻(1817年再侵攻)を受け,その勢力下に組み込まれた。
【旧北イエメン】北イエメンでは1918年,ザイド派による統一と独立で,イエメン王国が成立。1958〜61年にはアラブ連合と連邦を結成したが,62年クーデタで国王が追放されて共和国が成立。
【旧南イエメン】南イエメンでは,古代から中継貿易地として栄えたアデンが,ザイド派に支配され続けたのち,1839年イギリスに占領され,1937年直轄植民地とされた。第二次世界大戦後,イギリスの保護下で,1959年アデン植民地と周辺首長国で南アラビア首長国連邦を設立,さらに周辺の首長国を加えて63年南アラビア連邦を結成。しかし,民族解放戦線(NFL)を中核とする反英闘争が活発化し,1967年南イエメン人民共和国として独立。1970年には新憲法を発布,国名もイエメン民主人民共和国に改称,79年にはソ連と友好協力条約を結んだ。
【南北統一とその後】1989年11月南北イエメン代表が統一に関する憲法草案に調印し,90年5月正式に統一を宣言,国名をイエメン共和国とし,初代大統領に北イエメンのサハレが就任。外交はアラブ民族主義をとり,湾岸戦争ではイラク寄りの立場をとったため,未確定国境問題をかかえるサウジアラビアとの関係が冷却化した。1993年の総選挙後,連立内閣が発足したが旧南北間の対立が深まり,翌94年5月本格的な内戦に突入した。旧南側は「イエメン民主共和国」の独立を宣言するが,7月旧北軍がアデンを制圧し,内戦は終了。9月議会は複数政党,市場経済,イスラーム法を柱とすることを定めた。1997年の総選挙でも,与党の国民全体会議が圧勝。

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知恵蔵 「イエメン」の解説

イエメン

アラビア半島南西部の国。首都はサヌアで、旧市街は世界文化遺産に登録されている。面積は日本の約1.4倍。北はサウジアラビア、東はオマーンと接する。西は紅海、南はインド洋に面し、両海洋を結ぶバブルマンデブ海峡(幅約30キロ)は古くから海上交易の要衝になっている。人口は約2440万人(2013年)で、ほとんどがイスラム教徒のアラブ人である。宗派別ではスンニ派が過半数を占めるが、北部はザイド派(シーア派の一派)が多い。
主要産業は農牧業。高温多雨な沿岸部を中心に、ナツメヤシ、綿花、トウモロコシ、カート(国内では合法な麻薬)などの栽培が行われている。内陸の高原地帯はコーヒー栽培が盛んで、旧積出港モカの名を取ったモカ・コーヒーが有名。国の経済を支えるのは石油・天然ガスだが、周辺産油国と比べると産出量・輸出量とも極めて少ない。近代工業も発達しておらず、また期待された観光業も長年の政情不安で低迷しており、「中東の最貧国」から脱却できていない。
歴史は古く、紀元前10世紀頃にはいくつかの古代王朝が栄えた。「旧約聖書」にも、イスラエルのソロモン王を訪ねた「シバの女王」の記述がある。その後7世紀にイスラム化し、16世紀以降はオスマン帝国(オスマントルコ)の支配を受けた。第1次世界大戦後の1918年に北部がオスマン帝国から独立。しかし南部は、東インド会社の貿易港アデンを持つイギリスの植民地支配を受け続けた。南イエメンとして独立したのは67年のことである。その後、北イエメンはアメリカ、南イエメンはソ連の支援を受け、長らく対立関係にあったが、90年5月に南北統一を果たした。しかし、統一政権に入った旧南北代表の確執が収まらず、94年に内戦に突入。これに勝利した旧北のサレハ大統領が、「アラブの春」で退陣に追い込まれる2011年まで独裁政治を続けた。その後、副大統領だったハディが暫定大統領に就任したが、政情は安定せず、15年2月にはイランの支援が伝えられるザイド派の武装組織「フーシ」が首都サヌアを制圧した(15年4月現在)。

(大迫秀樹 フリー編集者/2015年)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イエメン」の解説

イエメン
al-Yaman

アラビア半島南部の地名。民族的には南アラブに属する。紀元前からサバァ,ハドラマウト,ヒムヤルなどの王国が興亡し,ギリシア,ローマからは「幸福のアラビア」と呼ばれた。7世紀にイスラーム化するが,その後シーア派のザイド派が優勢となる。オスマン帝国の支配などをへて,1960年代にザイド派を中心とするイエメン・アラブ共和国(北イエメン)と共産主義のイエメン人民民主共和国(南イエメン)が成立,90年両国が統合してイエメン共和国となった。首都はサヌア,副首都がアデン。アラビア半島やインド洋との交易が盛んで,コーヒーのモカはイエメンの都市の名前。国民の多くが覚醒効果のあるカートという植物を服用することでも有名。

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