アンティゴノス朝(読み)あんてぃごのすちょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンティゴノス朝」の意味・わかりやすい解説

アンティゴノス朝
あんてぃごのすちょう

ヘレニズム時代のマケドニア王国を形成した王統。アレクサンドロス大王没後のディアドコイ(遺将)争覇のなかから生まれ、紀元前168年ローマに滅ぼされて7代約140年の命運を終わった。大フリギア州のサトラップ(総督)だった「隻眼(モノフタルモス)」アンティゴノス(1世)は、前321年帝国摂政アンティパトロスからアジアの総指揮権を与えられてエウメネス討伐とともにディアドコイ戦争に介入、その角逐のなかで前306年息子デメトリオス(1世)とともに、他の競争者たちに抜けがけのマケドニア後継王位を号した。しかしイプソスの戦いで敗れ(前301)、その後いったん回復した主権も、デメトリオスがまた敗れて捕虜になった(前301)ために失われて、真の王朝開基は次のアンティゴノス2世にまつことになった。同朝のもっとも活発な王は第6代フィリッポス5世(在位前221~前179)で、勢力圏も拡大したが、ローマとの軋轢(あつれき)を激化させた。その子第7代のペルセウスはピドナで敗れて(前168)ローマに連行され、マケドニア王国は滅亡した。ヘレニズム諸国は一般に原住民支配のうえになっていたが、この王国だけは例外で、伝統的な家父長的王権と民会に匹敵する軍会とをもち、君主崇拝をまったく入れなかった。

[金澤良樹]

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百科事典マイペディア 「アンティゴノス朝」の意味・わかりやすい解説

アンティゴノス朝【アンティゴノスちょう】

アレクサンドロスの遺将(ディアドコイ)の一人アンティゴノスAntigonos1世(モノフタルモス=独眼王)〔前382?-前301〕を始祖とするヘレニズム王朝。その孫アンティゴノス2世〔前319-前239〕がマケドニア王国を樹立。再三にわたるローマとの抗争(マケドニア戦争)の末,前168年ペルセウスに至って王国滅亡とともに断絶。
→関連項目カッサンドロスヘレニズム

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旺文社世界史事典 三訂版 「アンティゴノス朝」の解説

アンティゴノス朝
アンティゴノスちょう
Antigonos

ヘレニズム時代のマケドニアの王朝
アンティゴノス1世の敗死後,その子がマケドニア王となって成立アテネスパルタを破り,ヘレニズム時代のギリシアの代表的王国となる。前215年以後,ローマと3回のマケドニア戦争を行い,前168年ピドナの戦いでペルセウス王が敗北し,ローマの属州プロヴィンキア)となった。

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世界大百科事典 第2版 「アンティゴノス朝」の意味・わかりやすい解説

アンティゴノスちょう【アンティゴノス朝 Antigonos】

マケドニアのアレクサンドロス大王の部将アンティゴノス1世を祖とするヘレニズム王朝。前306‐前168年。アンティゴノスとその子デメトリオス1世がアレクサンドロス帝国の版図を彼らの支配下に置こうとした野望は前301年イプソスの敗戦により挫かれた。アンティゴノス1世の孫アンティゴノス2世はマケドニアに王朝を確立。その甥アンティゴノス3世はその勢力をギリシアに確立。その甥フィリッポス5世は東進するローマに対抗するためカルタゴハンニバル同盟,ローマと戦って一応の成功を収め(第1次マケドニア戦争,前215‐前205),シリア王アンティオコス3世と同盟しローマと戦ったが,ギリシア人の自由擁護をうたうローマの将軍に名をなさしめた(第2次マケドニア戦争,前200‐前197)。

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