精選版 日本国語大辞典 「アンゴラ」の意味・読み・例文・類語
アンゴラ
アンゴラ
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翻訳|Angola
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基本情報
正式名称=アンゴラ共和国República de Angola
面積=124万6700km2
人口(2009)=1850万人
首都=ルアンダLuanda(日本との時差=-8時間)
主要言語=ポルトガル語,バントゥー諸語
通貨=クワンザKwanza
アフリカ南西部の共和国。南緯4~18°の大西洋に面し,コンゴ河口とクネネ河口の間,1600kmを超える海岸線をもつ。国土は北方の飛地カビンダを含む。
安定陸塊に属するため,地形は比較的単調である。海岸低地の発達は悪く,幅は南部で50km以下,北部で150km程度にすぎない。その背後は階段状に高まり,海岸低地沿いに山地となる。標高は南半で高く,最高峰モロ・モコ山(2620m)をはじめ2000mを超える。この山地の東側内陸部は平均標高1000~1300mの高原盆地につづく。一般に,1月を中心とする暖季には海からの南西風が卓越し,7月を中心とする涼季には内陸からの南東風が卓越する。沿岸部は南ほどベンゲラ寒流の影響を強く受け,乾燥度を増し,年降水量は北部で500mm,南部で50mm以下となる。一般に11月から雨季が始まり,3~4月に大雨季,6~8月に乾季があるが,年による降水量の変動ははげしい。月平均気温は北部,中部で最暖月(3月)27℃,最涼月(7月)20℃,南部はやや涼しく24℃と16℃である。内陸部山地および高原盆地では降水量は多くなり,南部で年1000mm以下になるほかは,1000~1400mmの降水量を示す。気温は山地部の最暖月で南から北に20~22℃,最涼月で15~19℃,高原盆地部では最暖月で23℃,最涼月で18~21℃である。
自然植生は南西部の半砂漠地から,北東に進むにつれて草,低木が密度を増すパークランド型サバンナ,さらに典型的サバンナを経て,内陸中央部の広大な高原を中心に,森林サバンナが国土の2/3以上をおおう。北辺では高木種,常緑種が増し,とくに川辺では熱帯雨林もみられるようになる。ツェツェバエが,高原盆地西縁山地と南東のカラハリ盆地部を除いて,広く国土に広がり,牧畜の大障害となる。
執筆者:戸谷 洋
大部分はバントゥー語系の人々であるが,南東の乾燥地にはサン(ブッシュマン)も居住している。アンゴラには100以上の部族が居住するといわれるが,オビンブンドゥ,ムブンドゥ(キンブンドゥ),コンゴ,チョクウェ,ヌガンゲラ,ニャネカ,フンベ,ヘレロ,アンボなどの諸部族が有力である。なかでも中・南部のオビンブンドゥ族,北西部のムブンドゥ族,北部のコンゴ族の3部族は全人口のそれぞれ35%,20%,10%を占めるといわれている。コンゴ族,ムブンドゥ族はかつてそれぞれコンゴ王国,ヌドンゴ王国を形成していた。15世紀末にポルトガルの航海者がこの地に達し,それ以来ポルトガルと諸王国とのあいだに交易を介した緊密な関係が成立した。しかし,ポルトガルは植民地経営に方針を転換,奴隷交易に力を入れたため,アンゴラの荒廃が進み,その結果,今日でも1km2あたり8.5人(1992)という希薄な人口密度になっている。ポルトガルの植民地政策は同化に重点をおき,アシミラード(同化民)というポルトガル市民権をもつアフリカ人をつくりあげた。またポルトガル人の海外植民を奨励し,独立前には白人の人口は約40万人に及んだ。白人とアフリカ人の混血も生まれ,ムラートとよばれた。ポルトガルの同化政策はアフリカ人のポルトガル化をはかるもので,キリスト教の受容,ポルトガルの言語と文化を身につけること,経済力の保有,軍役などを要求した。したがって教育の面でもポルトガル語教育を重視した。また,カトリックの布教も文明普及の手段として特権的な保護を与えられた。しかしながら皮肉なことに植民地解放闘争の担い手の多くは,アシミラード階層から出現した。1950年ごろから活発化した解放闘争は諸党派を生んだが,多数の部族を吸収したアンゴラ解放人民運動(MPLA)が勢力を伸張させた。長期間の内戦のあとMPLA政権が誕生したが,その間ポルトガル人の本国引揚げは35万人にも及び,経済の再建には苦難の道が待ちかまえている状態である。
執筆者:赤阪 賢
1482年ポルトガル人が初めてコンゴ河口に達し,当時栄えていたコンゴ王国と接触し,国王の名にちなんで同地方をヌゴラNgolaと呼んだ。その後ポルトガルは南部海岸のルアンダ,ベンゲラに交易所を開設し,ブラジル向けの奴隷貿易に従事した。この時期,同時にカトリックの布教活動が行われたが,宣教師たちは奴隷貿易に反対せずむしろ奨励した。1830年の奴隷貿易禁止後はポルトガル人入植者のための労働力としてアフリカ人を使用した。84-85年のベルリン会議の結果,アンゴラはポルトガル領となった。その植民地支配の方針は強制労働政策と同化政策で,内陸の開発は特許会社にゆだねられた。開発はイギリスの資金を借りて行われ,ダイヤモンド鉱山はディアマング社によって採掘され,ベンゲラ鉄道はタンガニーカ・コンセッション社によって1931年完成した。ポルトガル政府は白人の入植を奨励し,白人農場や公共事業に必要な労働力を契約労働の名の下に集めて強制労働を行い,同化政策によってポルトガル語を話し〈文明化〉された少数のアフリカ人には市民権を与えたが,大多数は非同化民として差別した。
ポルトガルのサラザール政権期(1932-68)には本国との結びつきを強め,51年には植民地は海外州と改称されて本国の一州に組み込まれ,積極的に入植計画,資源の開発が行われると同時に,生産物の大半は本国に輸出されるという本国・植民地の一体化が進んだ。このような植民地支配に対して,解放闘争はネトAntônio Agostinho Netoを中心とする社会主義的なアンゴラ解放人民運動(MPLA,1956結成),北部のコンゴ部族主義と反共を唱えるH.ロベルトのアンゴラ国民解放戦線(FNLA,1962結成),同じく中・南部オビンブンドゥ部族主義と反共を唱えFNLAから分裂したJ.サビンビのアンゴラ全面独立国民連合(UNITA,1966結成)の3派に分裂し,激しい対立抗争を繰り返した。74年4月の本国での軍事クーデタによって解放闘争は新局面を迎えた。新軍事政権は海外州の独立を認め,75年1月にはアルボール協定を結び,75年11月の独立予定日を決定し,分裂した組織の統一と暫定政府の樹立を要請した。同年6月のナクル協定による合意にもかかわらず,独立後の政権の座をめぐってFNLA・UNITA連合軍とMPLA軍との間で内戦が起こり,ソ連とキューバが支援するMPLA軍は,ザイール(現,コンゴ民主共和国),南ア共和国,アメリカが支援する連合軍を破り,11月11日独立を宣言した。
独立宣言以降も内戦状態は続き,MPLA軍はキューバ軍の支援を得て反政府ゲリラと戦い,76年2月までにほぼ内戦は終結した。MPLA政権はネト大統領の下に強力なマルクス=レーニン主義に基づく社会主義路線を進め,国内的には経済の国有化政策,対外的にはソ連,キューバをはじめとする東側諸国との結びつきを強めた。77年2月再びザイールの支援を受けたFNLAの活動が活発になり,隣国ザイールとの関係が緊張した。こうしたなかで,3月シャバ州侵攻事件が起こった。アンゴラに亡命していたコンゴ民族解放戦線がキューバ兵とともにシャバ州に侵攻,フランスとモロッコ軍の介入によって事件はおさまったが,ザイールとの国交は断絶した。一方,国内では同年5月に親中国派の前情報相N.アルベスがネト大統領の親ソ路線に反対してクーデタを起こしたが,政府はキューバ軍の支援を得て鎮圧した。さらに7月には中・南部のUNITAの反政府ゲリラ活動が活発化し,特にベンゲラ鉄道がUNITAの勢力下にあったため稼動せず,アンゴラ経済ばかりでなく隣国ザンビアの銅搬出にも大きな影響を与えた。同年ネト大統領はキューバ,ソ連を公式訪問し,両国との政治的・軍事的関係を強化した。さらにジンバブウェ,ナミビア,南ア共和国の解放闘争を支援するため結成されたフロント・ライン諸国の一員に加わり,国連,アフリカ統一機構で積極的に発言するほか,ナミビアの南西アフリカ人民機構(SWAPO)にはゲリラ基地を提供した。78年8月ネト大統領はザイールを公式訪問し外交関係を復活したため,FNLAはザイールの支援を失い崩壊した。
79年9月モスクワで癌腫瘍の手術を受けていたネト大統領が死亡し,代わってE.ドス・サントス副首相が後を継いだ。80年初めのアメリカのレーガン政権の誕生とUNITAに対する公然たる支援表明は,同年9月の南ア共和国軍の大挙アンゴラ侵攻につながった。
基本的には農業国で,植民地期ポルトガル人入植者による輸出用コーヒー,綿花,サトウキビのプランテーションのほかは,アフリカ人の大半はトウモロコシ,キャッサバ,豆類を中心とする自給自足農業を営んでいた。またダイヤモンド,鉄鉱石等の鉱産資源も豊富で,カビンダの石油は1950年代半ばからアメリカ系ガルフ石油会社によって採掘されていた。しかし60年代初めから行われた解放闘争,さらに内戦によって国土は荒廃し,経済は壊滅的打撃を受けた。さらに独立を契機にポルトガル人技術者のほとんどは本国に引き揚げ,自らの力で経済再建を達成するため,MPLA政府はマルクス=レーニン主義路線を採択し,76年2月国家介入法を制定し,ポルトガル人が放棄した農業・工業・商業・金融・運輸・貿易部門の基幹産業の国有化を行い,77年半ばまでに全企業の85%以上が国家の管理下におかれたが,その際,非ポルトガル系外国企業は除外された。さらに79年5月には鉱業法が制定され,すべての鉱産資源はアンゴラ人民に属し,探鉱と採掘は国営企業か国家との合弁によってのみ許可されることになった。その結果,ガルフ石油会社も株式の51%を国家が所有することになった。
執筆者:林 晃史
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1884~85年のベルリン会議で正式にポルトガル領となる。1950年代後半からアンゴラ解放人民運動(MPLA),アンゴラ国民解放戦線(FNLA),アンゴラ全面独立国民連合(UNITA)が解放闘争を開始し,75年11月にMPLAが社会主義国で独立を宣言,すぐに内戦となる。91年の和平合意,97年4月に統一政権樹立で共和国となる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…盛岡市とほぼ同緯度にあり,気候は大陸性で湿度は年間を通じて低い。以前はアンゴラAngora,またエンギュリュEngürüとも呼ばれた。中部アナトリアの特産であるアンゴラヤギの名は,この名に由来する。…
※「アンゴラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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