アレクサンドル1世(読み)アレクサンドルいっせい(英語表記)Aleksandr I Pavlovich Romanov

改訂新版 世界大百科事典 「アレクサンドル1世」の意味・わかりやすい解説

アレクサンドル[1世]
Aleksandr Ⅰ Pavlovich Romanov
生没年:1777-1825

ロシア皇帝。在位1801-25年。性格は列代君主の中で最も評価が分かれ,一説では空想癖と権力愛の複合,二枚舌,狂気の持主とし,一説では寛大,自由で当代屈指の政治的識見の持主と見る。少年時代の環境は特異で,6歳から祖母エカチェリナ2世の豪奢な宮廷でスイス人ラ・アルプの自由主義的教育を受けたが,定期的に訪れた父パーベルの宮廷は兵営風で,ここで専制的,軍事的気風を吹き込まれた。人をそらさぬ周到な神経,二面性,複雑な性格は,猜疑心の強い,圧制的な父の皇帝時代にいっそう強まった。父帝の無原則な政治や腐敗したロシア社会を嫌い,即位を忌避し,国外逃避を望んでいたが,父帝暗殺(この計画を彼は知っていた)の後を受けて1801年3月,即位した。当初,3人の友人を側近として〈三頭政治〉による近代ロシアの建設を念願したが,彼らはしだいに皇帝から離れた。寛大に臣下の献言を聞きながら,結局は自説を変えないアレクサンドルに側近は裏切られたように思う。彼の時代の一つの特徴は側近のドラマティックな交代劇にある。そうした中で彼が実現したのは国務会議・諸省の設立,教育制度の整備,大学の創設,バルト地方の農奴の解放(土地なしの),拷問の廃止などであった。彼の業績は内政よりも外政に顕著で,彼自身これに大きな情熱を傾けた。初めナポレオン敬意を示していたが,やがて諸国民の権利,諸民族の連合を主張するようになり,イギリスとの国交,ロシアの世論の動向に留意しながら,ナポレオンの膨張政策に立ち向かった。1801年のイギリスとの同盟,07年のナポレオンとの協定(ティルジットの和約)と大陸封鎖参加などは12年のモスクワ遠征までの間奏曲である。彼を手に負えぬ強情者だと慨嘆したナポレオンは敗れ,アレクサンドルはグルジア(1801),フィンランド(1809),ベッサラビア(1812)の地を取得して,ヨーロッパ最強の君主となった。世論を排してポーランドを復興し,憲法を与え国会を許した。ロシア憲法草案の作成をスペランスキーに命じた。諸派が一堂に会する聖書協会を奨励して思想の自由に理解を示し,教育と教会とを分離する見識をもった。ウィーン会議で活躍し,キリスト教精神による世界平和をと神聖同盟を提唱したが,しだいに神秘主義的になっていった。反動的なアラクチェーエフと自由主義的なゴリーツィンAleksandr Nikolaevich Golitsyn(1773-1844)とを巧みに使い分けていこうとした晩年であったが,結局,情熱と希望とを失い,国内に秘密結社運動があることを知りながら,適切な処置を命じることなく,自らの継承者を生前に明示することもなくタガンログで没した。デカブリストの乱の契機はここにあった。その死は自然死ではなく,隠遁したのだという説が後をたたない。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アレクサンドル1世」の意味・わかりやすい解説

アレクサンドル1世
アレクサンドルいっせい
Aleksandr I Pavlovich Romanov

[生]1777.12.23. ペテルブルグ
[没]1825.12.1. タガンログ
ロシア皇帝 (在位 1801~25) 。皇帝パーベル1世の長男。祖母エカテリーナ2世 (大帝) の愛を受け,スイス人 F.ラ・アルプに自由主義的教育を施されて育つ。皇太子時代周辺に「若き友人たち」の自由主義的グループがあった。ナポレオンの崇拝者であった父パーベルの気まぐれな政策に不安をいだいた廷臣,近衛連隊の陰謀に加担,1801年彼らのクーデターで父が暗殺された跡を襲って即位。まず,父の寵臣を退け,悪法を廃止し,検閲,旅行制限,洋書の禁を解いた。次に,「若き友人たち」で構成される「非公式委員会」によって自由主義的な国政改革に取りかかり,09年「スペランスキーの憲法草案」を作成させた。政府と官僚機構の近代化 (1802年「官省」の諸「省」への改組,閣議に相当する「大臣委員会」の設置,重要法案の「国会評議会」への諮問など) ,教育施設の整備 (モスクワに加えてハリコフ,カザン,デルプト,ペテルブルグに大学を増設) によって「外見的近代国家」の体裁を整えた。治世初期のこのブルジョア傾向は対外政策にも現れ,01年親ナポレオン政策を放棄してイギリスとの国交を回復,05年対仏大同盟に参加した。しかし,その年の末アウステルリッツの会戦で大敗を喫したので,ティルジットの和約 (07) でやむなくナポレオン1世の大陸封鎖令に加わった。イギリスとの断交はたちまち穀物輸出の不振,経済恐慌を招き,貴族,商人の不満に譲歩,対英通商の復活に黙認を与え,ためにナポレオンのロシア遠征 (12) を受けることになった。しかし,やがてナポレオンが敗れて没落すると,ウィーン会議ではメッテルニヒとともに会議を指導,「正統主義」の原則で絶対主義を復活させ,神聖同盟を結んで国際的反動勢力の先頭に立った。これとともに内政面でも専制君主に一転し,パーベルの寵臣 A.A.アラクチェーエフを登用,軍事組織を官僚行政の全面に拡大する反動体制に逆行した。ロシアはアレクサンドル1世の時代にグルジア (01) ,フィンランド (09) ,ベッサラビア (12) ,アゼルバイジャン (13) などを併合した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アレクサンドル1世」の解説

アレクサンドル1世(アレクサンドルいっせい)
Aleksandr Ⅰ

1777~1825(在位1801~25)

ロシアの皇帝。治世の初めには若い友人たちやスペランスキーらを登用して国政改革をめざした。12年の祖国戦争でナポレオン軍に勝利し,ウィーン会議の主役となった。以後はしだいに反動化し,青年貴族の反発を買った。25年南ロシアで急死した。

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367日誕生日大事典 「アレクサンドル1世」の解説

アレクサンドル1世

生年月日:1777年12月12日?
ロシア皇帝(在位1801〜25)
1825年没

アレクサンドル1世

生年月日:1857年4月5日
ブルガリア公(1879〜86)
1893年没

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世界大百科事典(旧版)内のアレクサンドル1世の言及

【チャルトリスキ】より

… 改革派の敗北と第2回ポーランド分割のあとは西欧に脱出するが,ロシア領に編入され没収の危機にした一族の領地を救うため,95年に人質としてエカチェリナ2世のもとに送られた。そこで後のロシア皇帝アレクサンドル1世と親交を結ぶ。アレクサンドルの妻との仲が疑われ,パーベル1世の命でロシア使節としてサルデーニャに送られるが,1801年のアレクサンドル1世の即位でペテルブルグに呼び戻された。…

【モスクワ遠征】より

…ロシアでは一般に祖国戦争Otechestvennaya voinaという。ロシア皇帝アレクサンドル1世は従来のいきさつからナポレオンの大陸封鎖に従った。しかしそれはロシアの経済体制を根本的にゆるがすことであった。…

【ロシア帝国】より

…しかし女帝の晩年にはフランス革命がおこり,イギリスの産業革命も始まっており,19世紀初めにはナポレオンのモスクワ遠征があった。産業革命と市民革命の時代を迎えて,19世紀にロシアの後進性はかえって明らかになり,世紀前半アレクサンドル1世とニコライ1世が絶対主義体制を保持しながら新しい国際環境のなかで大国ロシアの地位を守ろうとしたが,クリミア戦争に敗れ,この敗戦の衝撃からアレクサンドル2世の時代に〈大改革〉が行われた。この改革で帝国は絶対王政からブルジョア王政への転化の方向をみせたが,続くアレクサンドル3世のもとで政治反動が強まり,国際的には帝国主義時代が始まった。…

※「アレクサンドル1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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