ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アラブ連合共和国」の意味・わかりやすい解説
アラブ連合共和国
アラブれんごうきょうわこく
United Arab Republic; UAR
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1958年、エジプト、シリア両国が結成した連合共和国。1952年エジプト王制を倒し、翌1953年共和制を宣言したナセル(1956年に大統領に就任)は、アラブ統一を悲願としていたが、1958年2月、エジプトはシリアと合併しアラブ連合共和国を結成した。この合併は両国の主権を否定し、両国はエジプト州、シリア州となり、ナセルの一連の進歩的土地経済改革がシリア側にも適用されるという結束度の高い国家統合を目ざしていた。しかし、1961年9月のシリアにおけるクーデターで同国が脱退し、連合共和国は3年余りで幕を閉じた。しかし、その後もエジプトは、ナセル大統領の死後の1971年9月まで、アラブ連合共和国の名称を国名として使用した。
[勝俣 誠]
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…ソ連の軍事援助は経済援助を5倍も上回る規模で行われ,特に1967年戦争敗北以降の軍再建に向けられた。 他方1955年バンドン会議出席後,ナーセルは,非同盟・積極的中立を唱えて新興独立諸国をリードし,また56年スエズ運河国有化,スエズ戦争(第2次中東戦争)を経て,58年シリアとの国家統合を行って〈アラブ連合共和国〉を樹立し,パン・アラブ主義外交を積極的に展開した(アラブ民族主義)。さらに61年シリアとの合邦が崩壊すると,イエメン内戦に軍事介入した。…
…40年代後半から50年代にかけて社会の流動化が進行して新しい社会グループが成長し,革新的政党であるバース党や共産党が大きく台頭してきた。54年の軍事政権崩壊から58年のアラブ連合共和国結成までのシリアの政治は,1955年のバグダード条約,56年のイラクの陰謀,57年のアメリカの陰謀など外的要因によって大きく左右された。そして,人民党や国民党などの帝国主義勢力と連携する国内反動主義者や,これを支持するムスリム同胞団やPPSの保守派グループに対し,知識人,学生,労働者,農民を支持層とする共産党とバース党,およびこれに連携する民族主義者(国民党の左派)とアズムal‐‘Azm(1900‐65)を中心とする民主ブロックが結束して対抗した。…
※「アラブ連合共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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