アラブ連合共和国(読み)アラブれんごうきょうわこく(英語表記)United Arab Republic; UAR

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アラブ連合共和国」の意味・わかりやすい解説

アラブ連合共和国
アラブれんごうきょうわこく
United Arab Republic; UAR

エジプトシリアが 1958年2月に結成した連合共和国。1961年9月シリアのダマスカスクーデターが起こり,シリアが脱退して事実上解体したが,エジプトは 1971年9月にエジプト・アラブ共和国と改称するまで,アラブ連合共和国の国名を使用していた。もともとガマル・アブドゥル・ナセルは,アラブの解放には前提としてアラブの統一が不可欠であるという考えをもっており,いわばその中核として同連合を成立させた。初代大統領には,1958年2月の国民投票によってナセルが選出され,3月には暫定憲法が公布された。また同 3月シリアにおけるすべての政党が禁止され,エジプト同様,国民連合のみが党として新たに存在を認められた。憲法の定める国民議会は,1960年7月大統領の指名による 600人(エジプト 400人,シリア 200人)の議員を集めて開会。しかし,この統合が十分定着しないうちに,シリアのクーデターを契機として崩壊した。その後 1963年4月に再びエジプト,シリア,イラクの 3ヵ国がアラブ連合共和国の名のもとに統合宣言を行なったが,イラク,シリア両国でバース党とナセル支持派の対立が深まったため,8月に統合は白紙に戻った。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アラブ連合共和国」の意味・わかりやすい解説

アラブ連合共和国
あらぶれんごうきょうわこく
United Arab Republic

1958年、エジプト、シリア両国が結成した連合共和国。1952年エジプト王制を倒し、翌1953年共和制を宣言したナセル(1956年に大統領に就任)は、アラブ統一を悲願としていたが、1958年2月、エジプトはシリアと合併しアラブ連合共和国を結成した。この合併は両国の主権を否定し、両国はエジプト州、シリア州となり、ナセルの一連の進歩的土地経済改革がシリア側にも適用されるという結束度の高い国家統合を目ざしていた。しかし、1961年9月のシリアにおけるクーデターで同国が脱退し、連合共和国は3年余りで幕を閉じた。しかし、その後もエジプトは、ナセル大統領の死後の1971年9月まで、アラブ連合共和国の名称を国名として使用した。

[勝俣 誠]

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旺文社世界史事典 三訂版 「アラブ連合共和国」の解説

アラブ連合共和国
アラブれんごうきょうわこく
United Arab Republic

1958年にエジプトとシリアの統合により成立した共和国
イエメンとも連邦関係を結び,エジプトのナセルが初代大統領に就任。しかし,1961年シリアはクーデタが起こって連合を離れ,イエメンとの連邦も解消された。その後,1971年にエジプト−アラブ共和国と改称し,シリア・リビアアラブ共和国連邦を結成して,アラブ世界の中心的存在となっている。

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百科事典マイペディア 「アラブ連合共和国」の意味・わかりやすい解説

アラブ連合共和国【アラブれんごうきょうわこく】

United Arab Republic,略称UAR。1958年成立したシリアとエジプトとの国家連合。アラブ民族主義高揚のなかエジプトのナーセルとシリアのバース党政権下に成立した。しかしエジプトによる中央集権的支配がシリアの反発を招くなどして1961年シリアが脱退,崩壊した。なおエジプトは1971年までこの国名を使用した。

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精選版 日本国語大辞典 「アラブ連合共和国」の意味・読み・例文・類語

アラブれんごう‐きょうわこく アラブレンガフ‥【アラブ連合共和国】

(United Arab Republic の訳語) 一九五八年、エジプトとシリアが合併して成立。六一年には、シリアが分離し、七一年、エジプト‐アラブ共和国となる。

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世界大百科事典 第2版 「アラブ連合共和国」の意味・わかりやすい解説

アラブれんごうきょうわこく【アラブ連合共和国 United Arab Republic】

1958年2月1日,エジプト,シリア両国は合邦し,〈アラブ連合共和国〉を樹立した。アラビア語ではal‐Jumuhurīya al‐‘Arabīya。時代史的には当時アラブ地域に高まっていた全アラブ統合主義の政治的表現と見ることができる。しかし現実の統合過程において,推進母体であるエジプトのナーセルとシリアのバース党は当初から異なった期待と戦略を抱いていた。バース党が統合過程を通してシリア内部での実質的支配権を握ろうとしたのに対し,ナーセルは合邦の条件として,〈一部のシリア人が望んでいるような緩い連邦制ではなく,高度に中央集権化された統合体〉を構想していた。

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世界大百科事典内のアラブ連合共和国の言及

【エジプト】より

…ソ連の軍事援助は経済援助を5倍も上回る規模で行われ,特に1967年戦争敗北以降の軍再建に向けられた。 他方1955年バンドン会議出席後,ナーセルは,非同盟・積極的中立を唱えて新興独立諸国をリードし,また56年スエズ運河国有化,スエズ戦争(第2次中東戦争)を経て,58年シリアとの国家統合を行って〈アラブ連合共和国〉を樹立し,パン・アラブ主義外交を積極的に展開した(アラブ民族主義)。さらに61年シリアとの合邦が崩壊すると,イエメン内戦に軍事介入した。…

【シリア】より

…40年代後半から50年代にかけて社会の流動化が進行して新しい社会グループが成長し,革新的政党であるバース党や共産党が大きく台頭してきた。54年の軍事政権崩壊から58年のアラブ連合共和国結成までのシリアの政治は,1955年のバグダード条約,56年のイラクの陰謀,57年のアメリカの陰謀など外的要因によって大きく左右された。そして,人民党や国民党などの帝国主義勢力と連携する国内反動主義者や,これを支持するムスリム同胞団やPPSの保守派グループに対し,知識人,学生,労働者,農民を支持層とする共産党とバース党,およびこれに連携する民族主義者(国民党の左派)とアズムal‐‘Azm(1900‐65)を中心とする民主ブロックが結束して対抗した。…

※「アラブ連合共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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