アテネ(ポリス)(読み)あてね(英語表記)Athenai ギリシア語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アテネ(ポリス)」の意味・わかりやすい解説

アテネ(ポリス)
あてね
Athenai ギリシア語

古代ギリシアの都市国家(ポリス)。古典期ギリシアではアテーナイとよばれた。都市国家アテネは、中心市アテネを含むアッティカ全体を領域としていたが、アテネの名は守護神である女神アテーネー(アテネ)AthēnēまたはアターナーAthānāの名に由来するものと考えられ、ギリシア人の祖先がこの地に移住してきた紀元前2000年ごろより前に居住していた非インド・ヨーロッパ語族の女神名がもとになったと推定されている。ミケーネ時代のギリシア語を表した線文字B文書には、すでにアタナポトニア(大女神アタナ)の神名がみえている。

[太田秀通]

ミケーネ時代

古典期のアテネ人は、しばしば「われわれは土地生(は)え抜きのものだ」と考えたが、もちろんそうではなく、他の東方言群に属するギリシア人の祖先とともに北方から移住してきたのである。先住民を征服したり放逐したり混血したりしたであろうが、確かなことはわからない。アクロポリスには王宮が営まれ、巨石を積んでつくった城壁(「キクロペスの」とよばれた)を巡らせていた。当時アテネ国家がどのようなものであったかはわからないが、前1600年ごろから500年ぐらいの間のミケーネ文明はここにも及んでおり、線文字B文書を多数出しているピロス王国の構造と大差ない社会と国家の特徴をもっていたものと推測される。すなわち、アテネ王の支配領域は多分アッティカ全土に及び、支配下の多数の村落に農産物、畜産物などの貢納義務を課していたものと思われる。伝説上の前13世紀のアテネ王テセウスによってアッティカが統一されポリスが形成されたという伝承は後世の発明であり、ポリスとは異質の貢納王政がここにあったと考えられる。

[太田秀通]

貴族政ポリス

前1200年前後東地中海世界全体にわたって民族移動が起こり、この大変動の時代にトロヤは滅び、ヒッタイト帝国も滅亡し、攻撃はエジプトのデルタにまで及び、ギリシア本土でもテッサリアイオルコスボイオティアのテーベ、オルコメノス、ペロポネソスのミケーネ、ティリンス、ピロスなどミケーネ文明の中心地は破壊され、ミケーネ文明は以後100年ぐらいの間に滅亡した。この激動の時代のなかで、アテネのアクロポリスも攻撃されたが、完全に破壊されることなく生き残った。しかし王国の衰退は免れず、ミケーネ時代の貢納義務村落の首長はなかば独立国を形成したものと推測される。この間、西方言群に属するドーリア人に追われたギリシア人諸族のなかには、アッティカに移住するものも多く、前8世紀に入ったころからアッティカの人口は急激に増加し、従来から存在した貴族、平民の対立も深刻となり、同世紀中葉にはアッティカ各地の評議会を中心とする貴族層がアテネの統一評議会に結集することによって、地方小共同体の平等を原則とする統合を実現し、ここにアテネを中心市とするポリス国家が形成されたと推測される。このポリスの形成を伝説の王テセウスに帰したのが、シノイキスモス伝説であったと考えられる。これが貴族政ポリスの成立であった。これに対応して貴族政ポリスの役人として3人のアルコンが選出されるようになり、前683年以後、任期1年となり、さらにのちに6人追加され、9人のアルコンを最高の役人とする独特の国制ができあがった。このころ、アテネ市民は貴族、農民、工匠などの身分に分かれ、役人は富と家柄によって選出された。

[太田秀通]

民主政への過渡期

前8世紀なかばからギリシア諸市は、南イタリア、シチリア海岸ならびに地中海、黒海沿岸への植民市建設活動を盛んに行い、独立のポリスが多数存在するギリシア世界が現出した。これらのポリスは、市民の土地所有に基づく共同体をなしていたが、ポリスとポリスとの間にも、ポリスと先住民の後背地との間にも通商、交通が盛んとなり、前7世紀には小アジアのリディアから導入された貨幣使用がギリシアにもしだいに普及してきた。このころアテネには自国の貨幣はなかったが、穀物の輸入やオリーブ油の輸出を通じて貨幣経済の影響を受け、平民の上昇と没落を生み出すこととなり、これが貴族政の動揺を招いた。前7世紀末にキロンが僭主(せんしゅ)政樹立を企て、さらにドラコンが初めて慣習法を成文化したことは、キロンの企てが失敗したとはいえ、貴族に対抗する共同体の一般大衆の動向が背後にあったことを示唆している。前7世紀には、前9~前8世紀の幾何学様式の壺(つぼ)の後を受けて、初期アッティカ黒絵の壺が生産された。

 前7世紀末から前6世紀初頭にかけてのアテネ社会の最大の問題は、中小土地所有農民のなかに、借財の返済不能によって名門、富裕者に隷属する者が多数現れたことであった。隣国メガラとの戦争という差し迫った状況のもとで、アテネはこの事態を放置しておくことはできなかった。前594年、賢者ソロンがアルコンに選ばれ、改革の全権を与えられると、彼は借財の帳消しを断行し、かつ身体を抵当とする借財を将来にわたって禁じ、小土地所有農民の復活を図った。このことはアテネの将来にとって大きな意味をもった。それは貴族政変革の第一歩であったと同時に、隷属労働力を必要とする人は外部からの奴隷に頼るほかなくなったことを意味し、奴隷制発展の刺激となった。ソロンは、市民を土地財産からあがる収入の多寡によって4等級に分かち、等級ごとに市民の権利・義務を定めたが、民会と裁判の一部に無産市民をもあずからせることによって国制民主化の基礎を築いた。しかし彼の改革は貴族、平民双方を満足させず、市民の内部抗争は党争の形をとって展開し、富裕市民は平地党に、中流市民は海岸党に、貧農は山地党に結集して争った。

 こうした党争のなかから山地党を率いたペイシストラトスは、前561年ついに僭主政を樹立した。反対派の勢力も強く、僭主政は動揺したが、ペイシストラトスは国法を変えることなく、小農を保護し、手工業を進め、外国貿易を盛んにし、国力の充実に努め、巧みに民心を獲得した。ペイシストラトスの死(前528)後、その子ヒッピアスが後継者となり、しばらくは事なきを得たが、弟ヒッパルコスHipparchos(前600ころ―前514)がハルモディオスとアリストゲイトンの決起によって殺される(前514)と、僭主政は民衆にとって耐えがたいものとなり、貴族の名門アルクメオンとスパルタの軍事介入によってヒッピアスは追放、約半世紀にわたる僭主政は終わった(前510)。アルクメオン家のクレイステネスは民衆の支持のもとに国制改革を始めた(前508/507)。彼は、従来貴族の勢力地盤となっていた四部族制を解体し、アッティカ全土を都市部、内陸部、海岸部に分け、各部をそれぞれ10のトリッテュス(3分の1の意味)に分け、各部のトリッテュスをくじ引きで結合して部族とし、合計10部族を編成して、これを行政、軍事の基礎とした。この部族制度の最小単位としては区または行政村落としてのデーモスdēmosが設けられ、アテネ市民はデーモスの名簿に正式成員として登録されることになった。また、外国出身または奴隷あがりの在留外人の一部にも市民権が与えられた。そして従来の評議会(400人)は改められ、各部族の選出する50人、合計500人からなる評議会が新設された。各部族の評議会議員は、デーモスの人口により比例代表式に選出された。彼はまた、僭主の出現を防ぐためにオストラキスモス(陶片追放)とよばれる人民投票を定め、またたぶん貨幣財産を一定の比率で土地財産と対等に扱うこととしたため、商工業者で第三級市民(農民級とよばれ、重装兵の中心部分をなした)に上昇する者が出現したと推測される。こうしてクレイステネスの改革によって民主政の枠組みが与えられた。

[太田秀通]

古典期

前6世紀中葉から小アジア西海岸のギリシア人諸市はアケメネス朝ペルシアの支配に入っていたが、前5世紀に入ると、ミレトスを中心とするイオニア諸市はこれに反乱を起こし、アテネは海軍を送って反乱を援助したが失敗した。ペルシアのダリウス大王はアテネの反乱援助を懲らしめるためにギリシア遠征軍を送り、ペルシア軍は、もとのアテネ僭主ヒッピアスを帰国させるためにマラトンに上陸した。これを迎え撃つ約1万のアテネ市民軍はほとんど独力でこれを撃退した(前490)。その後、ラウリオンで発見された銀鉱は、テミストクレスの発案によって大海軍の増強に使われ、これによってサラミス海戦の勝利(前480)の基礎を築いた。前479年アテネはスパルタと協力して、プラタイアイの戦いでペルシア大軍に勝利し、またアテネ海軍はイオニアのミカレ岬においてペルシア海軍を破った。ペルシア戦争におけるこれらの勝利は、東方的専制に対するポリス的自由の勝利を意味した。しかし、ペルシア軍の再来に備えるためにできたアテネを中心とするデロス同盟は、実質的にはアテネ帝国と今日よばれるようなアテネ支配圏を意味するようになり、同盟諸市の支払う貢租はアテネの国家財政を豊かにし、アクロポリスを公共建造物をもって飾ること、下層市民でも役人になれるように日当を支給することを可能にした。民主政はいっそう徹底して、市民ならだれでもアルコンになれることになった。ペリクレス指導下にアテネ民主政は完成し、保守派の牙城(がじょう)アレオパゴス会議の政治権力は奪取され、評議会、民衆裁判、民会の権限が拡大し、民会は名実ともに国家意思の最終決定機関として機能した。

 しかし、アテネの強大化はスパルタとの対立を深め、ついにギリシア世界を二分しての大戦争、ペロポネソス戦争(前431~前404)が起こることとなった。ペリクレスは中心市の城壁(ピレエフスと長城をもって結ばれていた)内に立てこもってスパルタが支配するペロポネソスを海軍で襲う作戦をたてたが、開戦2年目にピレエフス、アテネを襲った悪疫に自らも倒れた。以後クレオン、ヒペルボロス、クレオフォンなどがデーマゴーゴスdēmagōgosとなって好戦的拡張主義をとったが、アルキビアデスの企てたシチリア遠征(前415~前413)に完敗し、スパルタはペルシアと結んでアテネに対抗し、前404年ついにアテネは無条件降伏し、デロス同盟も崩壊した。この年アテネに進駐したスパルタ軍の後援のもとで「三十人僭主」が恐怖政治を行った。翌年民主派が決起して民主政を回復し、テーベ、コリント、アルゴスと結んでスパルタと対抗し、前378年には第二海上同盟を結成したが、アテネの専制的支配は同盟市の批判を浴びて同盟市戦争(前357~前355)が起こるに至った。

 こうしたときに北方マケドニアが興起して南下政策を推し進めると、アテネには反マケドニア派と親マケドニア派の争いが起こった。反マケドニア派のデモステネスは愛国的雄弁をもってマケドニアの野心を説き、市民に決起を訴えるとともに、テーベと結んでカイロネイアでマケドニアのフィリッポス2世の軍と戦ったが敗れた(前338)。それはポリス的自由の墓場であった。以後アテネは長く外国の支配下に置かれることとなった。

 古典期アテネでは、民主政を基盤として、文化もまた極盛に達した。古拙期ギリシアで栄えた叙事詩、抒情詩の後を受けて、酒神ディオニソスの祭典で競演された悲劇、喜劇が繁栄し、三大悲劇詩人アイスキロス、ソフォクレス、エウリピデス、喜劇詩人アリストファネスが活躍した。哲学ではソクラテス、プラトンを経て、アリストテレスにおいて総合的な哲学体系が完成された。歴史記述ではペルシア戦争史を書いて「歴史の父」と後に称せられたヘロドトス、ペロポネソス戦争史を書いたトゥキディデスが出現した。造形美術ではパルテノンを建てた建築家イクティノス、パルテノンやオリンピアのゼウス神殿に妙技を振るった彫刻家フェイディアスが出現した。こうしたギリシア文化の開花期は奴隷制のもっとも発展した時代であり、鉱工業分野で数十人の奴隷からなる製作所が発展し、1000人の奴隷を擁する奴隷貸業者も現れたばかりでなく、中小農民の大部分に至るまで2~3人の奴隷を農業生産の前提としていた。そのことは、アテネの人口構成にも現れ、市民たる成年男子は3万から4万ぐらい、その家族を含めて12万から13万ぐらい、在留外人1万ぐらい、そして男女の奴隷の総数は10万を超えていたと推定してよかろう。それは奴隷制社会と規定してよい社会であった。

[太田秀通]

ヘレニズム時代以後

マケドニアのアレクサンドロス大王による征服以来、ギリシア人は多数マケドニア人とともに東方に移住し、ギリシア風の都市を建設し、これを中心としてギリシア文化とオリエント文化が混合し、いわゆるヘレニズム文化が生まれたが、アレクサンドロスの死後分裂してできたヘレニズム三王国(マケドニア、シリア、プトレマイオス朝エジプト)のうち、後二者の伝統社会は根強く維持された。この間、ギリシアにはアカイア同盟、アイトリア同盟が結成され、スパルタを含めて抗争を繰り返したが、前2世紀にはローマが進出し、前1世紀には小アジア西岸やクレタ島とともにギリシア本土もローマ属州となり、アテネは自治都市として学芸の一中心をなし続けたが、繁栄の中心は東方に移動した。ローマ帝政時代にはハドリアヌス帝の保護のもとにアテネは飾られたが、3世紀後半にはゲルマン人の一派の攻撃を受け、このときはなんとか持ちこたえた。さらに396年ゴート人の王アラリックがアテネを攻撃したとき、城壁に迫った彼はアクロポリスに立つ武装したアテナ女神像におそれをなして立ち去ったという。しかし、アテネの町は彼の軍隊によって略奪された。

 ローマ帝国が東西に分裂し、キリスト教が普及するなかで、プラトンが創設したアカデメイアは非キリスト教的学問の伝統を維持したが、6世紀には非キリスト教的な信仰や学問、芸術を圧迫したユスティニアヌス帝によって閉鎖され(529)、やがてパルテノンはキリスト教聖堂に転用された。それは古代アテネの終焉(しゅうえん)を象徴する事柄であったといってよい。

[太田秀通]

『村川堅太郎訳『アリストテレス アテナイ人の国制』(岩波文庫)』『伊藤貞夫著『古典期アテネの政治と社会』(1982・東大出版会)』『太田秀通著『スパルタとアテネ』(岩波新書)』

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