アウンサン・スーチー(読み)アウンサンスーチー

百科事典マイペディア 「アウンサン・スーチー」の意味・わかりやすい解説

アウンサン・スーチー

ミャンマーの政治指導者。ヤンゴン(旧ラングーン)出身。ビルマ建国の父,アウンサン将軍の長女デリー大学,オックスフォード大学卒。卒業後,英国人のチベット学者と結婚。1969年―1971年国連職員,1985年―1988年京都大学東南アジア研究センター研究員。1988年帰国後,反軍事政権運動の中心的存在となり,同年9月国民民主連盟NLD)の党書記長に就任。1989年7月以来6年間にわたって自宅軟禁状態に置かれた。1990年5月の総選挙には立候補できなかったが,NLDが大勝。しかし軍事政権はその後も居座り,1991年4月に軍事政権の圧力で党書記長を解任される。1991年12月ノーベル平和賞受賞。その後,軍事政権側からの,国外へ出るなら釈放するとの誘いを拒否。1995年7月自宅軟禁から解放,同年10月NLD書記長に復帰。自宅前集会を通じて軍事政権を批判,政権の委譲を訴えてきたが,依然として軍事政権側の監視下にあり,政治活動も制限を受けた。2000年9月に再び自宅軟禁,2002年5月には解放されたが,2003年三たび拘禁された。2009年5月,米国人男性の自宅侵入が〈国家転覆防御法〉違反であるとして起訴され,1年6ヵ月の自宅軟禁の刑が言い渡された自宅軟禁は最長6年であることから,軍事政権が拘束延長を狙ったとみられる。2009年7月国連事務総長潘基文がミャンマーを訪れたが,軍事政権は面会を許容せず,軍事政権に対する国際的な批判が続いた。2011年,ミャンマーのティン・セイン政権は欧米との関係改善を目指して,漸進的な民主化方針を採り始め,スーチー対話を開始,政治犯を釈放,NLDの政党としての再登録を承認した。2011年には米国のヒラリー・クリントン国務長官がミャンマーを訪問,スーチーと面会するなど,ミャンマーの民主化加速を世界に印象づけた。スーチーは2012年1月NLD中央執行委員会議長に選出され,4月,議会補選に立候補,NLDはスーチーを含む41人を当選させた。最大野党を率いるスーチーは2013年3月軍の式典に出席するなど,民主化を後戻りさせないために軍にも一定の妥協的姿勢と現実政治的姿勢を示しつつ,憲法改正と次期大統領選出馬を視野に入れて活動しているとされる。
→関連項目ノーベル平和賞

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世界大百科事典(旧版)内のアウンサン・スーチーの言及

【ミャンマー】より

…超大国に対しては等距離姿勢をとり,79年には左傾化した非同盟諸国会議を非難して脱退した。【大野 徹】
【政治】
 1988年6月から起こった反政府運動は,しだいに全国的な運動に発展し,アウンサン将軍(独立運動の指導者)の長女アウンサン・スーチーAung San Suu Kyiをリーダーとする民主化要求運動に集約されていった。9月には政治運動に乗じて,各地で暴動,掠奪,放火などが横行し,無政府状態となった。…

※「アウンサン・スーチー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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