アインシュタイン(英語表記)Albert Einstein

精選版 日本国語大辞典 「アインシュタイン」の意味・読み・例文・類語

アインシュタイン

[一] (Albert Einstein アルベルト━) 理論物理学者。ユダヤ系ドイツ人でアメリカに帰化。一九〇五年「特殊相対性理論」、一九一五年「一般相対性理論」を発表。ほかに「光量子仮説」「ブラウン運動に関する気体論的研究」「統一場理論」など。一九二一年ノーベル物理学賞を受賞。(一八七九‐一九五五
[二] (Alfred Einstein アルフレート━) 音楽学者。ドイツに生まれ、一九四五年アメリカに帰化。音楽史学に業績を上げ、リーマンの「音楽辞典」の校訂、マドリガルの研究、モーツァルトケッヘル番号の改訂などを行なう。主著「音楽史」。(一八八〇‐一九五二

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デジタル大辞泉 「アインシュタイン」の意味・読み・例文・類語

アインシュタイン(Albert Einstein)

[1879~1955]理論物理学者。ユダヤ系ドイツ人。光量子説・ブラウン運動特殊相対性理論一般相対性理論を発表。1921年、ノーベル物理学賞を受賞。1933年にナチスに追われて渡米。マンハッタン計画に参画したが、第二次大戦後は、世界政府を提唱するなど、平和運動に尽力。

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改訂新版 世界大百科事典 「アインシュタイン」の意味・わかりやすい解説

アインシュタイン
Albert Einstein
生没年:1879-1955

理論物理学者。南ドイツのウルムに生まれたが,1年足らずでミュンヘンに移り,そこで幼・少年時代を過ごした。幼いころから父やおじの影響のもとで自然科学や代数,幾何に関心をもつようになった。ルイートポルト・ギムナジウムに入学したものの,型にはまった教育をきらい,権威主義への反感もあって,1895年に中退し,前年イタリアに移っていた家族を追った。その秋チューリヒのスイス連邦工科大学の入学試験に落ち,1年間アーラウのギムナジウムに通い,翌96年スイス連邦工科大学に入学,教員資格取得のため物理学と数学を学び,1900年卒業した。ドイツ市民権を失って(1896)以来無国籍であったが,01年スイスの市民権を得た。卒業後2年間は定職につけず,臨時教員や家庭教師などをして生計を立て,02年にベルンのスイス特許局の審査技師となった。そこに7年間勤めたが,しごとの合間に行った理論物理学の研究は,20世紀物理学の基礎を築くことになった。すでに1901年から熱力学および統計力学に関する論文を発表していたが,05年に光量子仮説,ブラウン運動の理論,特殊相対性理論という,根本的かつ革命的理論を立続けに提出したのである。そのため,この年は〈奇跡の年〉といわれる。同年分子の大きさの決定法に関する論文によりチューリヒ大学から学位を取得した。特殊相対性理論ははやくから評価され,08年にはベルン大学私講師,続いてチューリヒ大学員外教授(1909),プラハのドイツ系大学の教授(1911),スイス連邦工科大学教授(1912)となった。14年春にはM.プランクやH.W.ネルンストのきもいりで,プロイセン科学アカデミー正会員,カイザー・ウィルヘルム研究所の物理学部長としてベルリンに招かれた。15年,一般相対性理論を完成,その理論からの帰結の一つである重力場による光線の屈曲現象が,第1次世界大戦後まもなく(1919),イギリスの日食観測隊によって確かめられたことによって,アインシュタインと相対性理論の名は世界的に爆発的に知られるようになった。数理物理学への功績,とくに光電効果の法則の発見に対して,21年度ノーベル物理学賞を受けた。22年11月には日本を訪れ,各地で熱狂的歓迎を受けた。また,その前後数年にわたり,世界各国を訪れ,講演を試み,見聞を広げ,同様の熱狂的歓迎を受けたが,他方で,彼の徹底した平和主義とシオニズムに対して示した共感とによって反ユダヤ主義反動勢力の攻撃の的となり始め,彼自身ばかりか相対性理論までP.E.A.レーナルト,J.シュタルクといったドイツ科学提唱者たちのやり玉にあがるようになった。33年初め,ナチス政府樹立とともにユダヤ人学者としてドイツを追放され,同年秋アメリカのプリンストン高等研究所に迎えられた。40年,スイス市民権を保持したままアメリカの市民権を得た。45年研究所を退いたが,その後も研究室をもらって終生研究を続けた。この間,1939年にはL.シラード,E.テラー,E.ウィグナーの要請により,核分裂が軍事的に利用される危険性があることを指摘し,それをナチスが開発する可能性のあることを警告する,シラードの起草になる手紙をアメリカ大統領ローズベルトに書き,これがアメリカの原子爆弾開発計画の発端となった。しかし,彼はこの計画になんら関与せず,その進展についてなにも知らなかった。第2次大戦後は,核兵器廃絶と世界連邦達成のためにたゆみない努力を続けた。とくに死の直前にB.A.W.ラッセルとともに発した核兵器廃絶と戦争廃止のための平和声明(ラッセル=アインシュタイン宣言)は,科学者の平和運動の展開に大きな影響を及ぼし,パグウォッシュ会議の発端をつくった。

アインシュタインが研究を始めた20世紀初頭は,X線,放射線,電子といった微視的世界における驚異的な諸発見が相次ぎ,多くの物理学者の目はそれらの実験的研究に向けられていた。しかし,若きアインシュタインはそれらにではなく,物理学の理論的基礎にかかわる問題に注目した。19世紀の終りに,力学のほかに熱力学,電磁気学という理論体系をもつに至った物理学は,その基礎的なことはすべて見いだされてしまったと思われるようになったが,他方で,それまで物理理論の究極目標とされていた,すべての自然現象をそれを構成する要素(粒子であれ波動であれ)の力学によって説明しようとする,いわゆる力学的自然観が深刻な危機を迎えていた。気体が真空中を飛びかう分子群からなると仮定して気体の諸性質を説明する理論(気体分子運動論),光を弾性媒質(エーテル)の波動とみて光の伝搬の諸性質を説明する理論など,力学的自然観はみごとな成功をおさめていたが,他方で,熱力学第2法則を純粋に力学だけから説明することができないこと,また,気体比熱の説明の困難,光学を統一した電磁場理論の力学的基礎づけの失敗などが明らかになってきたのである。

 アインシュタインは初め,力学にかわって全物理学を統一的に理解する鍵として熱力学と統計力学のもつ普遍性に注目し,それを追究した。ここで開発された統計力学的手法は,まず光量子仮説とブラウン運動の理論に適用され,その後,彼の量子論研究において一貫して強力な武器となった。液体中の浮遊粒子の不規則運動(ブラウン運動)を分子運動論から純理論的に導き,熱力学の成立限界を示すものとして提出されたのがブラウン運動の理論であった。それはまた,当時まだ仮説としてのみ存在していた原子・分子の実在性の実証へ導くものであった。学位論文はこの研究に密接に関係している。

 他方でアインシュタインは,離散的原子の間の遠隔作用に基づく力学と近接作用に基づく電磁場理論の間の非両立性,不整合性,あるいは粒子と場(波動)の間の非両立性,不整合性に注目し,そこから生ずる諸問題を解決しようと試みた。その一つが特殊相対性理論であり,他の一つが光量子仮説であった。

 光量子仮説は,すでに1900年プランクによって提出されたエネルギー量子の考えとは独立に出され,しかもプランクの理論に初めて物理的意味を与えるものであった。その後,固体の比熱の量子論(1906-07),光の粒子・波動二重性の証明(1909),量子過程への遷移確率の考えの導入(1916)など,量子論の発展に重要な貢献をしたが,光量子仮説は,多くの経験によって支持されてきた光の波動論(電磁理論)を無視するきわめて大胆なものであったため,20年近く無視され反対された。24年放射を光量子気体として扱い,新しい統計的方法を提出したS.N.ボースの研究を高く評価したアインシュタインは,その方法を物質粒子の理想気体の場合に適用した。これはボース=アインシュタイン統計と呼ばれる。他方で光量子仮説は,1923年のL.V.ド・ブロイの物質波の考えを導き,それがE.シュレーディンガーの波動力学への道を用意した。完成した量子力学が,波動関数を確率的に解釈し,微視的な現象の因果的記述を放棄したのに対して,アインシュタインは微視的な現象も因果的であって確率論はわれわれの情報不足を補うためのものにすぎないと考え,量子力学を物理理論として完全なものとはみなせないと批判し続けた。これに関してのN.H.D.ボーアとの論争は有名で,それが量子力学の解釈に大きな影響を与えた。

 相対性理論は従来の力学の枠組みを根本的に変革したものであった。すなわち慣性系における光速度不変と相対性原理に基づく特殊相対性理論によって,ニュートン力学における絶対空間,絶対時間,エーテルなどの概念は捨てられ,新たな四次元世界像が打ち立てられた。質量とエネルギーの同等性は,同じ年この理論から導かれた。さらに相対性原理を重力場に拡張する試みは1907年から始められ,15年一般相対性理論として完成した。20年代から電磁場と重力場とを統一する理論の形成に努力を重ねたが,未完成のまま終わった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アインシュタイン」の意味・わかりやすい解説

アインシュタイン
Einstein, Albert

[生]1879.3.14. ドイツ,ウルム
[没]1955.4.18. アメリカ合衆国,ニュージャージー,プリンストン
ドイツ出身の理論物理学者。チューリヒのスイス連邦工科大学に学ぶ。ベルンの特許局技師を経て,プラハ大学,スイス連邦工科大学,ベルリン大学で教授を歴任したが,1933年ナチス政権のドイツを逃れてアメリカ合衆国に渡り,プリンストン高等研究所で研究生活を送った。1905年にチューリヒ大学に学位論文を提出する一方,ブラウン運動の理論的解明,光量子仮説(→光電効果),特殊相対性理論,質量とエネルギーの等価性の,それぞれに関する四つの論文を次々と発表。いずれも物理学史上画期的なものであった。1916年には一般相対性理論を発表して,太陽のそばを通る光線が屈曲することを予測し,これは 1919年の皆既日食の際,アーサー・スタンレー・エディントンの観測により確かめられた。さらに万有引力電磁気力を包含する統一場理論の構築に努めた。量子統計力学にも多くの業績を上げたが,量子力学の発展につれて主流を占めたニールス・ボーアらのコペンハーゲン解釈には最後まで反対し続けた(→EPRパラドックス)。熱烈な平和主義者であり,ユダヤ人の同胞のためにも献身的な努力を惜しまなかった。第2次世界大戦に際しては,ナチスの脅威に対抗するためにアメリカのフランクリン・D.ルーズベルト大統領に原子爆弾の開発を勧告したが(→マンハッタン計画),戦後は核戦争の危険性を除去するよう熱心に訴えた。1921年ノーベル物理学賞受賞。

アインシュタイン
Einstein, Alfred

[生]1880.12.30. ミュンヘン
[没]1952.2.13. カリフォルニア,エルセリト
ドイツ生れのアメリカの音楽学者。ミュンヘン大学でザントベルガーに音楽学を学び,1903年博士号を取得。 18年から音楽学雑誌"Zeitschrift für Musikwissenschaft"を編纂。 39年ニューヨークに移住,同年からマサチューセッツ州にあるスミス・カレッジの音楽学教授となる。特にイタリアのマドリガルに関する研究をはじめ,モーツァルトについての論文や,音楽史に関する著作を数多く残し,その一部は日本語に訳されている。

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百科事典マイペディア 「アインシュタイン」の意味・わかりやすい解説

アインシュタイン

米国の理論物理学者。ユダヤ系。南ドイツのウルムに生まれ,スイスのチューリヒ工科大学を出て,1902年ベルン特許局技師となり,1905年特殊相対性理論光量子仮説,ブラウン運動の理論,1907年固体比熱の理論を発表。1914年ベルリン大学教授,1915年一般相対性理論を完成,1921年ノーベル物理学賞,1922年には来日し熱狂的な歓迎を受けた。この年日本では石原純の手で世界で最初の《アインシュタイン全集》が刊行された。1929年統一場理論を提唱。1933年ナチスに追放され渡米,プリンストン高等研究所員となり,1940年米国市民権を得た。1939年には核分裂が軍事的に利用される危険性があることを指摘し,それをナチスが開発する可能性のあることをローズベルト大統領に警告。平和運動,世界連邦運動にも尽力。→アインシュタイン塔
→関連項目インフェルト光電効果相対性理論矢野健太郎ロートブラット

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化学辞典 第2版 「アインシュタイン」の解説

アインシュタイン
アインシュタイン
Einstein, Albert

ドイツ生まれのユダヤ系の理論物理学者.電気会社経営者の長男として生まれる.後年アメリカに亡命し,スイス国籍も保有した.相対性理論で知られる.1900年チューリヒ工科大学卒業.1902年ベルン特許局技師.1902~1904年に統計力学を一般化した“統計熱力学”を構築し,1905年“分子の大きさの新決定法”で学位を取得.ここまでは物理化学分野の業績であり,かれは当初,物理化学者とみなされることが多かった.1905年相次いで発表された“光量子論”“ブラウン運動の理論”“特殊相対性理論”の三大業績で物理学を一変させた.1911年プラハ大学,1912年チューリヒ工科大学,1914年ベルリン大学教授に就任.この間,“固体比熱の量子論”(1907年),“一般相対性理論”(1915~1916年),“ふく射の量子論”(1916年)を発表.光量子論の業績で,1921年ノーベル物理学賞を受賞.1933年以後プリンストン高等研究所所員となる.化学で重要な論文として,ほかに“光化学的当量則の熱力学的導出”(1912年)があり,1914年の論文では“化学的変化は分子の物理的状態変化にもとづく”と述べている.

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アインシュタイン」の解説

アインシュタイン
Albert Einstein

1879~1955

ドイツ生まれの理論物理学者。主に相対論,量子論,統計力学上の仕事を行う。1905年特殊相対性理論を発表,同年ブラウン運動に気体運動論的理論を応用し,これは統計力学の一つの古典となっている。またプランクの量子仮説を拡張して光量子概念を導入し,光電効果を説明した。15年特殊相対論を拡張して一般相対性理論を立てた。33年,ユダヤ人排斥を行うナチ党が政権をとったので,アメリカに帰化し,晩年は人権擁護運動や国際平和運動の熱心な支持者として活動した。21年ノーベル物理学賞受賞。翌22年来日し各地で講演を行ったことがある。

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旺文社世界史事典 三訂版 「アインシュタイン」の解説

アインシュタイン
Albert Einstein

1879〜1955
ドイツ生まれの理論物理学者
ユダヤ人の小工場主の子に生まれ,イタリア・スイスと移住。早くから数学にすぐれ,16歳のときすでに「運動体の光学」に着目し,1905年特殊相対性理論・量子論を発表,15年に一般相対性理論を完成した。この間,チューリヒ・プラハ・ベルリンの各大学教授を歴任。1921年ノーベル物理学賞を受賞。1933年ナチスによるユダヤ人迫害のためにアメリカに亡命,帰化した。世界連邦主義者で,人権擁護・平和運動の熱心な推進者でもあり,1955年7月,イギリスの哲学者ラッセルとともに人間と科学と知性の名において,核戦争の惨害と反人間性,人類絶滅の危機を警告するラッセル−アインシュタイン宣言を発表した。

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とっさの日本語便利帳 「アインシュタイン」の解説

アインシュタイン

わたしは将来のことを決して考えない。それは間違いなくすぐに来るのだから。\アインシュタイン
米国の理論物理学者(一八七九~一九五五)。

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報

デジタル大辞泉プラス 「アインシュタイン」の解説

アインシュタイン

茨城県那珂郡東海村にある原子力科学館のキャラクター。理論物理学者アルベルト・アインシュタインがモチーフ。

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世界大百科事典(旧版)内のアインシュタインの言及

【アインシュタイン=ド・ハース効果】より

…磁性体が磁化したことによりその試料に力学的回転運動が生ずる現象。1915年,A.アインシュタインとド・ハースWander Johannes de Haas(1878‐1960)によって発見された。磁性体の棒をつり下げ,これにコイルを巻いて電流を通じて磁化⊿Mを生ぜしめれば,磁気の担い手のもつ角運動量には, ⊿M=γ⊿Jmagで与えられる変化⊿Jmagが生ずる(γは磁気角運動量比)。…

【宇宙】より

… この背理を避けるため,20世紀初めスウェーデンのシャーリエC.V.L.Charlier(1862‐1934)は特別な配位の無限階層の宇宙を考えた。しかし無限宇宙の困難を救ったのは彼の不自然な階層構造ではなく,遠い銀河ほど速く後退しているというハッブルの法則であり,物質の存在によって宇宙空間は曲がっているというアインシュタインの一般相対論の考えであった。われわれから後退する遠い銀河からの光は波長がのび(赤方偏移)エネルギーが減少し,宇宙の地平線に近く光速度に近い速度で後退する銀河からの光の波長は限りなくのび,エネルギーは限りなく小さくなるため,オルバースの提出した困難さは除かれるのである。…

【核兵器】より

…その後の研究により,40年までには核分裂に伴い莫大なエネルギーが放出されること,核分裂が起こる際,中性子が放出されて核分裂反応が連鎖的に持続されることが確認され,核兵器実現の前提条件は整っていたといえる。
[アメリカ]
 1939年,第2次世界大戦の勃発直前ドイツの核兵器開発の可能性を憂えたA.アインシュタインはアメリカの大統領ローズベルトに核開発の重要性と緊急性を訴えた。この結果,10月12日〈ウラニウム諮問委員会〉が設置され,40年6月同委員会は国防研究委員会の分科に改編され,さらに41年12月に科学研究開発局(OSRD)に移管された。…

【光電効果】より

…一方,原子や固体中に束縛されている電子は,電磁波の電界によって力を受け放出されると考えられたので,光電子のエネルギーが電磁波の強度,したがって電界ベクトルの大きさには依存しない事実は,どうしても説明することができなかったのである。 この困難は,光を波としてのみ考えるマクスウェルの理論が不十分なせいであることがアインシュタインによって05年に指摘された。アインシュタインは,光は波としての性質のほかに粒子としての性格も合わせもっていると考えた。…

【相対性理論】より

…しかし相対性理論と量子力学とは,その成立の過程において興味ある対照をなしている。量子力学が,多くの実験事実からいわば強制され,N.H.D.ボーアをはじめ多数の研究者の試行錯誤の結果,徐々に最終的な型に収束したのに対し,相対性理論はほとんどA.アインシュタイン1人によって完成され,しかももっぱらきわめて理論的な整合性を動機として作られた点に著しい特色がある。これがアインシュタインをして現代でももっとも魅力ある物理学者の一人たらしめている原因であろう。…

【統計力学】より

…マクスウェルの後継者たちも統計集団を弱い相互作用をする同種の系の集合と誤解しており,この誤解は1930年代まで散見される。しかし,アインシュタインはギブズの統計力学とほぼ同じ理論を独力で作り上げた(1902‐05)のみならず,熱力学そのものにゆらぎを導入し(1906),ボルツマンの原理の内容を転倒してエントロピーから熱力学変数のゆらぎの確率分布がW=exp(S/k)で与えられるとした(1907,10)。ニュートンの光粒子説の再提唱と誤解された光量子仮説などにより,アインシュタインは過激とみなされており,統計力学の仕事はほとんど無視されていたが,物理化学分野のH.W.ネルンストが熱力学の第3法則を発見し(1905),比熱は絶対0度で0となることを示すと,プランクの熱放射式をエネルギー等分配則の代りに用いるアインシュタインの固体比熱理論(アインシュタインの比熱式)は注目され,またコロイド粒子のブラウン運動は熱運動であることを予言したアインシュタインの理論は,J.B.ペランたちの実験で検証された。…

【パグウォッシュ会議】より

…1955年7月に出された〈ラッセル=アインシュタイン宣言〉の呼びかけを具体化するものとして,第1回の会議がカナダ,ノバ・スコシア州のパグウォッシュで開かれた。以来,年1~2回の割合で世界各地で開かれてきているが,最初の開催地にちなんでパグウォッシュ会議と呼ばれている。…

【反ファシズム】より

…日独伊三国軍事同盟締結と大政翼賛会,大日本産業報国会の結成は,40年のことであったが,このときにはすでに反ファシズムの組織と言論は皆無に近かった。【鈴木 正節】
【国際的な反ファシズム文化運動】
 国際的な反ファシズム文化運動の先駆としては,反戦を掲げてロマン・ロランとバルビュスが呼びかけ,ゴーリキー,アインシュタイン,ドライサー,ドス・パソスらが発起人に名を連ねる,1932年8月アムステルダムの国際反戦大会に29ヵ国2200名を集め,翌年パリで第2回大会を開催した〈アムステルダム・プレイエル運動〉,フランスの急進社会党代議士ベルジュリが主唱し,J.R.ブロック,ビルドラックらの協力した33年5月結成の〈反ファシズム共同戦線〉,ジッド,マルローらによる〈革命作家芸術家協会〉の33年における反ファシズム運動などがあげられる。しかし,それが政治的立場を超えた知識人の統一運動として定着するのは,34年の2月6日事件をまたなければならない。…

【光】より

…彼は放射(電磁波)とエネルギーをやりとりして平衡状態になっている空洞の壁を振動子の集合とみなし,この振動子のエネルギーが,エネルギー量子hνを単位としたとびとびの値しかとれないとしたのである(プランクの量子仮説)。これに対しアインシュタインは振動数νの放射そのものがエネルギー量子hνから構成されているとし,光(電磁波)はエネルギーhνをもつ粒子としてふるまうと考えれば光電効果が説明できることを示した(光量子仮説)。そしてこの光量子仮説を原子構造にとり入れることによって,N.H.D.ボーアは,原子の定常状態のエネルギーはとびとびの値しかとらず,原子がエネルギー2の定常状態から1(21)の定常状態へ遷移するとき,hν=21なる振動数νの光を放出するとして,原子スペクトルの規則性に説明を与えたのである。…

【光化学当量の法則】より

…(2)したがって,すべての光化学の初期過程――原子または分子(以下,分子で総称する)が光の吸収に続いて起こす光分解,光異性化,他の分子との衝突による失活や反応,発光,無放射遷移などの過程――は,光子1個が分子に吸収されることによって起こる〉。J.シュタルクとA.アインシュタインは独立に,上記(2)の記述を〈すべての光化学反応は,分子が光子1個を吸収することによって起こる〉と提案していたが,光吸収した分子は必ずしも化学反応を起こすとは限らないので上記のように改められた。最近,強力なパルスレーザーによって,分子が2個またはそれ以上の光子をコヒーレントに吸収して励起される多光子吸収の現象が観測されるようになったので,(2)の〈光子1個〉という記述を〈整数個の光子〉と改める必要がある。…

【非ユークリッド幾何学】より

…ユークリッド幾何学の中に非ユークリッド幾何学のモデルが存在することは,ユークリッド幾何学の体系に矛盾がないかぎり,非ユークリッド幾何学の体系も無矛盾であること,したがって形式的な演繹体系とみるかぎり,ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は両立しうることを示している。なお,現実の時空はユークリッド的か,または非ユークリッド的かは物理学上の問題であるが,A.アインシュタインの相対性理論は後者と考えるほうが合理的であることを示している。幾何学【中岡 稔】。…

【ブラウン運動】より

…もしも液体が完全に静止していれば,重力のため個々の微粒子は長い間には沈降していくが,液体の粘性のため,沈降速度は微粒子に働く重力に比例する。この比例係数を微粒子の移動度というが,アインシュタインは,この移動度にkBT(kBはボルツマン定数,Tは絶対温度)をかけたものがちょうど拡散係数Dに等しくなるというアインシュタインの関係式を発見した。この関係式を導くキーポイントは,微粒子も液体と熱平衡になったときは,その運動エネルギーが液体分子のそれと同じくボルツマンのエネルギー等分配則に従うということであった。…

【マンハッタン計画】より

…L.シラードはその中心にあり,さまざまなルートを利用してアメリカ政府に原爆開発を勧告した。その一つがアインシュタインによるローズベルト大統領あての書簡である。この書簡はシラードが起草し,アインシュタインを促して署名(1939年8月2日)させたものである。…

【量子力学】より

…振動子のエネルギーがhνの整数倍という不連続な値しかとらないことは,古典物理学からは理解しにくいなぞであったが,プランクは荷電粒子による光の放出の機構に未知の部分があり,それが明らかになればなぞも解けるだろうとする立場をとって,苦闘を続けた。
[光量子]
 プランクの公式の革命的な含意をくみとったのはアインシュタインであった。1905年に彼は論文《光の発生と変換に関する一つの発見法的観点》を書き,振動数νの光はhνというエネルギーの粒子(光量子)の流れであるとして(光量子仮説),こう主張した。…

※「アインシュタイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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