れんが造建築(読み)れんがぞうけんちく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「れんが造建築」の意味・わかりやすい解説

れんが造建築
れんがぞうけんちく

組積式構造の一種で、主体構造部(躯体(くたい))をれんがで構成した建築の総称。このなかには壁体のみをれんが積みとし、床組み、小屋組みを木骨または鉄骨で組んだものをも含める。ただし、木骨や鉄骨で柱、梁(はり)を組み、壁のみをれんがで埋めたものは構造的に架構式となるので、木骨れんが造または鉄骨れんが造とよび、本来のれんが造と区別している。

[山田幸一]

構法

れんがはモルタルを接着材として積み上げる。モルタルは現在ではセメントモルタルを使用するが、石灰モルタル、さらに古くはアスファルト粘土などの用いられたこともある。モルタルは固化に時間を要するので、短時間にあまり高く積み上げると自重のため目地(めじ)(れんがとれんがの合わせ目。その間にモルタルが挟まれている)を崩すおそれがあるので、1日工程で積み上げる高さは制限される。現行の赤れんがでセメントモルタルを用いた場合、その限度は1メートルとされている。

 れんが壁の積み方には正面から見たれんがの組合せ方法によりイギリス積み、フランス積み、オランダ積みなどの区別がある。たとえばイギリス積みは、れんがの長手面のみを見せる段と小口面のみを見せる段とを交互に重ね、フランス積みは、一段のなかで長手と小口とを交互に並べる方法である。いずれも水平方向の目地は一直線に通るが、垂直方向には破れ目地(馬乗り目地ともいう)とし、芋(いも)目地(垂直方向に一直線に通る目地)とはしない。芋目地をつくると荷重が集中して地盤に伝達され躯体に不等沈下を生じるおそれが多いからである。したがって芋目地は正面のみならず断面方向でもつくらないようにしなければならない。古今東西を通じて、れんがの長手と小口の寸法比は二対一を標準とするが(日本の現行規格では21センチメートルと10センチメートル)、これは芋目地を避けるのにもっとも都合がよいからであり、それでも避けきれないときに半桝(はんます)、羊かんなどの異形れんがが用いられる。れんが壁の厚さは長手一枚幅のものを一枚積み、小口一枚幅のものを半枚積みといい、それらの組合せにより一枚半積み、二枚積みなどとよぶ。高大なれんが造建築では四枚積み、五枚積みにされることも珍しくない。

 れんが積みの壁体は耐力壁となるので、これに開口(出入口や窓)をつくればそれだけ強度を弱めることになり、いきおいこれは小さくならざるをえず、とくに横長のものは危険である。組積造建築において一般に縦長の窓が多く、横長のものが少ないのはこの理由による。開口幅の狭いときにはその頂部を楣(まぐさ)(水平の横架材。通常は石材を用いる)で支えることも可能であるが、広い場合はアーチ(拱(きょう))を組まなければならない。ゆえに組積造を1名拱式構造とよぶこともある。アーチの応用構法としてドームとボールトがあり、これによって屋蓋(おくがい)や床組みをつくれる。

 れんが積みの表面は左官工事などによって化粧(仕上げ)することもあるが、れんがの肌をそのまま仕上げ面とすることも多い。これを化粧れんが積みといい、目地も単に平らに押さえるものばかりでなく、凹面や凸面につくりだすこともある。また、れんがそのものの表面にあらかじめ文様を施し、それを積み上げて壁面を飾る場合もある。このようなれんがを装飾れんがとよぶ。

[山田幸一]

歴史

れんが造に限らず組積式建築は、酷暑または酷寒でかつ比較的湿度の低い地域で発達している。壁体が厚く、しかも窓の小さい組積式は屋内気候を外界から隔離しやすく、その意味で酷烈な気象条件に適した構造法といえ、植生分布と対応させれば針葉樹林帯に多く建てられている。れんがの使用はまず日干しれんがに始まり、やがて窯(かま)焼きれんがに発展する。ヨルダンエリコでは紀元前6000年以前にさかのぼる日干しれんが遺構が確認されており、降水量が少なく焼成に要する木材にも乏しい砂漠地帯ではいまなおもっとも手軽な建築材料として使用が続いている。前7世紀に至ってバビロンの城壁が窯焼きれんがで築かれ、ローマ時代に入ってその使用が一般化し、欧米ではその伝統が現在に及んでいる。中国では前1世紀ごろから地下墳墓の建設に塼(せん)(窯焼きれんがの中国名)が使用され始め、4世紀ごろから地上建物にも用いられるようになり、とくにこれで塔をつくることが流行し、塼塔はしばしば南画などで格好の画題とされている。中国における塼の使用が独自の考案か西方文明の伝播(でんぱ)によるものかはまだ明らかでないが、いずれにせよその影響は朝鮮半島にまで及び、武寧(ぶねい)王陵(522)で花紋塼(装飾れんが)を用いた壮麗なボールトをつくっている。

 日本では、江戸時代以前に建物基壇はともかく躯体にれんがを用いた例はなく、塼築の地下墳墓も発見されておらず、日本でれんが造の建てられたのは明治開国以降、関東大震災(1923)に至るわずか60年にすぎない。このように日本でれんが造が定着しなかったのは、気候が多湿でかつ地震が頻発したためである。もともとれんが造は窓を大きくとりにくく、また小さな塊をモルタルで接着する構法であるから、地震に対する抵抗力は木造に比べてさえ弱い。このような風土では、れんが積みは本質的に不適当で、ここであえて窓を広くして居住性を高めようとすれば、地震に対してはいっそう危険な建築とならざるをえない。したがって、明治初期にこそ欧米風の赤れんが建築が文明開化の象徴としてもてはやされ、在来の火に弱い木造にかわる町並みとして東京に銀座れんが街が建設され、諸官庁や貴顕の邸宅も競ってこれを採用したが、濃尾(のうび)地震(1891)で早くも構造上の疑問点が提示され、関東大震災における被害でその評価を決定づけた。その後れんが造建築が禁止されたわけではないが、建築法規に示された基準を守るためには壁厚を著しく厚くしなければならないなどの不経済な点が目だって、事実上建てられなくなり、かわって鉄筋コンクリート造が耐震耐火建築として台頭することになる。現在、れんが造の外観を得るためには、躯体を鉄筋コンクリート造などとし、外装にれんが状のタイルを張ることが行われている。

[山田幸一]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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