(読み)とも

精選版 日本国語大辞典 「鞆」の意味・読み・例文・類語

とも【鞆】

[1] 弓を射る時、左の腕に結び付けて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付けもの。革の袋で、中に稲藁(いなわら)を満たし、外を黒漆塗りとし、革緒で結ぶもの。手首の釧(くしろ)などに触れて弦の切れるのを防ぐためとする。
書紀(720)応神即位前(北野本訓)「産れませるときに完腕(たたむき)の上(うへ)に生ひたり。其(そ)の形(かたち)(トモ)の如(こと)し」
[2] (神功皇后征韓の際、鞆を沼名前(ぬなくま)神社に奉納したという故事による) 広島県福山市の地名。古来瀬戸内海航路の要港として知られた。安国寺、沼名前神社、対潮楼、鯛網など史跡や景勝に富む。鞆の津。

ほむた【鞆】

〘名〙 (「ほむだ」とも) 弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物。とも。
※書紀(720)応神即位前「上古の時の俗、鞆を号ひて褒武多(ホムタ)と謂ふ」

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デジタル大辞泉 「鞆」の意味・読み・例文・類語

ほむた【×鞆】

《「ほむだ」とも》「とも(鞆)」に同じ。
「上古の時のひと、鞆をひて―といふ」〈応神紀〉

とも【×鞆】

古く、弓を射放したときの弓返りを防ぐため、左の手首に結びつけてつるを打ち止めた丸い皮製の道具。弦がこれに触れて音をたて、威容を示したといわれる。
[補説]「鞆」は国字。

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改訂新版 世界大百科事典 「鞆」の意味・わかりやすい解説

鞆 (とも)

広島県福山市の港町。沼隈(ぬまくま)半島の先端に位置し,沿岸一帯は鞆ノ浦と呼ばれ,仙酔(せんすい)島や弁天島,朝鮮使節李邦彦にその眺望を〈日東第一形勝〉と賞された対潮楼,半島南西端,福山市の旧沼隈町側の阿伏兎(あぶと)岬にある阿伏兎観音(磐台寺)など,島と海との好景に恵まれている。瀬戸内海国立公園に含まれ,また鞆公園として国の名勝となっている。

瀬戸内海のほぼ中央に位置するため古くから潮待ち港となり,大宰帥大伴旅人や遣新羅使一行も寄港したことが《万葉集》に見え,奈良時代にすでに内海航路の拠点となっていたことが知られる。平安時代の終りになると平氏との結びつきをうかがわせるような伝承が数多く残っている。中世には単に内海の要港としてだけでなく,戦略上の要衝ともなっていたようである。承久の乱の際には鞆正友が上皇方として活躍し,乱後新補地頭が補任されている。また1336年(延元1・建武3)には京都の戦いに敗れて西走した足利尊氏が途中この地で光厳院の院宣を受け取り,東上入京に備えて譜代の武将を配置している。つづく42年(興国3・康永1)には南朝方の将金谷経氏が大可(おおが)島を急襲して北朝方の将森豊家と戦い,49年(正平4・貞和5)には足利直冬が中国探題に任命され,鞆が中国8ヵ国の政治の中心となった。さらに応仁・文明の乱では1471年(文明3)東軍の山名是豊がここに進駐,1544年(天文13)には小早川隆景が本陣を置いて尼子方の神辺(かんなべ)城(現福山市,旧神辺町)を攻撃している。一方経済的には,すでに鎌倉時代に宿屋や遊女屋が軒を連ね,地方の武士や庶民が集まって繁盛しており,室町時代にも1439年(永享11)から47年(文安4)までの史料に船持層の名前や,67年(応仁1)当時の日明貿易船の中に〈鞆宮丸〉の名が見え,尾道と並び称せられるほどに活況を呈していたようである。なお,これまで鞆では遺跡・遺物が確認されていなかったが,最近の発掘調査によって現市街地下に良好な状態で遺跡が存在していることが判明した。
執筆者:

鞆は元来,平・原両村に属していたが,1601年(慶長6)福島正則の検地をうけ,町方の鞆町と村方の後地(うしろじ)村とに分離した。石高は鞆町310石余,後地村153石余,1700年(元禄13)の幕府検地では鞆町208石余,後地村428石余に変更された。鞆町には,近世初頭,原町鍛冶町,石井町,関町,道越町,西町,江浦(えのうら)町の7内町が成立しており,人口は1684年(貞享1)5818人,1697年7756人,1711年(正徳1)7204人,1816年(文化13)4794人と,元禄期にピークを示す。家持層はだいたい450軒を前後し停滞しているが,借屋層は元禄期に200,文化期に1000以上と増加している。

 鞆には公式海駅がおかれ,幕府使臣をはじめ,諸大名,朝鮮通信使らの往来に備えて諸施設が整えられた。福島正則は中世の大可島城とは別に,3層の天守をもつ鞆城を築いて城番をおいたが1615年(元和1)の一国一城令で廃棄され,正則改易ののち福山に入部した水野勝成は鞆に長子勝俊を配した。39年(寛永16)鞆奉行を置いて,鞆在番衆や鞆目付を常駐させた。町行政は,各町の宿老・月行司・町代らによって運営され,町全体のことは各町宿老が月番で担当した。商業は,全国的商品流通の接点として中継的問屋商業を中心に営まれ,年貢米をはじめ,木綿,鉄,紙など諸藩専売品も対象になっている。また,錨・船釘・農具類をつくる鞆鍛冶や,薬種,保命酒,酒造業なども盛んであった。漁業も古くから行われ,西九州海域の捕鯨にも進出していた。また鞆周辺海域の桜鯛はよく知られ,現在も春の鯛網を中心に,訪れる観光客も多い。
執筆者:

鞆 (とも)

弓をひく人の左腕に結びつけて,矢を放った際に弦の衝撃を防ぐために用いる革製品。半月形の袋状に作り,内部に獣毛などをつめて弾性をあたえてある。その形を巴形と形容すれば,鞆絵(ともえ)すなわち巴という語源説につながる。古墳時代の遺品は材料の関係でのこっていないが,形象埴輪として鞆をかたどったものがあるほか,人物埴輪のなかにも,あるいは左腕に着装し,あるいは左腰に垂下した状態で,鞆の形をあらわしたものがある。正倉院にのこる8世紀の鞆は,鹿革製かとの推定説もあるが,鞣(なめし)をしない乾皮(ほしかわ)で作ったもので,牛革の〈手〉と鹿革の〈緒〉とを両端に縫いつけてある。738年(天平10)の〈駿河国正税帳〉には,鞆を馬革で作ったと記し,《延喜式》兵庫寮式には,鞆を熊革で作るとある。《万葉集》巻一の〈ますらをの鞆の音すなり……〉の歌は,鞆を作る人,使う人のほかに,その音を聞く人を文学の世界に登場させている。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「鞆」の意味・わかりやすい解説

鞆【とも】

広島県福山市南端の漁港。一帯は鞆ノ浦といい,古くからタイ漁と景勝で知られ,沖の仙酔(せんすい)島とともに瀬戸内海国立公園に属する。瀬戸内海のほぼ中央にあって奈良時代から内海航路の拠点であった。戦略上の要衝でもあり,中世には争奪の対象となり,江戸時代には公式に海駅が置かれた。福禅寺対潮楼,安国寺,沼名前(ぬなくま)神社がある。応永年間に始まる鞆鍛冶は棒鋼,船釘(くぎ)を多産した。中継的問屋業のほか,薬種,酒造,また捕鯨などの漁業でも知られる。
→関連項目福山[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鞆」の意味・わかりやすい解説


とも

広島県南東部,沼隈半島南東端にある港町。福山市に属する。旧町名。 1956年福山市に編入。中世より瀬戸内海の要港として栄えた。現在も昔の繁栄を偲ぶ町並みが残っている。伸鉄は,在来工業としての船釘製造の鍛冶の伝統をひくもので,代表的な工業である。神功皇后ゆかりの沼名前神社,仙酔島,皇后島があり,鞆の観光のシンボルとなっている。春はタイ網で,夏は海水浴でにぎわう。鞆公園は名勝に指定。法宣寺の天蓋マツは有名。背後には福山の中心市街地にいたるスカイラインが通じ,一帯は瀬戸内海国立公園に属する。


とも

弓具の一種。弓を引く人の左手首に結びつけ,矢を放った際の弦の衝撃を防ぐために使用された。半月形の袋状で,内部に絹綿や獣毛を詰めてつくった革製品。正倉院宝物に伝存し,古墳時代にすでに存在したことが埴輪によって知られている。平安時代以後実用品としてはほとんど絶えていたらしく,武官の射礼 (じゃらい) 用の形式的弓具となった。

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