青森(読み)あおもり

精選版 日本国語大辞典 「青森」の意味・読み・例文・類語

あおもり あをもり【青森】

[一] 青森県中央部の地名。県庁所在地。青森湾に臨み、青森平野の中心部を占める。寛永二年(一六二五東廻海運の起点となり、港町、市場町として発達。青函航路青函トンネルにより、北海道と本州との結節点として機能。八月に行なわれるねぶた祭は有名。明治三一年(一八九八)市制。

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デジタル大辞泉 「青森」の意味・読み・例文・類語

あおもり〔あをもり〕【青森】

東北地方最北端の県。もとの陸奥むつの大半を占める。県庁所在地は青森市。人口137.3万(2010)。
青森県中央部の市。県庁所在地。青森湾に臨み、江戸廻米かいまいの積み出し港として発展。8月に行われるねぶた祭は東北三大祭りの一。人口29.9万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「青森」の意味・わかりやすい解説

青森[県] (あおもり)

基本情報
面積=9644.58km2(全国8位) 
人口(2010)=137万3339人(全国31位) 
人口密度(2010)=142.4人/km2(全国41位) 
市町村(2011.10)=10市22町8村 
県庁所在地=青森市(人口=29万9520人) 
県花=リンゴ 
県木=ヒバ 
県鳥=ハクチョウ

本州の最北端にあり,北は津軽海峡を隔てて北海道と相対し,南は秋田・岩手両県に接している。東は太平洋,西は日本海に面し,三方を海にかこまれている。

明治以前は陸奥国に属し,江戸時代は南部氏の盛岡藩,八戸藩,津軽氏の弘前藩,黒石藩があったが,戊辰戦争後,盛岡藩は減封され,その支藩の七戸藩と3万石で入封した斗南(となみ)藩(旧会津藩)が置かれた。1871年廃藩置県をへて,北海道の館(たて)県(旧松前藩)を含め弘前県に合併後,青森県となり,翌年旧館県を開拓使に,76年二戸郡を岩手県に移管し,現在の県域が定まった。

先土器文化では,岩木山麓遺跡群の一つで,ナイフ形石器を主とする大森勝山遺跡(弘前市)や,円鑿(まるのみ),木葉形尖頭器など先土器時代終末の石器群を出土した長者久保遺跡(上北郡東北町)などがあるが,全体に研究の日は浅い。

 縄文早期では,尖底・貝殻条痕文の白浜式土器の標式遺跡である白浜遺跡(八戸市)や吹切沢(ふつきりざわ)遺跡(下北郡東通村)などが,前・中期では円筒土器の代表的集落遺跡がある一王寺遺跡(八戸市)などがある。後期では岩木山麓遺跡群の一つ,十腰内遺跡が標式遺跡である。本県は縄文文化,ことに後・晩期の文化が最も栄えた土地であり,なかでも亀ヶ岡遺跡(つるが市)と是川遺跡(八戸市)とは西(津軽)と東(南部)の横綱である。いずれも多種多様で華麗な土器をはじめ土製・石製・骨角製遺物,それに低湿地からは籃胎漆器など漆工品などまで出土している。砂沢遺跡(弘前市)や宇鉄遺跡(東津軽郡外ヶ浜町)は北海道南部の続縄文文化との関連で,縄文晩期から弥生文化への過渡期の様相を伝える興味ぶかい時期の遺跡である。

 米どころ津軽平野南部にある垂柳遺跡(田舎館(いなかだて)遺跡。南津軽郡田舎館村)では,晩期縄文式と弥生式との折衷的な型式の田舎館式土器や弥生系の石器とともに炭化米が出土したことから,長い間稲作の存否が問われていたが,近年になって大規模な水田址が出土して注目を集めた。弥生文化の切り開いたルートを通って,やがて土師器の文化も北上し,各地にその集落を残した。しかし古墳そのものとしては,10基の円墳からなる鹿島沢古墳群(八戸市)がいまのところ本県唯一,本州最北の古墳群であり,しかもその年代は奈良時代で,北進して来た律令政府軍が在地の蝦夷勢力と激しく抗争をくりかえしていたころである。

 前田野目(まえだのめ)窯址(五所川原市)は日本最北の須恵器窯址群,古館(平川市)は北海道系の擦文土器や豊富な鉄器を伴い,いずれも平安時代。先述の岩木山麓から津軽平野にかけては,鳥海山遺跡(平川市)のようにこの時代の鍛冶集落が多く存在する。浪岡城址(青森市),藤崎城址(南津軽郡藤崎町),根城址(八戸市)など中・近世の城館址も多い。なかでも尻八館(しりはちたて)(青森市)では発掘調査の結果,標高170mの丘陵頂部の郭遺構に伴い舶載・国産の優れた陶磁器や種々の金属製品,茶臼,すずりなどが数多く出土し,室町時代に比定されるところから,津軽安東氏との関係が考えられている。
陸奥国

青森県は,日本海側と太平洋側の交通路が出会う地点であるとともに北海道への渡航点として重要な位置を占めている。古くは日本海経由の西廻航路によって北陸,京都と結ばれ,西海岸の鰺ヶ沢(あじがさわ),深浦,十三湊(とさみなと)などの商業港が発達した。1624年(寛永1)青森湊が開港し,太平洋経由の東廻航路が開かれて江戸との交流が盛んになり,東海岸の野辺地八戸も商業港として発達した。この両海運のもたらした江戸文化および北陸・京都の文化の影響は県内の祭り,民謡,工芸品などに残っている。また近世の陸路は,津軽地方には弘前を中心として羽州街道と松前街道,南部地方には陸羽街道(奥州街道)が通じていたが,両地方の間の交流は自由ではなかった。北海道とは当初十三湊が交易基地となっていたが,青森湊開港以降はここが利用された。明治以降北海道の開発が進められるとともに,1873年青森~函館間に開拓使庁の蒸気船弘明丸が運航し,北海道への渡航者や津軽の米など内地からの物資を運んだ。91年東北本線,1905年に奥羽本線が開通して東西の二大幹線が整い,08年国鉄による青函連絡船比羅夫丸および田村丸が就航して青森駅から直接乗船できるようになったため,青森港は本州と北海道の重要な結節点となった。第2次世界大戦後は自動車交通の発達で,荷物輸送もトラック輸送にかわり,今日では北海道との貨物輸送も青森,八戸,大間の各港からフェリーボートが利用されるようになった。また,津軽半島の竜飛(たつぴ)岬と北海道の白神岬との間に,戦後国鉄によって開始され,64年日本鉄道建設公団によって引き継がれた青函トンネル工事が進められ,1988年3月よりJR津軽海峡線が開業し,2002年12月東北新幹線の盛岡~八戸間が開業した(これに伴い東北本線盛岡~八戸間のうち県内分は青い森鉄道の運営となる)。10年12月には同新幹線の八戸~新青森間が開業し,東北本線の八戸~青森間も青い森鉄道の運営となった。また高速自動車道では県中央部に東北自動車道(1986),東部に八戸自動車道(1989)が開通し,交通体系が大きく変化した。

青森県は温帯気候の北限に相当し,短い夏と長い冬が特徴である。生物の分布上でも限界を示すものが多い。植物ではオオシラビソアオモリトドマツ),コメツガ,ネズコ,タムシバ,ヒナウチワカエデ,ヒナザクラなどは八甲田山が北限となっており,夏泊半島の先端はツバキの自生北限地である。逆に寒地植物のヒメワタスゲ,カラフトイチヤクソウなどは青森県が南限である。動物ではニホンザル生育地の北限が下北半島山地部にある。なお,日本の生物分布上の境界線の一つといわれているブラキストン線が津軽海峡を通っている。

青森県の中央部を南北に走る奥羽山脈によって,太平洋側と日本海側に分けられる。太平洋側は火山灰に厚くおおわれた三本木原台地や海岸段丘が広く分布している。これに対して日本海側は津軽平野の広大な沖積低地と,秋田県境から岩木山麓にかけて広がる出羽山地の延長の白神山地からなっている。気候も奥羽山脈を境として,太平洋側の表日本型と日本海側の裏日本型に分かれ,冬は大陸からの北西風によって日本海側に積雪が多く,曇天の日がつづく。それに対して,太平洋側は奥羽山脈の山かげになるので雪が少なく,晴天の日が多い。また,梅雨のころ太平洋側の下北,上北,八戸付近では冷たい偏東風(やませ)が吹き,しばしば冷害凶作の原因となる。しかし,山を背にした日本海側ではその影響が少なく,稲作も比較的安定している。日本海側の津軽地方には古くから稲作がとり入れられており,そのことは田舎館村の垂柳地区から弥生時代の炭化米,水田址が出土したことからも証明されている(田舎館遺跡)。それに対して,太平洋側の南部地方はやませの吹く気候条件と,台地が広く水が得にくいという地形条件から,雑穀類,バレイショ,ナタネなどの畑作および馬を主とした畜産が行われてきた。明治以降,津軽地方には稲作との兼業または副業の形でリンゴがとり入れられ,農業の近代化が進められた。南部地方は軍馬の供給地でもあったが,第2次大戦後は,後述のように八戸市を中心とする近代工業が軌道にのり,都市化が進んだため馬に代わって乳牛,肉牛がふえ,豚やニワトリの飼育が盛んになった。古くから稲作を主としてきた津軽と畑作を主とする南部では生活風習の相違が見られる。例えば農民の祭りである津軽の獅子舞や虫送りの行事は稲作と関連があり,南部の〈えんぶり〉は畑作や馬に関連がある。夏祭の〈ねぶた〉も津軽地方では行われるが,南部地方にはない。民芸品でも津軽地方には津軽塗,こぎん,たこ絵,鳩笛などがあるが,南部地方には菱刺,八幡駒など違ったものが見られ,津軽地方のものは西廻海運で運ばれたものが多い。民謡でも津軽地方には《弥三郎節》や《十三の砂山》など稲作に関するものが多い。

南部地方では,大正以降八戸市中部を流れる新井田川支流の蟹沢川,松館川流域の石灰岩と北海道の石炭が結びつき,1919年に八戸に日出セメント工場(現,八戸セメント)が設立されて,工業化が始まった。37年には八戸市北部海岸の浜砂鉄を利用して日本砂鉄鋼業が進出し,金属精錬工場や化学工業などが立地していった。古くから行われていた水産加工を中心とした食料品工業も60年以降本格化した。64年八戸地区が新産業都市に指定され,さらに69年以降三本木原台地ではむつ小川原工業地区の開発が進められ,石油備蓄基地としての役割を担うことになった。しかし,その経済的影響は全県に及ぶものではなく,依然として青森県の経済的基盤は農業にあるということができる。97年の農林水産統計によれば,県の耕地面積約15万4400haのうち水田は45%,リンゴを中心とする樹園地は17%である。水田作付面積は1971年ころから水田利用再編対策のため減少しているが,10a当り収量(1996年産)は全県で589kgで長野,山形に次いで第3位で,中でも津軽地方が高い値を示している。また青森県のリンゴ生産量は全国の50%(1995)を占め,そのほとんどが津軽地方に集中して日本一のリンゴ地帯となっている。青森リンゴは明治中ごろに鉄道が開通して販路が開けたため商品作物として急速に拡大してきた。また品種改良などに県全体として努力してきたため,品質の点では信州リンゴに負けないが,首都圏や大消費地に遠く輸送費がかさむため,市場価格が高くなる短所がある。リンゴの栽培面積は年々増加を示し,新しい品種の伸びが著しく,在来種(国光,紅玉,印度)の減少が目だっている。他方,水田は気候的条件によって単作であるため,稲の収穫が終わると農民は関東方面に出稼ぎにでる。最近は農業の近代化,農業政策の転換による余剰労働力の発生,賃金の地域格差,生活水準の向上など社会経済情勢の変化により出稼者が多くなった。

(1)青森地域 青森平野を中心として,東は夏泊半島から西は津軽半島の東側海岸に面した地域で,気候は裏日本型で,津軽平野と比べて積雪量も多く雪どけもおそい。1871年県庁が青森におかれてから県の政治・経済の中心地となり,東北・奥羽のJR2幹線の結節点として交通の要地ともなっている。しかし,第2次大戦中戦災にあい,それまで青森にあった青森師範や青森医専が弘前に移転したため,県庁都市で国立大学のない都市となっている。

(2)津軽地域 県の中央を走る奥羽山脈と津軽半島脊梁山脈を結んだ線より西側の地域で,岩木川の貫流する津軽平野の南部にある弘前市は古くは城下町として発展し,周辺農村部を背景に農産物の集散地となり,地域経済活動の中心地となった。県内で唯一の国立弘前大学があり,教育文化の中心地でもある。平野の中部を中心とする五所川原市は,江戸時代に新田開発の行われたところで,農産物の集散地として発展した。周辺は水田単作地帯で,農閑期は出稼ぎが多い。また,弘前,黒石,五所川原はリンゴ栽培の中心地で,山地の緩斜面や自然堤防にはリンゴ園が展開している。

(3)南部地域 奥羽山脈の東側に展開する三本木原台地と海岸段丘を含む地域で,気候は表日本型である。北部の野辺地などは別として降雪は少ないが,夏の偏東風の影響で古くから冷害凶作の被害をうけてきた。戦前はヒエを主食としていたところもあるが,近年は水利施設の整備とともに,水稲品種の改良や栽培技術の向上によって開田も進み,水稲を含む農業生産地帯となった。地域の中心都市八戸は古くから日本有数の漁業基地として発展してきたが,1963年新産業都市の指定をうけて以来,臨海工業都市として発展した。今後は工業発展の拠点として,これまでの工業集積の成果を生かしつつ,資源型工業からしだいに高度加工型工業への方向を強めていこうとしている。

(4)下北地域 下北半島の頭部と頸部北半にあたる地域で,気候条件が厳しいため,主要な産業は酪農と林業,漁業である。山地のヒバ材は古くから切り出され,北陸方面に運ばれた。中心地のむつ市はかつて軍港として栄え,現在海上自衛隊の基地がある。70年代に本格化したむつ小川原開発計画は修正され,上北郡六ヶ所村に石油備蓄基地,核燃料サイクル施設が建設された。
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青森[市] (あおもり)

青森県中央部にあり,青森湾にのぞむ市で,県庁所在都市。2005年4月旧青森市と浪岡(なみおか)町が合体して成立した。人口29万9520(2010)。

青森市南西部を除く旧市で,県庁所在都市。1898年市制。人口29万7859(2000)。1624年(寛永1)津軽信牧(2代藩主)によって開港され,津軽藩の外港として発展した。開港当時は遠く北陸方面からも移住者を募り,町づくりがなされた。1871年(明治4)県庁が置かれて,県の政治・経済の中心となり,また北海道の開発が進むにつれ,北海道と本州を結ぶ交通の要地として,重要な位置を占めるようになった。73年には北海道開拓使により青森~函館間に定期航路が開始され,91年に上野~青森間に鉄道が開通,次いで94年に青森~弘前間にも鉄道が通じて,交通都市としての態勢がととのった。第2次世界大戦の末期に,空襲で市街地の約9割が焼け野原と化したが,戦後,特別都市計画の指定を受け,復旧が予想以上に早く,面目一新の新市街が形成された。1954年から62年にかけて隣接町村を合併編入し,市域が拡大した。港湾としての機能は第1に青函連絡船の基地として重要性をもっていたが,1988年青函トンネルが開通してその役目を終えた。商港としては木材,セメント,石油製品などを移入し,金属,食品などを移出している。また漁港としても重要で,近海漁業の基地となっている。工業港としては木材積揚地に木材加工場が設置されている。東北自動車道(1986年開通)が通じ,さらに青森自動車道が延長されている。また2010年に東北新幹線が通じて青森市が本州の終点となり,さらに青函トンネルが完成したため,北海道への接続地点として重要性をもつ。産業の中心は商業で,県内一の商品販売額を示しているが,中小規模の商店が多い。工業は地場産業の食料品,木材製品が大半であるが,交通手段の急速な変化によって,先端技術産業の誘致なども進められている。十和田八幡平国立公園への観光拠点であるとともに,ねぶた祭は東北四大夏祭の一つとして多くの観光客を集めている。市域中西部に特史の三内丸山遺跡がある。
執筆者:

1624年津軽藩は寒村善知鳥(うとう)村を青森村と改め港町を開いた。はじめ浜町,本町,米町が開かれ,諸役免除で商人を集め,陸奥湾の商人船の出入りを青森湊に限定し発展を図った。44年(正保1)越前町,64年(寛文4)に博労町,多葉粉町,塩町,71年に堤川端町,新町,柳町,寺町,鍛冶町,大工町がそれぞれ開かれた。町奉行の下に,町年寄,名主,月行事が町政を担当した。漁師町には漁師頭がいた。1625年東廻航路による江戸廻米が始まり,藩の米蔵も設けられた。積出船ははじめ手船で,廻米量の増加により藩内外の雇船が主となった。日本海航路で上方下り荷が入り,蝦夷地交易の中継港としてもにぎわった。にぎわいの中心となった船問屋29名は1703年(元禄16)仲間を結成し,口銭,蔵敷銭などの統一を図り,変遷を経て幕末に及んだ。江戸中期に繁栄期を迎え,1628年700の町戸数は,1788年(天明8)に981戸,1805年(文化2)に1520戸と増え,江戸中後期の成長がうかがわれる。
執筆者:

青森市南西部の旧町。旧南津軽郡所属。人口2万0873(2000)。津軽平野東部に位置し,北部,東部は津軽山地末端の丘陵からなる。室町時代には北畠氏が支配し,浪岡川に臨む高台に石垣と土塁の一部を残した浪岡城跡(史)がある。近世には羽州街道(現,国道7号線)が通じ,五所川原(ごしよがわら)方面への街道を分岐する交通の要衝であった。丘陵や洪積台地では,明治末期から大正期にリンゴ栽培が始められ,町の中心産業となっている。台地は用水不足で溜池が発達しているが,水田に利用されている十(と)川,浪岡川の沖積地ではしばしば洪水の被害を受けた。そのため1971年以降,国営の浪岡川地区灌漑排水事業がすすめられ,上流に浪岡ダムが建設された。奥羽本線が通じるほか,79年東部山麓沿いに東北自動車道が通じ,浪岡インターチェンジが設けられた。山岳信仰で知られる梵珠(ぼんじゆ)山(468m)は県民の森に指定されている。
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