間部詮房(読み)マナベアキフサ

デジタル大辞泉 「間部詮房」の意味・読み・例文・類語

まなべ‐あきふさ【間部詮房】

[1667~1720]江戸中期側用人そばようにん。6代将軍徳川家宣の寵愛を受け、小姓から上野こうずけ高崎5万石の城主に昇進。新井白石とともに正徳の治指導した。

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精選版 日本国語大辞典 「間部詮房」の意味・読み・例文・類語

まなべ‐あきふさ【間部詮房】

江戸中期の幕府側用人。上野国高崎藩主。六代将軍家宣に寵愛され、新井白石とともに正徳の治を指導。家宣死後も七代将軍家継を擁して幕政に大きな力をふるった。吉宗が八代将軍になると越後国村上に左遷された。寛文六~享保五年(一六六六‐一七二〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「間部詮房」の意味・わかりやすい解説

間部詮房
まなべあきふさ
(1666/67―1720)

江戸幕府中期の政治家。父西田清貞のとき甲府藩主徳川綱重(つなしげ)に仕える。詮房は幼少のころ能役者喜多七太夫(きたしちだゆう)の弟子となり、綱重の子綱豊(つなとよ)(後の6代将軍家宣(いえのぶ))の寵愛(ちょうあい)を受け、やがて小姓(こしょう)に用いられた。これより前、苗字(みょうじ)を間鍋に改称していたが、綱豊の命により間部と改めたという。1704年(宝永1)5代将軍綱吉(つなよし)の養子となった家宣に従って幕臣に加えられ、西丸奥番頭(にしのまるおくばんがしら)として1500俵を給せられ、従(じゅ)五位下越前守(えちぜんのかみ)に叙任。その後昇進・加増相次ぎ、05年には西丸側衆(そばしゅう)に任ぜられ、翌年若年寄(わかどしより)格として1万石の大名となり、従四位下に昇る。09年家宣が将軍に就任すると老中格側用人(そばようにん)に昇り、侍従に任ぜられ、3万石に加増。翌年上野(こうずけ)(群馬県)高崎城主として5万石を領するに至った。詮房は侍講新井白石(あらいはくせき)とともに将軍家宣を補佐し、前代の弊政改革に努め、12年(正徳2)家宣死後も、幼将軍家継(いえつぐ)をいただいて施政に奮闘し、つねに江戸城中に宿直して帰邸することがなかったという。かくして「正徳(しょうとく)の治」と称せられる安定した一時期をもたらしたが、しだいに徳川譜代(ふだい)層の伝統的勢力反感が高まって、新井白石とともに幕府内に孤立し、16年5月8代将軍吉宗(よしむね)の代となると幕政の中枢から失脚。翌年城地を越後(えちご)(新潟県)村上5万石に移された。享保(きょうほう)5年7月16日、村上において不遇のうちに死去した。

[辻 達也]

『辻達也著「新井白石と間部詮房」(『日本人物史大系 近世1』所収・1959・朝倉書店)』『宮崎道生著「間部詮房」(『大名列伝 7』所収・1966・人物往来社)』

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朝日日本歴史人物事典 「間部詮房」の解説

間部詮房

没年:享保5.7.16(1720.8.19)
生年:寛文6.5.16(1666.6.18)
江戸中期の幕臣,大名。通称は右京,宮内。甲府藩士西田喜兵衛清貞の長男。貞享1(1684)年甲府藩主徳川綱豊の小性として召し出され,切米150俵10人扶持を給された。その後綱豊の寵愛を受けて,4年両番頭格,元禄1(1688)年奏者役格,2年用人並,12年用人と昇進し,俸禄も16年には1500俵となった。宝永1(1704)年主君綱豊(家宣と改名)が将軍綱吉の継嗣となった際に幕臣となり,従五位下越前守に叙任,書院番頭格西ノ丸奥番頭に任命された。翌2年西ノ丸側衆に転じ,3000石を知行。3年若年寄格となり,7000石を加増されて1万石の大名に取り立てられた。同年従四位下に叙され,老中次席,西ノ丸側用人に就任。4年1万石加増。6年綱吉が没して家宣が将軍家を相続すると本丸に転じ,侍従に任ぜられたうえ1万石を加増され,老中格に昇った。翌7年さらに2万石を加増されて上野国高崎城主となり,計5万石を領した。 6代将軍家宣,その子7代将軍家継の側用人として,老中・若年寄に関する人事案件の伝達,および侍講新井白石や詮房直属の御用方右筆の補佐を受けての政策立案などの行為を通じて正徳期の政治を主導したが,享保1(1716)年家継が没して,紀州(和歌山)藩主徳川吉宗が将軍に就任すると,側用人を解職されて失脚した。翌2年には領知も越後国村上に移され,同地で没した。温厚でありながら,決断力もあったという。

(深井雅海)

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百科事典マイペディア 「間部詮房」の意味・わかりやすい解説

間部詮房【まなべあきふさ】

江戸中期の政治家。甲斐(かい)甲府藩主徳川綱豊(つなとよ)の小姓となり,その寵(ちょう)を受ける。1704年綱豊(改名して家宣)が5代将軍綱吉の継嗣となると幕臣に加えられ,1709年家宣が6代将軍に就くと老中格側用人に昇進,翌1710年上野(こうずけ)高崎藩主となり幕政に重きをなす。次いで7代家継を補佐し政治の実権を握り,新井白石とともに政局に当たった(正徳の治)。1716年吉宗継位とともに失脚,越後(えちご)村上へ移封された。→徳川家宣徳川家継
→関連項目折たく柴の記徳川吉宗

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改訂新版 世界大百科事典 「間部詮房」の意味・わかりやすい解説

間部詮房 (まなべあきふさ)
生没年:1667-1720(寛文7-享保5)

江戸中期の政治家。父清貞は甲府藩に仕えた。詮房は幼少のころ能役者喜多七大夫の弟子となり,藩主徳川綱豊の寵愛をうけ,小姓に用いられた。1704年(宝永1)家宣(綱豊改名)が5代将軍綱吉の継嗣となったとき,従って幕臣に加えられ,1500俵を給せられ,従五位下越前守に叙任。その後昇進・加増が相次ぎ,06年若年寄格1万石,従四位下。09年家宣が将軍に就任すると老中格側用人に昇り,翌年高崎城主として5万石を領するに至った。詮房は侍講新井白石とともに将軍家宣を補佐し,前代の弊政改革に努め,12年(正徳2)家宣死去後も幼主家継のもとで施政に奮闘し,〈正徳の治〉と称される安定期をもたらした。しかししだいに白石とともに幕府内で孤立し,16年(享保1)8代将軍吉宗の代に幕政の中枢から失脚。20年7月16日不遇のうちに死去した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「間部詮房」の解説

間部詮房 まなべ-あきふさ

1666-1720 江戸時代中期の大名。
寛文6年5月16日生まれ。甲斐(かい)(山梨県)府中藩士西田清貞(きよさだ)の長男。もと能楽師喜多七太夫宗能(むねよし)の弟子。府中藩主徳川家宣(いえのぶ)につかえ,宝永6年家宣が6代将軍の座につくと老中格側用人,上野(こうずけ)高崎藩主(5万石)となる。新井白石とともに「正徳(しょうとく)の治」を推進。享保(きょうほう)元年解職され,翌年越後(えちご)村上にうつされた。享保5年7月16日死去。55歳。武蔵(むさし)忍(おし)(埼玉県)出身。通称は右京。越前守(えちぜんのかみ)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「間部詮房」の意味・わかりやすい解説

間部詮房
まなべあきふさ

[生]寛文7(1667).武蔵,忍
[没]享保5(1720).7.16. 越後,村上
江戸時代中期の側用人。高崎藩主。清貞の子。初め猿楽師喜多七太夫の弟子であったが,貞享1 (1684) 年徳川家宣に召され寵臣となり,右京と称した。宝永6 (1709) 年家宣が将軍になると,侍従となり,同7年高崎5万石の藩主となった。新井白石とともに家宣に重用され,側用人として権力をふるった。家宣の死後も,家継を擁して活躍したが,吉宗が将軍職を継いでからは左遷された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「間部詮房」の解説

間部詮房
まなべあきふさ

1666.5.16~1720.7.16

江戸前・中期の側用人。大名。武蔵国忍(おし)に生まれ,1684年(貞享元)甲府藩主徳川綱豊(家宣)の桜田館に近習として出仕。小姓・用人を勤め,家宣が将軍綱吉の継嗣として江戸城西丸に入ると,奥番頭・側用人となり,1709年(宝永6)家宣の6代将軍就任により老中格。翌年上野国高崎5万石の藩主。家宣没後,幼少の家継を補佐し,新井白石を相談役として幕政を主導。吉宗の将軍就任後は引退し,17年(享保2)越後国村上に転封。その地で没した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「間部詮房」の解説

間部詮房
まなべあきふさ

1666〜1720
江戸中期の6代将軍徳川家宣・7代家継の側用人
初め猿楽師喜多七太夫の弟子。1684年家宣の小姓となり,家宣の将軍就任(1709)後側用人に登用され,老中格上野(群馬県)高崎藩主となった。家宣死後も家継に仕え,新井白石の活躍を助け,政局にあたった。吉宗が8代将軍になると左遷され,越後(新潟県)村上藩に移封された。

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367日誕生日大事典 「間部詮房」の解説

間部詮房 (まなべあきふさ)

生年月日:1666年5月16日
江戸時代中期の大名
1720年没

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世界大百科事典(旧版)内の間部詮房の言及

【正徳の治】より

…江戸中期,1709年(宝永6)から15年(正徳5)まで7年にわたる6代将軍徳川家宣,7代家継の治世の通称。家宣は幕府内外からの期待をうけて将軍となり,生類憐みの令の廃止を手始めに前代の弊政の改廃につとめ,側用人間部詮房(まなべあきふさ),侍講新井白石がこれを補佐した。家宣は前将軍綱吉同様儒学を信奉し,新井白石の助言も加わって,その施策の基調に儒学の色調が濃く,また政治は将軍と側近に主導され,閣老の発言力が弱かったことも前代同様である。…

※「間部詮房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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