藤田幽谷(読み)ふじたゆうこく

精選版 日本国語大辞典 「藤田幽谷」の意味・読み・例文・類語

ふじた‐ゆうこく【藤田幽谷】

江戸後期の儒者。水戸の人。名は一正、字は子定、通称次郎左衛門。東湖の父。抜擢されて彰考館編修になったが時勢を痛論して蟄居。三年後ゆるされて、郡奉行、彰考館総裁となり、「大日本史」編修に貢献尊王攘夷思想を唱え、水戸学形成に大きな役割を果たした。著「正名論」「修史始末」など。安永三~文政九年(一七七四‐一八二六

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デジタル大辞泉 「藤田幽谷」の意味・読み・例文・類語

ふじた‐ゆうこく〔ふぢたイウコク〕【藤田幽谷】

[1774~1826]江戸後期の儒学者。水戸藩士。名は一正。通称、次郎左衛門。立原翠軒に学び、「大日本史」編集に加わり、彰考館総裁となった。門下に尊王攘夷派の志士が多く出た。著「正名論」「勧農或問」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤田幽谷」の意味・わかりやすい解説

藤田幽谷
ふじたゆうこく
(1774―1826)

江戸後期の儒学者、後期水戸学の祖。名は一正、通称次郎左衛門。藤田東湖(とうこ)の父。水戸城下古着商藤田屋与右衛門の次男。立原翠軒(たちはらすいけん)に学び、18歳で士分に登用され、郡奉行(こおりぶぎょう)、彰考館(しょうこうかん)総裁を歴任し本知200石に累進。この間『大日本史』の編纂(へんさん)方式で師翠軒と対立、またしばしば急進的な改革意見を述べて謹慎処分も受けた。晩年イギリス人の常陸(ひたち)大津浜上陸事件にあい、尊王攘夷(じょうい)を主張して、幕末水戸学の基盤をつくる。著作に『正名論(せいめいろん)』(1791)『勧農或問(わくもん)』などがある。文政(ぶんせい)9年12月1日没。53歳。

[山口宗之 2016年7月19日]

『菊池謙二郎編『幽谷全集』全1巻(1935・吉田弥平)』『尾藤正英他校注「正名論」(『日本思想大系 53 水戸学』所収・1973・岩波書店)』『西村文則著『藤田幽谷』(1940・平凡社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「藤田幽谷」の意味・わかりやすい解説

藤田幽谷 (ふじたゆうこく)
生没年:1774-1826(安永3-文政9)

江戸後期の儒者。名は一正,幽谷は号。水戸城下の古着商の子。幼時から利発で,藩の史局彰考館総裁の立原翠軒に儒学を学び,その推薦で彰考館に入り,やがて編修,総裁となるが,一時郡奉行を兼任する。幕末における内外の危機を深刻に受け止め,一方では経世に役だたぬ当時の儒学を批判し,儒学を実用の学に建て直そうとすると同時に,他方では対外的危機にあたって攘夷を鼓吹し,また藩財政の窮乏農村疲弊とが相互に因果をなす藩政の改革を唱道する。その思想はまだ非組織的であり,かつ内政論は焦点を藩政改革論においていたが,攘夷実行の根底として一系の天皇を頂点とする国家体制(〈国体〉)の確立を強調し,逆に弛緩した国内制度の改革を実現するために攘夷を主張するという水戸学尊王攘夷論は,彼によって基礎がおかれたといってよい。一方,修史の面では師の翠軒に対立して志表の編纂継続を主張し,《大日本史》の紀伝志表4部全体の完成に寄与する。しかし,この点をめぐって翠軒から絶交され,それが幕末水戸藩における激烈な党争一因となる。著作には《正名論》《修史始末》《勧農或問》などがある。藤田東湖はその子。
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百科事典マイペディア 「藤田幽谷」の意味・わかりやすい解説

藤田幽谷【ふじたゆうこく】

江戸後期の水戸学者。常陸(ひたち)水戸の人。名は一正(かずまさ),字は子定。古着商の次男に生まれ,彰考館総裁立原翠軒(たちはらすいけん)に学ぶ。1791年士分となり彰考館編修,1807年その総裁となり《大日本史》の編纂(へんさん)に尽くす。折衷学派に属したが,対外的危機を受けとめて攘夷を主張し,攘夷実行の根底として天皇を頂点とする国家体制(国体)の確立を強調,さらに国内の制度改革のためにいっそう攘夷を鼓吹するという独特の尊王攘夷論を唱え,後期水戸学の創唱者となった。1802年家塾の青藍舎を開き,次男の藤田東湖会沢正志斎らが輩出。著書《勧農或問(かんのうわくもん)》《修史始末》。→尊王攘夷運動
→関連項目蒲生君平

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朝日日本歴史人物事典 「藤田幽谷」の解説

藤田幽谷

没年:文政9.12.1(1826.12.29)
生年:安永3.2.18(1774.3.29)
江戸後期の儒学者。水戸藩士。名は一正,字は子定,通称は熊之介,与介,次郎左衛門。幽谷はその号。水戸城西南の下谷で古着商を営む与衛門の次男として生まれる。10歳ごろ彰考館総裁立原翠軒の門に学ぶ。天明8(1788)年翠軒の推挙で彰考館に入り,翌寛政1(1789)年正式な館員となった。3年歩行士列に進み,彰考館編修となり『大日本史』の編纂に参画。町人出身者が士籍に列したことは異例の抜擢である。9年に藩主徳川治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け,編修の職を免ぜられ,小普請組に左遷された。またこの年から『大日本史』編纂の方針をめぐって師翠軒と不和となり,以後絶交状態となる。しかし11年に許されて彰考館勤務に復し,享和3(1803)年『大日本史』志表編修の刊修頭取となった。同年翠軒が致仕し,続いて翠軒派数人も彰考館を去ると,文化3(1806)年には総裁副職,翌4年総裁に就任,150石を給された。5年総裁兼務のまま郡奉行に転じたが,9年に総裁専任に戻る。文政7(1824)年青山延于と共に『東藩文献志』編修を命ぜられたが,まもなく病没。嗣子東湖,門人会沢正志斎,豊田天功(亮)らは水戸学派の中心となった。水戸学の出発となったといわれる『正名論』のほか,『勧農或問』などの著がある。<参考文献>菊池謙三郎編『幽谷全集』,『水戸市史』中巻2

(鈴木暎一)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤田幽谷」の解説

藤田幽谷
ふじたゆうこく

1774.2.18~1826.12.1

江戸後期の儒学者。常陸国水戸藩士。後期水戸学の創始者。名は一正,字は子定,通称は熊之介・与介・次郎左衛門,幽谷は号。古着商の次男で,彰考館総裁立原翠軒(たちはらすいけん)に入門。1788年(天明8)彰考館に入り91年(寛政3)編修となり,「大日本史」編纂に従事。同年「正名論」を執筆。97年,藩政の現状を批判した「丁巳封事」を藩主に呈出して不敬の廉で謹慎処分となる。のち許され,1807年(文化4)彰考館総裁に就任,翌年郡奉行。藩政と対外情勢に強い危機感をもち藩政の改革理論を藩祖「威・義二公の精神」に求め,人材養成に力を尽くした。他方「大日本史」編纂をめぐる翠軒との対立は,のちの党争の起因をなした。著書はほかに「勧農或問」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤田幽谷」の意味・わかりやすい解説

藤田幽谷
ふじたゆうこく

[生]安永3(1774).水戸
[没]文政9(1826).12.1.
江戸時代後期の朱子学派の儒学者。名は一正,字は子定,通称は次郎左衛門。東湖の父。水戸の商家の生れ。志水元禎,立原翠軒に朱子学を学び,15歳のとき彰考館生に抜擢されて士分となり『大日本史』の編集にあたった。 24歳のとき,時勢を痛論したため3年間蟄居。許されてのち,彰考館総裁となり,また郡奉行として民生安定にも力を注いだ。大義名分を強調し,尊王思想を鼓吹し,海防を論じるなど,後期水戸学派の先駆者として大きな役割を演じた。著書『正名論』『勧農或問』『修史始末』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤田幽谷」の解説

藤田幽谷 ふじた-ゆうこく

1774-1826 江戸時代後期の儒者,武士。
安永3年2月18日生まれ。藤田東湖の父。古着屋の子に生まれ,立原翠軒にまなんで彰考館館員となる。寛政3年常陸(ひたち)水戸藩士にとりたてられ,彰考館総裁,郡奉行をつとめた。水戸学の基礎をきずき,会沢正志斎らの門人をそだてた。文政9年12月1日死去。53歳。名は一正。字(あざな)は子定。通称は次郎左衛門。著作に「正名論」「勧農或問(わくもん)」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤田幽谷」の解説

藤田幽谷
ふじたゆうこく

1774〜1826
江戸後期の水戸藩の儒学者
東湖の父。彰考館総裁。『大日本史』編修に尽力。朱子学の立場から大義名分・尊王・海防を論じ,幕末の水戸学の理論的大成者となった。主著に『正名論』『勧農或問 (かんのうわくもん) 』など。

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367日誕生日大事典 「藤田幽谷」の解説

藤田幽谷 (ふじたゆうこく)

生年月日:1774年2月18日
江戸時代後期の儒学者;水戸藩士;彰考館総裁立原翠軒門下
1826年没

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世界大百科事典(旧版)内の藤田幽谷の言及

【勧農或問】より

…水戸藩の学者藤田幽谷が1799年(寛政11)に著した農政改革論。上下2巻。…

【正名論】より

…後期水戸学の祖藤田幽谷の青年期の論文で,時の老中松平定信に贈られたものという。1791年(寛政3)稿。…

【大義名分】より

…義は礼楽に属するとした徂徠学の見解が水戸学の基底にあったことを勘案すれば,大義とは秩序が実現しうる究極の制度を意味する。名分という概念を正面から論じた藤田幽谷の《正名論》(1791)においても,こうした視点が一貫していることを見落とすべきではない。この論では,日本に秩序が備わりうる根拠は天皇を中心にした臣下の別が,名として明確に存する点に求められる。…

【水戸学】より

…幕末における内外の危機に対応して水戸藩士の一部によって展開され,尊王攘夷の観念を打ち出すことによってその後の歴史に大きな影響を及ぼした思想。18世紀末から活躍する藤田幽谷によって基礎がおかれ,弟子の会沢正志斎や子の藤田東湖らによって確立され,彼らの著作や活動,さらには彼らを重用した9代藩主徳川斉昭の声望を通して,藩外にまで影響を与えた。水戸学については,2代藩主徳川光圀が17世紀後半に《大日本史》編纂事業を始めた際に基礎がおかれ(前期),幕末の危機とともに実践的政治論として展開される(後期)という広義のとらえ方のほうが一般的であったといってよい。…

※「藤田幽谷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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