薩英戦争(読み)サツエイセンソウ

デジタル大辞泉 「薩英戦争」の意味・読み・例文・類語

さつえい‐せんそう〔‐センサウ〕【薩英戦争】

文久3年(1863)鹿児島で英国東洋艦隊と薩摩藩との間で行われた戦争。前年の生麦事件が原因。両軍ともに大きな損害を被り、同年講和。以後両者の提携が進んだ。

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精選版 日本国語大辞典 「薩英戦争」の意味・読み・例文・類語

さつえい‐せんそう ‥センサウ【薩英戦争】

江戸時代、文久三年(一八六三)七月、鹿児島沖でイギリスの東インドシナ艦隊と薩摩藩との間で行なわれた戦争。前年八月に起きた生麦(なまむぎ)事件が原因。双方とも損害が多く、同年一一月、横浜で和議成立。以後、互いに相手実力を高く評価した結果、講和が成立し、両者は提携するに至った。

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改訂新版 世界大百科事典 「薩英戦争」の意味・わかりやすい解説

薩英戦争 (さつえいせんそう)

1863年(文久3)薩摩藩とイギリス艦隊との間で行われた戦争。1862年生麦事件に関し,イギリス代理公使ニールは幕府に対しては公式謝罪状と償金10万ポンドを,薩摩藩には犯人の処刑と償金2万5000ポンドを要求し,幕府はこれに応じたが,薩摩藩は応じなかった。そこでイギリスは翌年6月28日艦隊7隻をもって鹿児島湾に侵入して薩摩藩と交渉を始めたがらちがあかぬまま,7月2日藩船天祐丸,白鳳丸,青鷹丸を捕獲した。薩摩藩はただちに開戦命令を発し,正午天保山砲台はじめ諸砲台一斉に砲撃を開始した。荒天のなかではげしい交戦が続けられ,翌日もまた小規模の交戦があったが,4日になると船体の修理,石炭弾薬・食料などの欠乏のため空しくイギリス艦は退去した。イギリス側は2時間も応戦が遅れ,パーサス号は錨鎖を切って待避し,また旗艦ユーリアラス号艦長ジョスリング大佐,副長ウィルモット中佐をはじめ戦死13名,負傷者50名の損害,薩摩藩側は戦死5名,負傷者十数名にすぎなかったが,集成館,鋳銭所や城下町の1割を焼失し,また前述の汽船3隻,琉球船2隻などを焼亡するなど物的損害は大きかった。この戦いでイギリス艦の用いたアームストロング砲の射程は薩摩藩砲台の4倍の火力であったから,薩摩藩人に無謀の攘夷の非を手痛く反省させた。そこで大久保利通らを遣わしてイギリスと和を結んだが,この戦いによりイギリスは薩摩藩の実力を評価し,薩摩藩は西洋文明の優秀さを深く悟り,これに学ばんとして以後急速に薩英の連携が成り立った。65年(慶応1)3月には渡英留学生19人の派遣を実施し,またイギリス商人グラバーの艦船・兵器斡旋等,幕末の政局に大きな影響をもつに至った。
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百科事典マイペディア 「薩英戦争」の意味・わかりやすい解説

薩英戦争【さつえいせんそう】

1863年7月薩摩(さつま)鹿児島藩と英艦隊が交戦した事件。生麦(なまむぎ)事件に関する英国の要求を鹿児島藩が拒否したため英艦7隻が鹿児島沖に遠征,市街を報復砲撃した。薩摩側も応戦したため両者ともに損害が多く勝敗が決しないまま大久保利通らを遣わして11月に和議を結び,鹿児島藩は生麦事件の償金支払と犯人捜査を約した。鹿児島藩は近代的軍事力の威力を知ってこれを機に攘夷論から積極的開国論に藩論を転換していく。一方,英国も鹿児島藩の実力を評価したため以後両者は接近し提携するにいたる。
→関連項目ウィリス五代友厚島津忠義島津久光尊王攘夷運動倒幕運動明治維新

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「薩英戦争」の意味・わかりやすい解説

薩英戦争
さつえいせんそう

幕末、鹿児島で行われた薩摩藩とイギリス艦隊との戦闘。1862年(文久2)8月の生麦(なまむぎ)事件に関し、幕府はイギリスに対し公式謝罪と償金10万ポンドの支払いに応じたが、薩摩藩は犯人の引渡しと償金2万5000ポンドの要求を拒否した。そこで翌63年6月27日、イギリス艦隊司令長官キューパーは鹿児島湾に侵入、翌日犯人の処刑と前記償金の支払いを求めた。しかし交渉は進展せず、7月2日イギリス艦隊は薩藩の汽船天祐(てんゆう)丸など3隻を拿捕(だほ)した。薩藩の天保山(てんぽうざん)砲台はじめ各砲台も発砲、旗艦ユーリアラス号では艦長ジョスリング大佐、副長、水兵(7名)が戦死、6名が負傷した。旗艦の弾薬庫前に幕府償金の箱が積まれていたため、砲撃が2時間も遅れたという。3日も小戦闘が続いが、4日に至りイギリス艦隊は、食料・弾薬・石炭の欠乏、船体修理のため退去、横浜に帰った。英艦のアームストロング砲は、薩藩の旧式砲の4倍の射程距離をもち、集成館、鋳銭所や城下町の1割を焼亡した。死傷者は、イギリス側が戦死13、負傷50名に及んだが、薩藩側は戦死5、負傷十数名にすぎなかった。しかし薩藩側ではイギリス海軍の威力を認識し無謀な攘夷(じょうい)を反省する機運が生まれた。講和は、薩藩が大久保利通(としみち)・重野安繹(しげのやすつぐ)らを交渉委員にたて、償金を幕府の立替え払いで支払い、イギリス側も薩藩の軍艦購入を周旋するなどの条件で成約した。以後、薩英関係は急速に緊密となり、薩藩のイギリス留学生派遣なども実現、討幕運動における同藩の地位を高めることとなった。

[原口 泉]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「薩英戦争」の意味・わかりやすい解説

薩英戦争
さつえいせんそう

幕末,薩摩藩とイギリス艦隊との間にかわされた戦闘。文久2 (1862) 年8月の生麦事件に際し,イギリス代理公使 E.ニールは,幕府に対して事件の責任者処罰および 10万ポンドの賠償を請求したが,統治力の衰退した幕府は,賠償金を支払ったのみで犯人の引渡しを拒否する薩摩藩を従わせることができず,事件の解決は引延ばされた。そこでニールは,みずからの力で事態を解決しようとはかり,同3年6月 28日7隻の艦隊を率いて薩摩藩に迫った。これに対して薩摩藩が回答しなかったため,7月2日イギリス艦隊は鹿児島に砲撃を加え,ここに薩英戦争が始った。ちょうど台風襲来で,鹿児島城下は砲火を浴びて火の海と化し,イギリス側も暴風による損害や,武器,食糧の不足で勝敗不明のまま退去した。この戦争の結果,薩摩藩側は,外国の軍事力の強さを認識して攘夷の不可能を自覚し,イギリスと交渉を行い事件を解決した。またこの際,幕府の貿易独占を非難して薩摩藩も外国貿易を行う用意のあることを告げて,イギリスとの間に親善関係を樹立することに努め,以後,薩摩とイギリスとは急速に接近することとなった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「薩英戦争」の解説

薩英戦争
さつえいせんそう

1863年(文久3)イギリス艦隊の鹿児島砲撃事件。生麦事件の賠償交渉の不調によりおきた。同年6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊7隻が代理公使ニールらを乗せ鹿児島に遠征し,鹿児島藩に犯人の逮捕処罰・2万5000ポンドの賠償金を要求したが,交渉は不調に終わる。イギリス側は強硬手段を行使し,7月2日・3日の交戦で鹿児島城下を焼き全砲台を大破した。イギリス側も旗艦艦長や副長が即死,60余人が死傷の損害を被った。鹿児島藩は9月28日から3回にわたり,横浜のイギリス公使館でニールと講和談判を行い,10月5日和議が成立。以後薩英関係は親密度を増し,鹿児島藩は軍備などの近代化をすすめた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「薩英戦争」の解説

薩英戦争
さつえいせんそう

幕末,鹿児島湾で行われた薩摩藩とイギリス東洋艦隊との海戦
1862年の生麦事件後,薩英間に紛争が生じたが解決に至らず,翌'63年イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に出動,鹿児島を砲撃した。薩摩藩もこれに応戦したが,勝敗は決しなかった。事件後薩摩藩はイギリスと和解し,開明政策に転じた。

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