茶道(読み)さどう

精選版 日本国語大辞典 「茶道」の意味・読み・例文・類語

さ‐どう ‥ダウ【茶道・茶頭ドウ・茶堂】

〘名〙
① (茶頭・茶堂) 茶事をつかさどるかしら。経費など物質的な負担を負った。古くは茶同朋(ちゃどうぼう)、ついで、茶坊主、坊主などともいった。貴人に仕える茶頭は御茶頭(おさどう)、御坊主(おぼうず)と呼ばれた。茶道坊主。茶道坊(さどうぼん)
大乗院寺社雑事記‐康正三年(1457)四月一七日「夏中手習茶頭泰経法印勤仕了」
※咄本・軽口御前男(1703)三「折ふし茶道(サダウ)ちんさい目をまはし」
② (茶道) 茶の湯。
御伽草子・酒茶論(古典文庫所収)(室町末)「それさだうの命は、ろちうのうづみ火」
[補注]茶の湯の道のことを「さどう」というのは江戸時代まではまれであり、また、茶頭との混同を避けるために「ちゃどう」というのが普通であった。

ちゃ‐どう ‥ダウ【茶道】

〘名〙
① 茶の湯を催すことによって静寂閑雅の境地にはいり、礼儀作法を修める道。室町時代、珠光を祖とし、武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休に至って大成。歌道や禅の精神をとり入れ、わび・さび、和敬清寂を主体とする。武家時代を通じて流行し、利休の子孫が表千家・裏千家・武者小路千家の三家に分かれて、今日に伝わり、その他、門流が多い。さどう。〔和漢茶誌(1728)〕

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デジタル大辞泉 「茶道」の意味・読み・例文・類語

ちゃ‐どう〔‐ダウ〕【茶道】

茶の湯によって精神を修養し礼法を究める道。鎌倉時代の禅寺での喫茶の儀礼を起源として、室町時代の村田珠光むらたじゅこうに始まり、武野紹鴎たけのじょうおうを経て千利休せんのりきゅうが大成、侘茶わびちゃとして広まった。利休後は表千家裏千家武者小路千家の三千家に分かれ、ほかに多くの分派がある。現在では、ふつう「さどう」という。
[類語]茶の湯お茶野点点茶茶会

さ‐どう〔‐ダウ〕【茶道】

ちゃどう(茶道)
茶頭さどう」に同じ。

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改訂新版 世界大百科事典 「茶道」の意味・わかりやすい解説

茶道 (ちゃどう)

茶道とは喫茶を主体とした寄合の芸能である。茶道という言葉は17世紀初頭になって,規範的な〈道〉の思想が強く意識されて登場してくる。それまでは茶の湯とか数寄(すき)と呼ばれており,今日でも茶の湯と茶道はほとんど同義に用いられている。また〈さどう〉〈ちゃどう〉両様のよみ方があって一定しない。茶立人として諸侯に仕えた茶頭(さどう)と区別して〈ちゃどう〉とよませる場合もある。中国から移入された喫茶の習慣は,室町時代に茶の湯という芸能へと発展するにともない,独自の茶の道具やふるまい,思想,さらに茶のための建築や室礼(部屋の飾り方)などの要素をそなえるにいたった。これらの要素が総合的に表現されるのは茶会という一種の宴会,すなわち寄合の場で,その意味では茶道は最も洗練された宴会の一様式ということもできよう。茶道の様式は16世紀に〈わび(侘)茶〉として千利休により完成された。

 従来,茶道を日本的な総合芸術ととらえたり,あるいは禅の思想に立脚する儀礼と考えるなど,さまざまな見方があったが,西欧的な芸術の概念では茶道を十分に把握することはむずかしい。というのは茶道のなかには道教の思想や民間信仰の意識が底に流れていて,単なる美を目的とする芸術や,禅宗だけではない要素が複雑にからみあっているからである。

 そこで寄合の芸能と考えてみたい。茶会が寄合の一形式である以上,公家,武家の饗宴の儀礼の影響や,民俗の饗宴に共通する性格をもつのは当然であろう。饗宴は食事と酒を中心とする主従の固めの儀礼であり,また神を招いて神人共食する聖なる儀礼であって,茶会のなかにこうした要素は十分認められよう。茶道を芸能と考えるとき,芸能たる(1)思想と演出,(2)衣装と道具,(3)所作の型,(4)舞台,を茶道も備えていなければならないが,それぞれ(1)わび茶の思想と趣向,(2)茶道具と室礼,(3)点前(てまえ)と作法,(4)茶室と茶庭,としてすべて備えている。これらの要素を総合する茶道は世俗的な日常世界を脱却して,客と亭主の新たなる紐帯を求める寄合の芸能といえよう。

中国唐代の社会に定着した茶の文化は遣唐使たちによって奈良時代から平安時代の初期に日本に伝えられた。《日本後記》弘仁6年(815)に僧永忠が嵯峨天皇に茶を献じた記事があり,日本の正史にあらわれる最初の茶の史料となっている。当時の漢詩文化にあこがれる知識人のなかに喫茶が行われたのは確かである。しかし,やがて国風文化の時代を迎えると茶の飲用はほとんど失われ,鎌倉時代初期に栄西が再び中国から茶をもたらすまで中絶していた。

 栄西は1168年(仁安3),87年(文治3)の2度にわたって中国へ渡り,禅宗とともに宋代の新しい飲茶の文化をもたらした。それは唐代の団茶(茶を固形状にしたもの)とは異なり,今日飲まれている抹茶とほぼ同じ茶を用いたもので,栄西はとくに養生の効果を強調して《喫茶養生記》を著した。栄西がもたらした茶樹は京都高山寺の明恵上人の愛好するところとなり,栂尾(とがのお)には茶園が開かれ,その茶がさらに宇治へと広められた。喫茶の習慣はその後,禅宗寺院や武家社会のなかにしだいに浸透し,鎌倉時代後期には庶民のなかにまで広がっていった。

 喫茶の普及は茶の薬用効果よりも嗜好品としての茶の発展を意味していた。やがて茶は遊戯化し,14世紀初期には闘茶という茶の遊びが生まれた。闘茶は飲茶勝負とも呼ばれたように,茶の味を飲み当てるゲームで,初めは本茶(京都栂尾の茶)と非茶(栂尾以外の茶)を飲み分け,得点によって懸賞が分配される形式であったが,のちには茶の種類を4種にふやし,10服とか70服とか何杯もの茶の味を当てる複雑なゲームとなった。このような闘茶はその後15世紀末まで盛んに行われ,16世紀には衰退していったが,現代でも群馬県中之条のお茶講などの民俗に残照をみせている。一方,南北朝内乱期に活躍した新興の大名たちは闘茶を愛好すると同時に,中国から舶載される器物類(唐物)をもって自分たちを飾り,唐物荘厳の流行を生んだ。ことに《太平記》の伝えるところでは,佐々木高氏(道誉)は茶,花,香を組み合わせた風流の会に中国製の美術・工芸品を並べ華美を尽くしている。

 唐物を中心とする喫茶の方式は室町時代に入ると,〈書院造〉の完成によって武家儀礼の一部に定着した。すなわち,ばさら大名たちにもてはやされた唐物はますます珍重され,足利義教より足利義政にいたる室町時代中期には足利幕府によって多数の唐物名物が集められ,のちに〈東山御物〉と呼ばれるコレクションが生まれた。唐物を飾るための棚を設けた書院造の会所では,唐物を管理し鑑定し,さらに飾りつける専門家の同朋衆(どうぼうしゆう)があらわれ,能阿弥,相阿弥などが活躍した。彼らのこれら名物に関する記録として《君台観左右帳記》がのこされた。同朋衆は茶道にも造詣が深く,会所の一部に設けられた茶の湯の間などと呼ばれる部屋で茶をたてる役も務めた。

 一方,15世紀後半になると村田珠光によって新しい茶風が創始された。村田珠光は奈良の人で,のちに京都に出て一休宗純に参禅し,その茶の思想は〈心の文〉と呼ばれる文章によく表れている。珠光は当時流行していた連歌の美意識である〈冷え枯れる〉美しさと禅の思想に立つ無一物の精神を茶道に実現しようとし,それまでの唐物中心の豪華にして完全なる道具の世界をやつして,粗末なわびた和物の道具を取り合わせ,不完全なるもののうちの美を追求した。珠光の言葉として伝えられる〈月も雲間のなきは嫌にて候〉というように,欠けるところのない満月より,雲間に絶えだえに見える月により美しさを感じる美意識が,のちにわび茶とよばれた珠光の茶道であった。したがって唐物ばかりでなく,備前焼や信楽焼の自然の造形を茶道にとり入れたのである。16世紀に入ると,わび茶は当時繁栄を極めた都市堺の町衆達に愛好された。その中心にあったのは代表的町衆の一人武野紹鷗である。紹鷗は皮屋と称する富裕な商人で,唐物名物を50,60種も所持していたといわれるが,その反面,歌学者として著名な三条西実隆について歌道を学ぶなど文芸に親しみ,村田珠光の主張をうけて,中世芸道としての茶道の確立を果たした。紹鷗は珠光もまだ使わなかった〈わび〉という言葉を茶道に用い,さらに木や竹の生地の美しさを生かした曲物(まげもの)の建水や竹の蓋置などを実用化し,わびの表現を一段と深めた。また堺の町衆たちによって草庵の茶室が発展した。すなわち,唐物中心の茶が書院造という武家建築をその場としていたのに対し,わび茶では深山幽谷を思わせる山里風の庭を邸内に設け,その奥に中世隠者の宅をしのばせる草庵を建て,世俗の世界を脱却した別世界を茶の湯の場として創造した。いわゆる〈市中の山居〉である。当時はまだ茶室という言葉はなく茶座敷とか囲いとか呼ばれていた茶の建物は,草庵のスタイルをとりつつ,書院の室礼をやつしたものであった。たとえば書院では貼付床という水墨画などを壁面に貼り付けた床の間を原則としていたが,村田珠光は絵を描いた壁紙のかわりに,ただの白紙を壁として書院の形式をくずした。ところが紹鷗はその白紙すらはずしてただの土壁を見せる床の間に直した。このように正式の形式すなわち真をくずし,真行草の書道の書体になぞらえていえば草の様式とするいわゆる草体化が,わび草庵の茶室成立への方向だったし,またわびの美意識の深化であった。

 紹鷗の弟子の千利休は,茶道をほぼ完成の域にまで高めた人物である。紹鷗のわびは,草体化を深めながら,しかし対極につねに名物を意識した茶道であった。つまり〈わら屋に名馬をつなぎたるがよし〉という珠光の言葉のとおり,わら屋(粗相)と名馬(豪華)の激しい対立のなかに美を見いだしていた。しかし利休は,対立という現象を超えた創造的な美すなわち名物でも粗相でもない新しい美の発見に進んだといえよう。利休は既成の美意識にとらわれず,極小の一畳台目の茶室をつくり,積極的に高麗物と呼ばれる朝鮮製の陶磁器をとりいれ,みずから竹花入や茶杓をつくるなど,茶道具観のうえで下剋上を果たしたといえる。また利休は堺という最大の軍事都市の勢力を背景に,織田信長豊臣秀吉の権力に接近し,茶頭として重用された。その結果,天下人の儀礼的な茶道も担当することになり,茶の点前・作法といった儀礼的な側面も,茶会の形式も,茶会で供される茶の料理(懐石)も,利休のわび茶の思想によって整えられた。利休は大徳寺の古渓宗陳ら禅僧に深く帰依し,宗易の法諱も大徳寺から受けたように,禅の影響を強く受け,床の掛物に墨跡を重視するなど茶道に禅宗を一段と近づけた。しかし利休の茶道観は〈山を谷,西を東といいなす〉ような,常識を破る下剋上的な発想であったから,中央集権的な封建社会が完成し,下剋上の精神が封殺される時代になると,天下人にとって都合のよいものではなくなる。豊臣秀吉による利休切腹には茶道史からみて戦国時代的なわび茶の圧殺という理由があった。

 千利休の死は16世紀を通じて発展してきたわび茶が,大きな曲り角に出会ったことを意味している。17世紀の茶道は,古田織部によって利休の茶が引き継がれるが,織部もまた利休風の激しい茶を好み,織部焼(織部陶)に象徴されるような強烈なデフォルメと不均衡の美を主張した。17世紀初頭の時代風俗である〈かぶき〉の反映ともいえる織部の好みは,織部に利休同様の切腹という悲劇をもたらし,茶道はその弟子小堀遠州の時代となる。遠州が活躍した17世紀前期は寛永文化の時代で,茶人としては利休の孫にあたる千宗旦,仁清の焼物を指導した金森宗和,遠州の跡を襲って将軍茶道指南となった片桐石州などが活躍した。遠州の茶道は利休風のわび茶をゆるめながら継承する一方,東山時代の書院の茶も復興し,また王朝文化の趣味を歌切の多用や趣向としての王朝文学の利用などのかたちで茶道に取り込み,総合的な茶の湯の展開を図った。遠州は公家社会とも接触が深く,後水尾院の仙洞御所の庭園,茶室の造営にもあたり,桂離宮にも影響を与えた。桂離宮などにうかがわれる〈きれいすき〉(奇麗数寄)といわれた美意識は遠州ひとりのものではなく,寛永文化の美意識ともいえよう。その特徴は装飾性の強い華やかな意匠,いささか煩瑣なまでに繊細な表現,鋭利さをもつ明快な輪郭と色彩,さらに古今東西の文芸にいろどられた象徴性などがあげられる。遠州の好みにみられるきゃしゃで優美な道具の選択,あるいは仁清の陶芸にあらわれる金森宗和の好みなどもその特徴をそなえている。

 利休の孫,千宗旦は仕官せず,千家の再興と永続に心をくだいた。その3人の息子たちはそれぞれ表,裏,武者小路の三千家としてわび茶の伝統を守り,また山田宗徧,杉木普斎らの宗旦の高弟たちは元禄時代に登場してくる新興都市民の間に茶道を広げた。18世紀の茶道の特徴は町人の間に広がった茶道が遊芸化し,それにともなって茶道が家元制度家元)をとりはじめることだ。19世紀になると,遊芸化した茶道への批判として,秘伝に隠された茶道具の実証的研究を軸に名物を中心とした茶道の復興を試みる松平不昧松平治郷(はるさと)),あるいは茶道を精神的修行の場として再認識しようとする井伊直弼,あるいは茶を既成の芸道から解放して文人の楽しみとしようとする煎茶道などの新しい動きがあらわれた。

 明治維新以後,茶道は一時期衰退する。明治20年代以降,井上馨などの政界人,益田孝(鈍翁)などの財界人のなかから美術品収集の趣味がおこり,茶道の復興に結びついた。茶道を趣味として愛するコレクターを数寄者と呼んでいるが,彼らの猛烈な収集熱は茶道を在来の茶道具観から解放し,美術品としての茶道具の認識を深めると同時に,仏教美術や王朝美術なども広く取り入れた美術鑑賞の場としての茶道を生み出した。一方,伝統的な流儀の茶道界からも精神性の高い茶道を求める声や,近代生活に応じた椅子式の茶道や礼儀作法への応用を説く動きがあらわれ,衰微した維新期の茶道も明治時代後半には活気をとりもどした。

 昭和時代に入ると,知識人たちも茶道に理解を示し,岡倉天心の《茶の本》が翻訳されて広く読まれるなど,茶道はようやく大衆的基盤を獲得するにいたる。それは同時に茶道人口の女性化をもたらし,近代女性の教養として茶道が位置づけられるとともに,女性のなかに茶道が普及した。昭和11年(1936)には〈昭和北野大茶湯〉が1万人を集めて開かれ,また昭和15年には〈利休三百五十回忌茶会〉が5000人を集めるなど,家元を中心にした茶道組織が力を持つようになった。戦後,茶道の家元制度は急成長をとげ,現代では数百万といわれる茶道人口がある。今日,茶道は伝統的な日本の生活文化としての価値が見直され,また国際化のなかで日本文化の理解を海外に求めるための重要な役割を期待されている。

茶道は,建築,造園,美術,工芸,宗教,思想,文学,料理,芸能などの文化の諸ジャンルにかかわっている。まず,茶会が行われる場は茶のための庭,すなわち露地と,茶のための建物である茶室から成り立っている。ことに茶室建築は古く数寄屋と呼ばれたように,日本近世住宅の様式である数寄屋造が形成されるうえに,重要な影響を与えたすぐれた建築である。たとえば土壁をそのまま見せる床の間や,丸太材を床柱に使用するなどといった日本住宅の姿は,茶室において完成された様式である。さらに茶道には実に多彩な道具が用いられ,日本工芸の発達に茶道が寄与するところが大きかった。桃山時代より江戸時代前期における日本陶磁の発展は,まさに茶陶といわれる茶道用陶器の需要を背景におこったものである。たとえば楽長次(二)郎を祖とする楽焼の創出,その流れのなかに登場する本阿弥光悦の陶芸,あるいは野々村仁清に代表される京焼の華麗な世界も茶人の要求に従って創造されたものだ。こうした美術・工芸が茶道のなかでいかに用いられているかというと,床の間の飾りとして茶掛といわれる掛物と茶花がある。掛物はわび茶では禅僧の墨跡を最も珍重し,その他絵画,古筆あるいは茶人の消息などが多く用いられる。ことに近代にいたって,すぐれた中国画や大和絵,古筆等,美術の鑑賞が茶会の興味の的になってきている。したがって掛物の理解には,宗教的ないし文学的教養が要求される。茶花は,中世の花道から生まれた抛入(なげいれ)をさらに自由にしたもので,型にとらわれず,わび茶の表現らしい楚々とした花が茶花として喜ばれる。茶花の発展によって,茶道にふさわしい花器も創造され,金属質の上等のもののほかに,陶磁器や竹の筒や籠などのわびた花器が登場した。床の間の道具に対して室中には風炉(ふろ),釜,茶碗,茶入,水指,建水等々の道具が配置される。そのなかには漆工芸,金工,指物(さしもの),染織品等の工芸品が含まれ,茶道は工芸の粋を集めた文化でもある。茶がたてられるに先だって,客に食事がふるまわれる。わび茶の料理をことに〈懐石〉といい,これは《南方録(なんぼうろく)》によれば修行中の禅僧がひもじさをしのぐために懐中する温石の意からできた言葉で,粗末な食事の意味だというが,本来は〈会席〉であったのに当てた字であろう。しかし意図するところは,たしかに室町時代に発達した豪華ではあるが形式に堕してしまった宴会料理を簡素化することにあり,より食べやすく,おいしい料理に改善したのが茶の料理であった。とくに注意すべきことは,季節感や献立の取合せによって,亭主の茶道観が料理に表現されることで,のちに述べる趣向が料理の内容にまで貫かれている点が懐石の特徴であろう。茶をたて,飲むについても,茶道は特別に厳しい規矩を設けている。それが点前と作法である。点前や作法を合理的な身体の動きとして説明しようとする見方もあるが,むしろ,点茶と喫茶という行為をいかに美しく見せるかという美意識が働いて,長い年月をかけて整えられ洗練されて生まれたふるまいと考えたい。まさにみごとな点前は舞にも通じる美しさがあろう。つまり,茶道のふるまいのなかには芸能的な美も含まれているのである。同時に,茶道は禅思想に立脚する精神性も点前,作法に要求している。《南方録》が茶道と仏道を一致するものと説いたように,点前,作法を含む茶道のすべての行動には,宗教的な修行ともいうべき性格があることを見のがしてはなるまい。しばしば茶禅一味が説かれ,掛物に禅僧の墨跡が重視される理由はここにある。

 以上のように,種々の要素を総合する茶道は,茶人の茶道観と,茶会の演出ともいうべき趣向によって統一された性格が与えられる。趣向は亭主から客へのメッセージでもあり,たとえば祝儀や不祝儀,あるいは送別や年中行事等の茶会のテーマによって道具や懐石の献立が選ばれ,組み合わされて客に亭主の趣向,さらに茶道に対する考え方が伝えられるのである。客の方も亭主の趣向をよく理解し,茶会を盛り上げる客ぶりが要求され,両者の心が合致したとき,みごとな茶会が生まれる。

茶道にはいくつかの特徴ある性格がある。現代における茶道の役割を考えると社交性ともいうべき,人々が集い交わりを生む機能があげられよう。それは茶道のなかに伝統的な宴(うたげ)がもっていた寄合性ともいうべき性格が茶会として生きつづけているからである。茶会は亭主と呼ばれる招待主が数人の客を招く宴会の一変型とみることができよう。中世に完成した儀礼的な宴会では,まず最初に酒礼があり,つづいて食事,食後の茶菓,そののち座をかえて酒宴となるのが定型であったが,茶会はこのなかから最初の酒礼と最後の酒宴を省いたかたちである。単なる食後のデザートにすぎなかった菓子を宴会の中心にすえ,前半に懐石と菓子を出し,休憩の後に茶をたて茶を飲むというふるまいが中心にすえられるようになったのである。最後の酒宴も,とくにぜいたくな茶会では〈後段〉という名で行われ,茶を飲んだのち座敷をかえて酒宴が開かれることも少なくない。宴会が主客の交わりを深め,さらに緊密な結びつきをつくりだす寄合の場であったように,茶会もまたそこに同座する主客の結合をつくりあげる点に主要な目的があった。こうした目的に添った茶会でのふるまいには,たとえば濃茶(こいちや)のまわし飲みがある。一碗にたてた濃茶を正客から末座の客まで,場合によっては亭主も加わって全員でまわし飲む作法であるが,これは共同体などで仲間の盟約を堅固にするために行われる共同飲食の習慣と同じであり,酒礼の盃の応酬になぞらえて始められたものであろう。しかし宴会と茶会の異なる点も多い。宴会がしばしば主従の間の儀礼であるように現実の身分制などに密着しているのに対し,茶会はあくまで現実を離れた虚構の世界にあることだ。それを茶道のもつ虚構性とか非日常性といった言葉で呼んでよいだろう。たとえば茶会を一期一会という言葉でとらえようとする考えがある。一期とは人間の一生のことで,茶会は一生に一度の出会いの場と考え,一つ一つの茶会をたいせつにしようとする思想が表現されている。なるほど,人間にとって,すべての時間は一期一会であろうが,日々くりかえされる習慣的な生活の世界とは別に,あえて茶会を一期一会ととらえようとするその背景には,茶会が日常生活を離れた別世界における時間と空間の共同体験であるとする意識がある。つまり,茶人が茶名と呼ばれる本名とは別の名を名のるのも,日常生活の身分や職業を離れた別の人格として交わりを結ぶためにほかならない。茶道における名が,かつては大徳寺系の法諱であったように,4時間ほどの茶会の時間だけは遁世した在家の禅者として過ごそうという意識があったであろう。したがって客たちは日常的なものを茶会に持ちこまぬように求められる。亭主は客を別世界に誘うために,露地と茶室という特異な茶道の空間を設ける。露地は〈市中の山居〉を表現すべく深山の景色を写している。それは山中に他界を求める東洋人のユートピア思想の反映と見ることができよう。客は露地に入ると,手水鉢(ちようずばち)で手と口を清める。亭主は客を迎えるにあたって庭に水を打ち,清める。こうした清めの儀礼を繰り返すことによって,茶会の場が,神ごとを模倣した聖なる会であることを象徴しようとしている。客が招じ入れられる茶室には広間や小間などがあるが,わび茶の場合,小間という4畳半以下の茶室が中心で,小間には多くの場合,入口として躙口(にじりぐち)という高さ・幅60cm四方ぐらいの狭い口が付けられている。こうした狭い入口は演劇という想像力の世界である芝居小屋の出入口とか,寝室のような非常にプライベートな場所の入口に類似したものが見いだせるように,特定の人だけが入ることを許される口で,その内部の茶室は非日常的な空間であることを意味していることがわかる。つまり,こうした非日常性,虚構性のなかに茶道が中世芸能として完成された特質があろう。茶道が芸能であればこそ,そこには色濃く遊戯性が流れている面も見のがせない。茶道は美を喜び,味や香りを楽しみ,寄合の歓を尽くす遊びにちがいない。遊びであればこそ脱俗の非日常性が求められ,神ごとを模した聖性も求められる。さらにそれは知的な精神性の高い遊びでもあった。こうした茶道の性格をさらに一歩すすめて,さきの芸能性を否定し,厳しい規矩や形式から解放し茶道を日常的な常識の世界に返そうとする考え方も,近代の数寄者のなかから生まれている。茶道をあまりに一面的にとらえず,むしろ,さまざまの性格を包含している点に注目すべきであろう。

現代の茶道社会はそれぞれ家元をいただく数十流の流儀の茶人によって構成されている。その最も巨大なのは千利休を祖とする不審庵(表千家流),今日庵(裏千家流),官休庵(武者小路千家流)の三千家で,その他,藪内流遠州流宗徧流江戸千家流,大日本茶道学会などの流儀・会派などがある。茶を学ぼうとする人々は,いずれかの流儀に入門し,教授資格をもつ茶人について修行を続け,その年限に従って家元から許状が出され門弟としての各資格が許可される。家元は何層にも積み重ねられた中間教授者を通して全国の茶人を統轄している。秘伝の非公開性に象徴される茶道社会の閉鎖性は,それを打ち破ろうとする努力はあるが,まだ不十分であり,また茶人の経済的負担の大きさなど,現代茶道のかかえている問題も少なくない。

岡倉天心の《茶の本The Book of Tea》(1906,邦訳1929)をはじめ谷川徹三《茶の美学》(1945),久松真一《茶の精神》(1951)など,茶道を論じた書物は多い。近代における茶道研究の概要は芸能史研究会編《日本の古典芸能》茶花香(1970),熊倉功夫《近代茶道史の研究》(1980)に触れられている。
茶事 →茶室 →茶道具 →点前
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茶道 (さどう)

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百科事典マイペディア 「茶道」の意味・わかりやすい解説

茶道【ちゃどう】

〈さどう〉ともいう。茶の湯の道の意味。抹茶(まっちゃ)の作法を中心とする芸道。喫茶の習俗は奈良時代に中国から団茶(だんちゃ)法(団子にした茶をショウガなどとともに煎(せん)じて飲む法)が移入されたのに始まる。平安末期に栄西が抹茶法を伝えた。南北朝期には武士の間に闘茶が行われ,茶は民間にも普及した。東山時代に書院茶とは別に村田珠光が式法を成立。以後,武野紹鴎(たけのじょうおう)らを経て千利休に至り佗茶(わびちゃ)として大成された。のち利休の子孫は表・裏・武者小路の三千家に分かれた。また,古田織部本阿弥光悦小堀遠州片桐石州,山田宗【へん】(そうへん),川上不白らが現れ,家元制度が確立。
→関連項目家元懐紙掛物瀬戸焼千家流茶経茶事七式茶室茶の本茶坊主点前松平治郷松浦鎮信

茶道【さどう】

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「茶道」の意味・わかりやすい解説

茶道
ちゃどう
tea ceremony

「さどう」,茶の湯ともいう。中国伝来の喫茶の風習が日本独自の発達をとげたもの。亭主・客の交歓の作法や茶道具,庭園や建築,絵画,書,さらに精神的訓練までをも含めた総合的な文化。
喫茶の習慣は遣唐使によって奈良時代から平安時代の初期に日本に伝えられ,一部の知識人の間でたしなまれた。当時の茶は「団茶」という茶を固形状にしたものであった。しかし国風文化の流れを受け,やがて喫茶は失われてゆく。
抹茶を喫することは中国の宋代に始る。この宋風の喫茶を日本にもたらしたのは鎌倉時代の禅僧,栄西である。栄西は『喫茶養生記』で茶の健康面での効用をうたった。喫茶の習慣は,仏前に茶を献じる禅宗寺院や武家社会に次第にひろがり,鎌倉時代後期には庶民も趣味的な茶会を楽しむようになった。やがて茶は「闘茶」 (味で茶銘を当てるゲーム) などの遊びとしての茶道と,中国の豪華な茶器 (唐物) を集める美術品鑑賞としての茶道などへとその幅を広めていった。室町時代には足利義政などにより多数の中国茶器が収集され,書院造りの建物に唐物を中心とした喫茶法が武家文化に定着した。
室町時代中期以後,茶をたて客に供する礼法が確立し,村田珠光武野紹鴎らにより草庵の小座敷で質素な茶会が始められた。村田珠光は唐物を中心とした豪華な茶に反し,粗末な道具をそろえ,不完全なもののうちにある美を追求した。「わび」ということばを最初に使ったのは武野紹鴎である。紹鴎は珠光に共感し,16世紀,当時最大の商業都市堺で茶を愛好する町衆の中心的存在であった。安土桃山時代,紹鴎の弟子,千利休はさらに佗茶を主唱して茶の湯を和敬清寂を旨とする悟道的なものにまで高め,茶道としての本質的な大成をとげた。利休の佗茶の思想は既成の美観のみならず,世俗的な社会の上下関係も破壊した。利休の清寂にして激しい茶はやがて秀吉の逆鱗にふれ,みずからの切腹を招いた。初期の茶人としては津田宗達津田宗及の父子,今井宗久古田織部,細川三斎,金森宗和,江戸時代になって小堀遠州片桐石州らが有名。利休の激しい茶風を受け継いだ古田織部もやはり切腹している。利休以後,茶道は道具や茶室に数寄を凝らす大名茶と,利休の系統を継ぐ佗茶の2系統に分れた。利休の孫,宗旦は不審庵を三男宗左に譲り,みずからは自宅裏に今日庵を営んだ。今日庵は四男の宗室が継ぎ,宗左の系統を表千家,宗室の系統を裏千家と呼んでいる。これに次男宗守が京都武者小路に建てた官休庵に始まる武者小路千家を加えて三千家という。茶道にはこのほか多くの流派がある。家元制度が完成するのは江戸時代中期,18世紀のことである。
明治初期,茶道は一時衰退するが,その後美術品収集の流行とともに次第に復興し,昭和に入ると茶道人口の大衆化・女性化が急速に進んだ。現在茶道人口は数百万ともいわれ,日本を代表する伝統文化として国際的にも注目されている。

茶道
さどう

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「茶道」の解説

茶道
さどう

茶の湯または数寄道(すきどう)のこと。茶頭(さどう)・茶堂(さどう)との混同を避けるために「ちゃどう」と読まれる。茶道の用語が使われるのは江戸中期以降。千利休の書簡のなかに茶の正しい姿を追求することを真道といい精神の重要性を強調するが,茶道の用語は使っていない。茶道の性格は多義にわたるが,茶室で亭主と相客が茶道具を用いて飲茶し,主客の精神的融和をはかることが根本。とくに精神性の理想郷を創造しようとして,宗教,なかでも禅宗の影響を多分にうける結果となった。この間に建築・造園・陶芸・書跡・工芸・料理などに広範な茶道独特の芸術性が追求された。歴史的には鎌倉時代以前は茶は薬用として用いられたが,南北朝期には闘茶(とうちゃ)が流行。室町時代になって茶の湯の遊芸化が強まり,村田珠光(じゅこう)・武野紹鴎(じょうおう)らによって侘茶(わびちゃ)が創始され,利休によって大成された。江戸時代には大名の遊芸として定着する一方,三千家(さんせんけ)によって庶民にも大いに浸透した。明治維新前後は影をひそめたが,明治20年代に新興の政財界人によって名物茶器の鑑賞と収集が流行し,一気に復活。昭和期には家元制の復活で急速に普及し今日に至る。

茶道
ちゃどう

茶道(さどう)

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

普及版 字通 「茶道」の読み・字形・画数・意味

【茶道】ちやどう(だう)・さどう(だう)

茶技。〔封氏聞見記、六、飲茶〕常伯熊といふり。鴻漸(陸羽)の論に因りて廣く之れを潤色す。是(ここ)に於て大いに行はる。

字通「茶」の項目を見る

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旺文社日本史事典 三訂版 「茶道」の解説

茶道
ちゃどう

茶の湯に村田珠光が禅の心を入れたもので,「茶の湯の道」の略称
客を招いて抹茶 (まつちや) をたて懐石の供応をするのが茶の湯で,鎌倉時代に栄西 (えいさい) が宋よりもたらした。南北朝時代には茶の品種を飲み分ける闘茶の遊技も伝わり,南北朝〜室町初期にかけて茶寄合が行われた。東山文化時代に上流武家の間で一定の作法の優雅な茶の湯も行われ,珠光が閑寂な茶道(侘び茶,数寄道 (すきどう) ともいう)を始め,武野紹鷗 (じようおう) ・千利休により大成された。のち利休の子孫は,表千家・裏千家・武者小路の3家に分かれ,その他織部流・遠州流などの諸流も生まれ,今日に至る。

茶道
さどう

ちゃどう

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

日本文化いろは事典 「茶道」の解説

茶道

茶道とは、伝統的な様式にのっとって客人に抹茶をふるまう事で、茶の湯とも言います。茶を入れて飲む事を楽しむだけではなく、生きていく上での目的・考え方、宗教、そして茶道具や茶室に飾る美術品など、広い分野にまたがる総合芸術として発展しました。

出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の茶道の言及

【茶道】より

…茶道とは喫茶を主体とした寄合の芸能である。茶道という言葉は17世紀初頭になって,規範的な〈道〉の思想が強く意識されて登場してくる。…

※「茶道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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