群馬(県)(読み)ぐんま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「群馬(県)」の意味・わかりやすい解説

群馬(県)
ぐんま

関東地方の北西部にある県。首都東京から県庁所在地の前橋市まで約100キロメートル。海に面しない内陸県で、その位置は太平洋岸からも日本海岸からもほとんど同じ距離にある。ほぼ昔の上野国(こうずけのくに)一国をもって県域とし、東は栃木県、北は福島県と新潟県、西は長野県、南は埼玉県に接している。県名は中央部にある群馬郡に基づく。昔から養蚕業と製糸業が盛んで絹織物を多く産したが、近代工業の自動車、電気機器などの製造も盛んで、農業では首都圏に野菜を供給する。

 2010年(平成22)の人口は200万8068人で、1880年(明治13)の61万7151人に比べると約130年間に3.3倍に増加した。100万人を超えたのは1912年(大正1)、150万人を超えたのは1945年(昭和20)である。人口増加率は1970~1975年の5年間で5.9%、1975~1980年で5.2%と1970年代は高かったが、1980~1985年で3.9%、1985~1990年で2.3%、1990~1995年で1.9%、1995~2000年で1.1%と1980年代以降は徐々に低くなり、2005年以降は停滞・減少に転じている。2020年の人口は193万9110年、人口密度は1平方キロメートル当り304.8人(2020)であるが、市部は102.2人(沼田市)~1519.3人(伊勢崎市)と密である。郡部でも、南東部平野に比して、北西部山地は疎で地域差が目だつ。そして、第二次世界大戦後の21年間は増減があったが、高度経済成長により県民の県外流出がみられ、1960年(昭和35)には県の人口は158万人に減少した。1965年以降は増加に転じ、1994年には200万人に達した。しかし、これは全県に及ぶものではなく、山村の過疎化は著しい。面積は6362.28平方キロメートル。

 2020年10月現在、12市7郡15町8村からなる。

[村木定雄・西垣晴次]

自然

地形

群馬県は、標高500メートル以上の地域が全面積の約3分の2を占め、南東部だけが関東平野の一部になっている。東部山地のうち渡良瀬(わたらせ)川東岸の足尾(あしお)山地は、栃木県境に1000メートル級の山をもち、その北の日光火山群には、北関東最高の白根山(しらねさん)(2578メートル)がそびえ、その溶岩が菅沼(すげぬま)、丸沼などの堰止(せきとめ)湖を形成し、西を片品(かたしな)川が南流している。北西部山地は、三国山脈(みくにさんみゃく)と諸火山からなる。三国山脈は北東から南西に延び谷川岳(1977メートル)など2000メートル級の高峰が続き、新潟との県境をなすとともに、日本海岸地域と太平洋岸地域の分水界で、気候、産業、生活様式などに相違を与える。火山には至仏(しぶつ)・武尊(ほたか)・赤城(あかぎ)・榛名(はるな)・草津(くさつ)白根・浅間(あさま)などがあり、赤城・榛名・妙義(みょうぎ)は上毛三山(じょうもうさんざん)として県民から親しまれている。利根川(とねがわ)およびその支流が断続的に河岸段丘を形成し、沼田(ぬまた)盆地、中之条(なかのじょう)盆地をもっている。南西部山地は、関東山地の北縁にあたり、御荷鉾山(みかぼやま)などの1000メートル級の山があり、古い地層の長瀞(ながとろ)系(三波川(さんばがわ)系、御荷鉾系)、秩父中・古生層などからなり、北方に第三紀層で標高300メートル内外の小幡(おばた)丘陵、松井田丘陵などがある。南東部平野は、利根川系河川の沖積地および洪積台地で、大間々(おおまま)扇状地があり、前橋、高崎は台地に立地し、南東端には自然堤防が発達し、標高20メートル内外の低湿地には城沼(じょうぬま)、多々良沼(たたらぬま)などの小湖沼群がみられる。県内の河川は、北、および北西の一部を除いて、掌状にすべて利根川水系1本にまとまり、各河谷と前橋、高崎などの県中枢部との連絡がよい。これは群馬県の地形の一特色である。そのうえ、利根川は東京の上水源の重要な一つになっている。県内の自然公園には、変化に富んだ火山地形と多くの湖沼、湿原(尾瀬)が魅力である尾瀬国立公園、谷川岳のような急峻(きゅうしゅん)な山岳や、変化に富んだ風景で知られる上信越高原国立公園、妙義山・荒船山の山岳美と高原が特色の妙義荒船佐久高原国定公園などがある。

[村木定雄]

気候

太平洋岸式気候で、気温の日変化と年変化が比較的大きく、降水量が少ないうえに、山地では高さによる気温の垂直的変化が著しい。このため気温の地域差が大きく、月別平均気温が、北西部山地の草津温泉では北海道札幌に、南東部平野の館林(たてばやし)では静岡県三島(みしま)に似ている。そして、南部平野のからっ風と雷は古来有名で、民家の防風用屋敷森(やしきもり)が目だち、北部山地には雪が多い。南東部の低湿地は水害常襲地で、水塚(みづか)(盛り土住居)、揚舟(あげぶね)がみられ、1910年(明治43)の台風や、1947年(昭和22)のカスリーン台風には役にたった。晩霜(ばんそう)害、雹(ひょう)害、冷害、干害もまれではない。

[村木定雄]

歴史

原始

1946年(昭和21)、新田(にった)郡笠懸(かさかけ)町岩宿(いわじゅく)(現、みどり市)で旧石器時代の遺跡(岩宿遺跡)が発見され、日本列島上に旧石器文化を担った人々のいたことが初めて確認された。旧石器時代の遺跡は県下で約350である。桐生(きりゅう)市の入ノ沢(いりのさわ)遺跡では4万年以前から人々が生活していたことが知られる。第二次世界大戦後、県下では多くの考古学上の発見があった。みなかみ町月夜野(つきよの)の矢瀬(やぜ)遺跡(縄文後期)、多量の耳飾りが出土した千網谷戸(ちあみがいと)(桐生市)、茅野(かやの)(北群馬郡榛東(しんとう)村)の両遺跡はともに縄文期のものであった。弥生時代の水田は並榎北(なみえきた)遺跡(高崎市)に残り、また同市の日高遺跡は古墳時代のものであるが、水田に残る足跡や小規模な水田区画で注目される。渋川市北牧(きたもく)の黒井峯遺跡(くろいみねいせき)は、榛名(はるな)山の火山灰や軽石により瞬時に埋没したもので、日本のポンペイと称される。4世紀前半に出現した前方後円墳が県下には100基以上存在していた。残存するもののうち太田天神山古墳(太田市)は東日本最大の規模の前方後円墳である。古墳に埋葬された首長層の居館である三ツ寺Ⅰ遺跡(高崎市)も全国的に注目されている。

[西垣晴次]

古代

古墳を築造した首長層は5世紀の中ごろには大和朝廷の勢力下に入り、7世紀後半には律令(りつりょう)体制下に位置づけられ、上毛野国(かみつけぬのくに)(8世紀に上野(こうずけ)と2字に改められた)とよばれ、国司のいた国衙(こくが)は前橋市元総社町付近に置かれ、周辺には国分寺、国分尼寺も8世紀に造営された。国の下の行政単位である郡は碓氷(うすい)、片岡(かたおか)、甘楽(かんら)、緑野(みどの)、那波(なは)、群馬(くるま)、吾妻(あがつま)、利根(とね)、勢多(せた)、佐位(さい)、新田(にった)、山田(やまた)、邑楽(おうら)の13郡、711年(和銅4)に甘楽、緑野、片岡の各郡から300戸を割いて多胡(たご)郡が置かれ、14郡となり、この14郡に102郷が属した。10世紀の『和名抄(わみょうしょう)』では国内の田数は3万0737町144歩。国内の9牧から毎年50疋(ひき)の馬を貢上した。貢納物としては繊維製品が注目される。

 9世紀末から上野国の律令体制は揺らぎ始める。東国で反乱をおこした平将門(たいらのまさかど)は938年(承平(じょうへい)8)、939年(天慶2)の二度、上野国内に乱入し被害を及ぼした。1108年(天仁1)7月、浅間山の大噴火が上野全土に火山灰を降らせ、田畑は荒廃した。

[西垣晴次]

中世

天仁の噴火後の田畑の再開発により在地領主が勢力を伸ばし、荘園(しょうえん)が形成される。新田荘(にったのしょう)はその代表である。武士化した在地領主は源平の乱のなか、しだいに鎌倉の源頼朝(みなもとのよりとも)の下、その御家人として組織されていった。守護としては安達(あだち)氏が任ぜられた。国内の御家人としては新田荘の地頭であった新田氏が大きく勢力を広げた。1333年(元弘3)5月、新田義貞(にったよしさだ)は挙兵し、鎌倉を攻め落としたが、1338年(建武5)越前(えちぜん)藤島で討死し、上野(こうずけ)は足利(あしかが)氏の支配下に入る。守護は上杉、宇都宮両氏がなるが、のち上杉氏の独占するところとなった。1552年(天文21)、平井城(藤岡市)の上杉憲政(のりまさ)は小田原の北条氏の攻撃を受け、越後へ脱出した。ここに上野国の戦国時代が始まる。越後の上杉、甲斐(かい)の武田、相模(さがみ)の北条の各戦国大名が侵入し、これに国内の武士が対応し戦乱を繰り広げたが、国内からは有力な戦国大名に成長するものはなかった。厩橋(まやばし)城(前橋市)、館林(たてばやし)城、白井城(渋川市)、国峯(くにみね)城(甘楽郡甘楽町)、箕輪(みのわ)城(高崎市)、和田城(高崎市)、沼田城、金山(かなやま)城(太田市)、松井田城(安中(あんなか)市)などの諸城が戦乱の舞台となった。

[西垣晴次]

近世

1590年(天正18)の徳川家康の関東入部により上野(こうずけ)は江戸の北辺の守りを担うことになり、諸大名、旗本の所領の移動が著しく、江戸中期以降幕末まで存在した藩は前橋、高崎、館林(たてばやし)、沼田、安中(あんなか)、伊勢崎(いせさき)、小幡(おばた)、七日市、吉井の9藩であり、このうち同一領主であったのは七日市藩1万石の前田氏のみであり、国内は旗本知行地、幕府直轄領が混在していた。「寛文郷帳」では51万5221石が上野国の総石高であった。新田開発のため利根川から天狗岩(てんぐいわ)用水、渡良瀬(わたらせ)川から岡登(おかのぼり)用水、碓氷(うすい)川からの人見堰(せき)などが開発された。産業では畑が多いこともあり養蚕が盛んで東毛の糸市、西毛の絹市には全国から仲買商人が集まった。絹織物も桐生(きりゅう)を中心に発展した。特産品としては砥石(といし)、硫黄(いおう)、ミョウバン、タバコ、岩島(いわしま)麻、下仁田(しもにた)半紙、中野絣(かすり)が知られていた。交通は陸上では中山道(なかせんどう)が整備され、7宿が置かれ、34藩の通行が定められた。中山道のほか、佐渡、三国(みくに)、例幣使(れいへいし)、銅山(あかがね)、沼田、会津、十石などの街道があった。水運は利根川を中心に7河岸があり、なかでも倉賀野河岸(くらがのかし)の果たした役割は大きかった。1783年(天明3)の浅間山の噴火は浅間焼けとよばれ、日本の火山活動では最大のものであり、吾妻郡の鎌原(かんばら)村を埋没させ、噴煙は冷害をもたらし天明の大飢饉(ききん)を引き起こした。

[西垣晴次]

近・現代

1868年(慶応4)、世直し一揆(いっき)の波のなかで、上野(こうずけ)国は新時代を迎える。1871年(明治4)廃藩置県により藩は9県と改められ、10月にはそれが統合され群馬県が成立する。ただ新田(にった)・山田(やまた)・邑楽(おうら)の東毛3郡は栃木県に属した。東毛3郡は1876年に群馬県に戻り、現在の群馬県の県域が成立した。県庁は1881年に前橋に確定した。市町村数は1889年市町村制施行により1213町村が206町村に合併された。

 明治以降も県下の産業で蚕糸業の占める比重は大きく、政府も蚕糸業に関連する富岡製糸場と新町屑糸(しんまちくずいと)紡績所の二つの官営工場を設置した。民間でも南三社とよばれる碓氷(うすい)社、甘楽(かんら)社、下仁田(しもにた)社の産業組合が第二次世界大戦期まで活動したし、生糸の直輸出も黒保根(くろほね)村(現、桐生市)の星野長太郎により試みられた。2014年(平成26)に富岡製糸場とその関連施設は「富岡製糸場と絹産業遺産群」としてユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録された。また、同年、旧富岡製糸場の繰糸所(そうしじょ)、東置繭所(ひがしおきまゆじょ)、西置繭所(にしおきまゆじょ)の3棟が国宝に指定された。

 農業、蚕糸、織物業を中心とする軽工業県としての性格は、昭和に入り重化学工業県へと転進する。その起動力となったのは軍事産業であった。なかでも太田町(現、太田市)の中島飛行機(現、富士重工業の前身)はその最たるものであった。中島飛行機は第二次世界大戦下、アメリカ空軍による空襲により多大な被害を受けた。また前橋、高崎、伊勢崎(いせさき)の諸都市も目標とされた。

 戦後、県は総合開発計画を策定し、経済の復興と振興を推進し、工場の誘致、藤原ダム、草木ダムなどのダム建設がなされ、発電所も設置され「電源ぐんま」と称されるようになった。道路が整備され、人々の移動も盛んになり、県は1979年(昭和54)には「ほのぼのぐんま」を掲げ、観光客の誘致を図っている。

[西垣晴次]

産業

産業別就業者数でもっとも多いのは製造業者で、全就業者数の23.4%(2010)、ついで、卸・小売業、医療・福祉、建設業、宿泊・飲食サービス業、農・林業となる。近年、第一次産業従事者が減少し、第二次、第三次産業従事者が増加しつつある。これは、県が首都圏内に存在する位置の特殊性と、内陸県の性格に負うところが大きい。

[村木定雄・西垣晴次]

農業

2003年(平成15)の耕地面積は8万0400ヘクタールで県面積の12.6%(1970年には16.0%)、このうち、田が38%、畑が62%で、畑の卓越した県である。これを6万2750戸の農家が経営し、1戸当り1.28クタールとなる。耕地は1960年(昭和35)をピークとして連年減少し、工場や住宅地化のため1970年から1980年の10年間に1万6769ヘクタール、すなわち16.5%激減した。1980年以降は微減状態となっている。1960年から15年間に専業農家は3万7000戸減少し、42%から15%に、兼業農家は59%から85%に変化した。農家数は1975年以降も減少を続け、とくに兼業農家数は1980年代後半から減少が著しい。2003年現在で、専業農家1万1340戸、兼業農家3万6357戸となっている。

 田は、南東部平野と山地の河谷平野に分布し、水稲収穫量が8万7000トン(2003)しかないので、米の移入県になっている。また、二毛作田の多いのが特色であったが、二毛作田率が34.8%に減少して裏作の小麦も少なくなった。畑のうち、普通畑と樹園地の割合は56対44(1980)から87対13(2003)と変化している。これは樹園地の大半を占めていた桑園が年々減少しているためで、桑園は1998年には4230ヘクタールであったが、2002年には1510ヘクタールまで減少した。それでも、群馬県の養蚕農家数は939戸(全国の40%)、収繭(しゅうけん)量392.5トン(全国の45%)で、日本一の養蚕県となっている。果樹はウメ、ナシ、リンゴが主で、とくにウメは榛名(はるな)山南部の秋間(あきま)を中心とする丘陵地が主産地で、日本有数の生産量をもち、ナシは榛名山南麓や前橋東郊、リンゴは沼田以北や渋川(しぶかわ)西郊に著しい。普通畑で栽培面積のもっとも多いのは小麦で、1950年をピークに減少の傾向にあるが、2002年には8130ヘクタール、3万8000トンを生産し、全国第3位となっている。伸びているのは、京浜地方および県内諸都市に出荷する野菜で、邑楽(おうら)郡、館林(たてばやし)市のナス・キュウリ、太田市、伊勢崎市のダイコン・スイカ、吾妻(あがつま)郡のキャベツ・ハクサイ、下仁田(しもにた)町のネギ、富岡市、渋川市、沼田市、甘楽(かんら)・北群馬・吾妻・利根郡のコンニャクイモなどの商品作物で、とくにコンニャクイモは県の特産で日本第1位の生産量をもっている。畜産も伸びている産業で、乳牛・ブタ・ニワトリの飼育が赤城、榛名の両山麓から南東部平野で行われ、酪農は浅間(あさま)山麓にも盛んで、ブロイラーは太田市、前橋市、吾妻郡に多い。そして、農作業には第二次世界大戦後、機械化がたいへん普及した。

[村木定雄・西垣晴次]

林業

森林面積は40万6635ヘクタール(2000)で、県面積の3分の2を占め、国有林44.1%、県市町村有林4.8%、私有林47.1%、そのほか3.9%の割合となっている。針葉樹は50%、広葉樹は47%で、天然林には広葉樹、人工林には針葉樹が多い。薪炭類の生産は激減したが、家具、土木などの用材が生産され、伐木は北毛、西毛の山地で行われる。シイタケとナメコの生産が特色で、原木の得やすい農山村の副業として行われ、とくにシイタケは西毛と桐生(きりゅう)付近を主産地とし、その産額はわが国有数の地位を占めている。

[村木定雄・西垣晴次]

工業

1955年(昭和30)前後に産業構造は戦前の水準に戻ったが、1960年代前半から輸送機器、電気機器を中心とする重化学工業へと転じた。1983年には69.8%が重化学工業、30.2%が軽工業という比率を示している。2002年(平成14)現在、工業従事者は23.0万人で、農業従事者よりも多く、製造品出荷額等は7兆2821億円になる。出荷額の多いのは、電気機械器具と輸送用機械を中心とする機械工業である。平安時代からの伝統をもち、最近まで本県工業の王座を占めていた繊維工業は450億円で、富岡・前橋市などの製糸、桐生市の絹・合繊織物、伊勢崎市の銘仙・毛織物、太田市のメリヤス、館林市の綿・毛織物などがある。木工品工業は、沼田市のベニヤ板・輸出木工品、前橋・高崎・伊勢崎市などの家具・建具などで、前橋市には木工団地があり、京浜地方を中心に販路をもっている。

 機械工業は、第二次世界大戦前・大戦中の太田市およびその周辺地域の軍需工業をきっかけとして戦後に始まったものが多い。輸送用機械は、太田市の中島飛行機の工場跡を中心に発達した富士重工業の自動車製造とその関連工業、前橋・伊勢崎市などの自動車部品工業がおもで、電気機械器具は、邑楽(おうら)郡大泉町(おおいずみまち)の三洋電機(パナソニックグループ)東京製作所を中心とした空調システム機器などの製造や、太田・高崎・富岡市などがおもである。太田市と大泉町は1960年(昭和35)に首都圏整備法の適用を受けた地域である。重化学工業では渋川市の鉄鋼・カ性ソーダ・塩酸・火薬などの製造、金属工業には安中市の亜鉛生産、食料品工業では高崎・館林市の小麦粉製粉、甘楽(かんら)郡下仁田町(しもにたまち)のコンニャク製粉、高崎市のハム、前橋市の野菜漬けなどがおもである。こうして、これら工業の発展は、県内に利根川水系電源地帯をもち、電力に恵まれた立地条件にあり、工業の種類は内陸県の位置的特性を生かしたものである。また、労働力として海外から日系人が大泉町などに移住しているのも最近の特色を示すものである。

[村木定雄・西垣晴次]

開発

農地の開発は、明治以来、自然発生的に行われてきたが、第二次世界大戦後、計画的に行われ、とくに未開発の火山斜面が多い本県では、赤城山に大小34、榛名山に32、浅間山に13、草津白根山に4か所などの開拓地が成功して、おもに酪農と野菜、果樹栽培を行って、新しい村づくりに励んでいる。また、吾妻(あがつま)川に八ツ場ダム(やんばだむ)が建設中である。

[村木定雄・西垣晴次]

交通

JRの中心は高崎で、1884年(明治17)開通の高崎線をはじめ、信越本線、両毛線、上越線、八高線(はちこうせん)が通じ、吾妻線が渋川から嬬恋(つまごい)村大前(おおまえ)まで延びている。また、上越新幹線は1982年(昭和57)開通し、1997年(平成9)10月には、高崎から長野に至る北陸新幹線が開通し(2015年に金沢まで延伸)、それに伴い信越線の横川―軽井沢間は鉄道が廃止され、バスが代行することになり、軽井沢―篠ノ井間は第三セクターの「しなの鉄道」に移管された。JR以外は主として東武鉄道が県の南東の館林、太田、桐生、伊勢崎などの都市と東京・埼玉・栃木方面を結び、館林、太田が要地になっている。また、上毛電気鉄道(じょうもうでんきてつどう)が中央前橋―西桐生間に、上信電鉄(じょうしんでんてつ)が高崎―下仁田間に、わたらせ渓谷鉄道が桐生―間藤(まとう)間に通じている。国道は東京―新潟間の17号、高崎―直江津(なおえつ)間の18号、前橋―水戸間の50号を幹線として、ほかに16線あり、バス網もあって、交通は四通八達し、文化、経済の流通に貢献している。東京都練馬を起点に本県を経て新潟に至る関越自動車道は、1985年全通し、高崎、前橋など9インターチェンジがある。藤岡から軽井沢、佐久に至る上信越自動車道も開通した。さらに、北関東自動車道が2011年(平成23)に全線開通した。また、観光道路の普及も本県の特色で、赤城山、浅間山、草津や、菅沼(すげぬま)―日光湯元間の金精(こんせい)道路、草津から志賀(しが)高原への志賀草津道路も2000メートル級の高原を走る道路として利用されている。

[村木定雄・西垣晴次]

社会・文化

教育文化

江戸時代には、各藩に藩校が設けられた。前橋藩(酒井氏)では1692年(元禄5)に好古(こうこ)堂を開き、佐藤直方(なおかた)が藩儒として指導にあたった。酒井氏にかわった松平氏(越前(えちぜん)家)は1827年(文政10)に博喩(はくゆ)堂を設けた。高崎藩では宝暦(ほうれき)年間(1751~1764)に遊芸館が置かれたが、1774年(安永3)に焼失した。ほかの諸藩では伊勢崎藩(いせさきはん)に学習堂、館林藩(たてばやしはん)に造士(ぞうし)書院、安中藩(あんなかはん)に造士館、沼田藩に沼田学舎、小幡藩(おばた)に小幡学校、七日市藩に成器(せいき)館がそれぞれ開かれていた。郷学には伊勢崎藩の五惇(ごじゅん)堂、遜親(そんしん)堂、遜悌(そんてい)堂、安中藩の桃渓(とうけい)書院、私塾には高崎の学習館、渋川の藍園(らんえん)学舎などが知られ、寺子屋も2か村に一つ以上にあたる700余りが活動していたことが知られている。学者としては儒学には市河寛斎(いちかわかんさい)、亀田鵬斎(かめだほうさい)、高橋道斎(どうさい)、吉田芝渓(しけい)ら、国学に生田万(いくたよろず)、黒川真頼(まより)、蘭学(らんがく)には村上随憲(ずいけん)、設楽天僕(したらてんぼく)、伊古田純道(いこだじゅんどう)、和算には関孝和(たかかず)らの名が知られている。幕末に桐生(きりゅう)・伊勢崎の産業の盛行は町人の間にも好学の風を呼び起こし、黒川真頼も桐生出身の町人学者の一人であった。明治の学制施行では4中学区、783小学区に区分され、1882年(明治15)の就学率は76.3%を占め、教育普及の進んでいたことを示している。小学校以上では1876年(明治9)群馬県師範学校(現、群馬大学教育学部)、1880年に群馬県中学校、1882年に県立女学校(1888年廃校)が開かれたが、中等学校については財政上の問題が大きく、なかなか拡充されなかったが、明治40年代に至り各地に開校されるようになった。1919年(大正8)には桐生高等染織学校(現、群馬大学工学部)が、1943年(昭和18)に前橋医学専門学校(現、群馬大学医学部)が開校し、これらは師範学校とともに合併して1949年(昭和24)群馬大学が発足し、1993年(平成5)には社会情報学部が教養部の改組により誕生した。1957年には高崎市立経済大学が、1968年に私立上武大学が、1980年に県立女子大学が開かれた。2012年現在、大学15、短大8。図書館数56。地元新聞には『上毛新聞』、『桐生タイムス』、テレビには群馬テレビがあり、ラジオはエフエム群馬、ラジオ高崎、FMOZE、FMTARO、ラヂオななみ、FM桐生、いせさきFM、MWAVEが開局している。在京キー局は県下全域でほぼ視聴可能である。また、群馬交響楽団の活躍は広く知られる。

[西垣晴次]

生活文化

ツルが羽を伸ばした姿に例えられる群馬県は、そのほぼ中央を利根(とね)川が貫流する。県の北西部にあたる榛名山(はるなさん)、赤城山(あかぎやま)以北の利根川上流や片品(かたしな)川、吾妻(あがつま)川の流域は、上州名物のからっ風より雪の多い地域であり、田より畑が多い山村地帯である。ここでは利根川がゆったりと流れる平野部の屋敷まわりの防風林よりも、防雪のためのフユガキ(冬垣)が重視される。衣服も、もんぺに似た雪袴(ゆきばかま)、踏込(ふんごみ)が冬の日に用いられた。藁沓(わらぐつ)やかんじきも山仕事には欠かせないものであった。山仕事には馬を利用したから、曲屋(まがりや)をもつ家もみられた。田の少ない山村での食事は、ヒエ、アワ、キビが中心で、米だけを食べるのは物日(ものび)に限られるのが、かつての生活であった。うどんを汁で煮込んだ「切り込み」や、幅の広く薄い「ほうとう」とよばれるうどんは、寒い日のなによりの御馳走(ごちそう)であった。山村だから海の魚を食べることは少なく、食べてもそれは塩をしたものであり、魚といえば塩辛いものという感覚は、中年以上の世代の等しくもつものといえよう。山村の産業としての炭焼きの比重も大きかった。クマ、イノシシ、シカなどを対象とする狩猟も行われていた。碓氷峠(うすいとうげ)のあたりでも、明治20年代までは、シカの姿も多くみられた。林業では中之条あたりから材木を筏(いかだ)に組み、前橋まで出していた。冬の積雪はスキー場の建設、民宿の増加をもたらし、また高原の畑は高冷地野菜の栽培により都市と直結することになった。

 赤城・榛名山の南麓に利根川を挟んで展開する平野部は、からっ風と雷の地帯であり、また養蚕を支えたクワ畑が広くみられた地域であった。住まいも防風林をもち、養蚕のための蚕室を2階にもつ赤城型やそれを手直しした榛名型という特色をもつ民家がみられた。生糸や絹の生産は江戸時代の中期以降、桐生、伊勢崎などの町を成立させ、そこで働く女子や賃機(ちんばた)で稼ぐ女子の現金収入をもたらした。上州の嬶天下(かかあでんか)の背景には、その現金収入があったことは否めない。また雷電(らいでん)神社の分布がみられるのも、雷の発生と無関係ではないであろう。

 神流川(かんながわ)、鏑川(かぶらがわ)、碓氷川、烏川(からすがわ)の各河川による河谷平野のみられる西上州では「上州名物屋根の石」といわれた切妻(きりづま)で板屋根、そこに石を置いた家もしだいに少なくなった。屋根には藤岡特産の黒い瓦(かわら)が目につく。この地域は下仁田を中心にコンニャクの特産地としても知られている。

 これらの地域に対しその様相を異にしていたのが、水が人々の生活に大きな影響を与えていた県の東部、利根川と渡良瀬川(わたらせがわ)に囲まれた板倉町あたりである。しばしば洪水にみまわれたから、屋敷の一隅を2メートル近くも土盛りし、そこに倉をつくる水塚(みづか)がみられ、また長屋には揚舟が梁(はり)から吊(つ)り下げられていた。これらの地域ではフナ、エビ、ドジョウ、ナマズ、ウナギ、コイなどがとれたが、土地の人の口に入るより売り物とされ、くずものを自家用とした。

 民俗芸能では、全国に知られているのが、樽(たる)をたたき、笛、鉦(かね)、鼓(つづみ)を伴奏に、口説(くどき)を中心とする唄(うた)の「八木節(やぎぶし)」である。しかし、その歴史は新しく、大正初期に成立し、大正中期から昭和初期に普及したもので、その普及と流行により古くからの盆踊唄はしだいに姿を消しつつある。農民の伝統的芸能として農村歌舞伎(かぶき)(地芝居(じしばい))がみられ、なかでも渋川市赤城町上三原田の歌舞伎舞台(かみみはらだのかぶきぶたい)は、1819年(文政2)につくられた、残存する日本最古の回り舞台で、せりの上げ下げ、がんどう返しなどの仕組みをもち、間口9.05メートル、奥行7.24メートルの木造萱葺(かやぶ)きの建物で、この地の水車大工の考案になるものである。国の重要有形民俗文化財に指定されている。渋川市赤城町津久田(つくだ)にも、1811年(文化8)に建築された歌舞伎舞台を、流行した人形芝居のために改築した舞台が残されている。みなかみ町下津(しもづ)の小川島(おがわじま)の歌舞伎舞台も、回り舞台をもつ舞台として知られている。歌舞伎の上演には衣装が必要である。赤城山麓の前橋市富士見町横室(ふじみまちよこむろ)では、江戸時代から歌舞伎衣装を購入しており、なかには7代目市川団十郎の用いたものも含まれている。農村歌舞伎流行以前には人形芝居が楽しまれていた。それだけに多彩なものがみられる。国の重要無形民俗文化財に指定されている安中市中宿(なかじゅく)の灯籠人形(とうろうにんぎょう)は、糸操りで、舞台に針金を張り、そこに人形を吊るし、糸で動かす。人形の内に灯火が入れられ、顔が暗い舞台に浮き上がるという独自のくふうが凝らされている。津久田の人形は三人遣いのものであり、みなかみ町下牧(しももく)の古馬牧(こめまき)人形も三人遣いである。高山村の尻高人形(しったかにんぎょう)(国選択無形民俗文化財)は一人遣いの技巧を凝らしたものがみられる。このほか、選択無形民俗文化財には、片品村の猿祭や富岡市一ノ宮(いちのみや)の貫前(ぬきさき)神社の鹿占(しかうら)神事がある。神事芸能を代表する神楽(かぐら)は県下で110か所余りで行われており、それらは太太(だいだい)神楽と里(さと)神楽に大別される。獅子頭(ししがしら)をかぶって舞う獅子舞は県下で220か所余りで行われていたことが知られている。悪霊を払うためのもので、一つの獅子頭に前後2人が入る二人立ちの獅子舞は神楽獅子とよばれ、一つの頭に1人が入り3頭で組む獅子舞と区別されていた。門付(かどづけ)芸のうちの春駒(はるこま)は、現在は中絶しているが、沼田市白沢町、高山村などから出たことが知られている。春駒は新春の一般的な祝言を述べるのではなく、養蚕の盛行を反映し、養蚕の予祝をするものであった。

 正月に年神を祀(まつ)るとともに祖霊である「オミタマサマ」にみたまの飯を供え祭る風習が県下全域にみられる。小正月(こしょうがつ)の鬼の歯、花などのツクリモノは西・北毛の山村地帯を中心に各種のものがみられる。小正月のどんど焼き、道陸神(どうろくじん)(道祖神)焼きは、子供組が小屋をつくり、そこに寝泊りをしてなされる。道祖神では双体道祖神像が榛名山麓から北・西毛にみられる。高崎市倉渕(くらぶち)町地区の熊久保(くまくぼ)には日本最古とされる寛永(かんえい)2年(1625)銘のものがある。3月の雛(ひな)祭には雛市が各地で立つ。上野(うえの)村のあたりでは子供が川原で粥(かゆ)を雛に供えるオヒナガユの行事が、雛祭の古い姿をしのばせる。盆行事は養蚕などの影響もあり7月、8月、9月と地域により差がある。東・北毛では盆釜(ぼんがま)の習俗もみられるし、また火とぼし行事もなされている。収穫祭の旧10月10日の十日夜(とおかんや)はダイコンの年取りなどとよばれ、餅(もち)を搗(つ)き、子供たちは藁(わら)鉄砲で地面をたたいて回る。この日にカカシアゲがなされる所もみられる。

 文化財では、板倉町雷電神社末社の八幡宮稲荷神社(はちまんぐういなりじんじゃ)の社殿(国指定重要文化財)は県内最古の建造物といわれ16世紀中ごろのものである。神社建築では玉村町の玉村八幡宮本殿(重文)が中世末のものとされる。近世では上州(じょうしゅう)一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)の本殿・拝殿・楼門(いずれも重文)が1635年(寛永12)の建立で江戸初期の華麗な技法を示し、太田市世良田(せらた)の東照宮の本殿・唐門(ともに重文)は、日光の東照宮の元和(げんな)年間(1615~1624)建立の奥社を1638年に移したものである。妙義神社(みょうぎじんじゃ)の本殿・幣殿・拝殿など(いずれも重文)は1756年(宝暦6)の建立にかかるものである。民家では沼田市の旧生方家住宅(きゅううぶかたけじゅうたく)(重文)が桁(けた)行18.9メートル、梁(はり)間12メートル、板葺(いたぶ)き切妻(きりづま)の妻入(つまいり)の町家で、17世紀末の建造にかかる城下町の町屋遺構として全国的にも貴重なものである。富岡市の旧茂木(もてぎ)家住宅(重文)は16世紀中ごろの板葺きの石置き屋根の民家である。前橋市の阿久沢(あくざわ)家住宅(重文)は、草葺き寄棟造(よせむねづくり)で17世紀の建立とされる。養蚕地帯の民家としては、上野村の旧黒沢家住宅(重文)、中之条町の富沢家住宅(重文)が知られる。

 寺院建築では中之条町の宗本寺(そうほんじ)の薬師(やくし)堂(重文)が構造・様式から室町末期のものとされているほかは、中世にまでさかのぼるものはみられない。しかし、仏像では注目すべきものが少なくない。県内最古の木彫仏とされるのは、坂東(ばんどう)三十三番札所の第15番、高崎市の長谷(ちょうこく)寺の185センチメートルの十一面観音像(県重文)である。東国に多い鉄仏でかつ鋳造年月も明らかな優品が、前橋市の善勝寺(ぜんしょうじ)の仁治(にんじ)4年(1243)の銘文がある阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)(重文)である。同じ前橋市の日輪(にちりん)寺の十一面観世音(かんぜおん)像は鉈彫(なたぼり)として知られている。赤城山西麓の渋川市赤城町宮田の石造不動明王立像は166センチメートルあり、1251年(建長3)に新田(にった)一族の里見氏義(さとみうじよし)が造立させたものであり、全国的にみても優れた石仏である。県下には石造物は多い。なかでも上野三碑と称せられる山上碑(やまのうえひ)(高崎市山名町)は天武(てんむ)天皇10年(681)の、多胡碑(たごひ)(高崎市吉井町池)は和銅(わどう)4年(711)の、金井沢碑(かないざわひ)(高崎市山名町)は神亀(じんき)3年(726)のものでいずれも特別史跡であり、日本古代史研究に欠くことのできぬ金石文として知られている。なお上野三碑は、2017年(平成29)にユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」に登録された。

 絵画では妙義神社の『地蔵菩薩霊験記(ぼさつれいげんき)』(重文)が絵巻物の美しさを知らせてくれる。藤岡(ふじおか)市満福寺(まんぷくじ)の『泰西王侯(たいせいおうこう)図』(重文)は由来・作者とも不明であるが、初期洋風画の逸品である。機業地桐生の大雄(だいゆう)院蔵の『刺繍涅槃(ししゅうねはん)図』は、機業地の特色を生かした刺しゅうであることが注目される。中世以来の伝統をもつ太田市世良田の長楽寺には新田氏との関係を語る紙本墨書長楽寺文書(重文)のほか多くの文化財が残されている。

[西垣晴次]

伝説

赤城山と榛名山には、古くから「巨人伝説」がある。上野(こうずけ)と駿河(するが)(静岡県)の山男が腕を競い、上野は榛名山を、駿河は富士山を築いたが、高さで駿河に及ばなかった。そのとき土を掘った跡に水がたまり榛名湖になったという。巨人ダイタラボッチの足跡は、太田市、藤岡(ふじおか)市、東吾妻(ひがしあがつま)町郷原(ごうばら)など各地にある。赤城山には大沼(おの)、小沼(この)の2湖がある。麓(ふもと)の「赤城長者」の娘が16の春初めて山に登り、小沼の主(ぬし)に魅入られて妻になったという。みなかみ町には「八束脛大明神(やつかはぎだいみょうじん)」という祠(ほこら)がある。八束脛は陸奥(むつ)の安倍(あべ)氏残党の落人(おちゅうど)で、千里の道も韋駄天(いだてん)のように疾走することができ、その勇猛を天下に知られていたが、石尊(せきそん)山の洞窟(どうくつ)に潜伏しているところを追っ手の源義家(よしいえ)に発見され殺されたという。源頼光(よりみつ)の四天王「碓氷定光(うすいさだみつ)」の出生は山姥(やまうば)の子で、幼時を碓氷山地で過ごした。それだけに碓氷峠付近に定光の伝説地が多い。

 中之条(なかのじょう)町入山(いりやま)は木曽(きそ)源氏の落人村として知られている。山本マケ(一族)の先祖が落ちてきたのは大晦日(おおみそか)であったので門松を立てることができ、山本マケの他の一族は元日になったので立てなかった。これが家例になり、前者を「宵の山本」、後者を「明けの山本」とよぶようになった。また同村赤岩の湯本家の祖は細野御殿之助(みとののすけ)といって木曽源氏の落人。源頼朝(よりとも)の浅間(あさま)巻狩りのおり、案内を命ぜられ「草津の湯」を発見して頼朝から湯本姓をもらったと伝えている。浅間山麓一帯には頼朝ゆかりの伝説がある。県内に有名無名の温泉が多いが、みな「湯元発見の伝説」がある。湧出(ゆうしゅつ)していた湯に馬の骨など不浄なものを投げ入れたために、湯口が止まったという伝説地も少なくない。また、弘法清水(こうぼうしみず)、弘法井戸の名をもつ名水も数えきれぬほどある。膳(ぜん)・椀(わん)を頼めば貸してくれたという竜宮淵(りゅうぐうぶち)、膳貸淵、椀貸沼など、利根川沿いだけでも数多くある。いずれも水に深いかかわりのある場所で、その信仰が根底にあるとみることができる。「分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)」が館林(たてばやし)市の茂林寺(もりんじ)の寺宝であるのは周知のことで、タヌキが茶釜になったが、これは動物報恩譚(ほうおんたん)の一つで、類話は青森から熊本にまで分布している。高山村に「添(そ)うが森、添わずが森」という伝説がある。一つは縁結びの神、ほかは縁切りの神で、小野義明(よしあき)とあわび姫の悲恋伝説に基づく。また、「忌(い)み田、忌み畑」とされた耕地も多い。息切り田、後家(ごけ)畑、怨霊(おんりょう)田、かかとり畑、婆とり田、因縁(いんねん)畑などであり、忌みのかかった田畑で耕作すると祟(たた)りがあるといわれている。忌み田は諸国にもある。しかし、なぜこのような忌まわしい伝説が多く発生したか、深く考察してみる要があろう。

[武田静澄]

『九学会連合『利根川』(1971・弘文堂)』『都丸十九一『日本の民俗10 群馬』(1972・第一法規)』『『群馬県史』全37巻(通史編10巻 資料編27巻)(1977~1992・群馬県)』『『群馬県百科事典』(1979・上毛新聞社)』『『日本域郭大系 群馬県』(1980・新人物往来社)』『『日本歴史地名大系10 群馬県の地名』(1987・平凡社)』『『日本地名大辞典10 群馬県』(1988・角川書店)』『丑木幸男他著『群馬県の百年』(1989・山川出版社)』『西垣晴次編『図説群馬県の歴史』(1989・河出書房新社)』『『新版 群馬県の歴史散歩』(1991・山川出版社)』『『群馬県姓氏家系大辞典』(1992・角川書店)』『『神道大系 神社編25 上野・下野国』(1992・神道大系編纂会)』『西垣晴次他著『群馬県の歴史』(1997・山川出版社)』


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