目次 象徴としての紫 日本文化のなかの紫 色名の一つ。日本工業規格(JIS )では10種の有彩色,5種の無彩色,計15色名を基本色名に定めているが,紫は有彩色の基本色名の一つである。スペクトル色 (可視光線の単色光の示す色刺激)は,人によって色感覚も異なり,その波長も一定でないが,紫は波長ほぼ420~425nmの範囲にある。
象徴としての紫 青と赤とを重ねた色である紫は,青と赤の割合に応じてさまざまに変化する。西洋ではその変化に応じて異なった名称を使い,両者等分のものをラテン語でウィオラviola(本来〈すみれ 〉の意),赤みの強いものをプルプラ purpura(深紅色の染料がとれる貝Purpuraに由来),青みの強いものをヒュアキントゥス hyacinthus(青い花を咲かせる植物Hyacintusに由来)と分けている。そのうちプルプラ(英語のpurple,フランス語のpourpreなどの語源)は,その色の染料が高価なので,これで染めた絹布はとくに貴重視され,古代ローマ時代には皇室の専用品となった。皇室関係の肖像や石棺にはこの色をしたエジプト産の石材,ポルフュリテスporphyritesが用いられたし,6世紀ごろまでのキリスト 像の衣はこの色をしている。また中世末期までの高貴な写本に用いられた羊皮紙も,この色で染められている(《ウィーン創世記 》など)。要するにプルプラの紫は高貴の象徴である。他方ウィオラから派生した紫色(英語およびフランス語のviolet)は,キリスト教的立場からは青と赤,すなわち神の叡智と慈愛を一つにしたものと解され,人類を救うために身を犠牲にした〈受難のキリスト〉の衣の色となった。さらにこの紫は喪の色と解された。ヒュアキントゥスの紫は,旧約時代には黄金やプルプラと並んで高貴な色とされ,祭司の衣などに用いられたが(《出エジプト記》25:4など),それはまた異教の偶像崇拝の象徴色ともなり(《エレミヤ記》10:9),さらに人間を懲(こ)らしめる煙の色ともされた(《ヨハネの黙示録》9:17)。一般的にいえば今日の西洋では紫を喪色とする傾向が強い。 執筆者:柳 宗玄
日本文化のなかの紫 何をもって〈日本の色〉と感ずるかという世論調査では,きまって紫と赤 が上位を占めるという。しかし紫や赤を愛好する独自の色彩感覚は日本人が先天的にもっているものではなく,永い時間を経たうえで歴史的・文化的に形成されてきたものである。文献的にも裏づけできるのは,7~8世紀律令体制が確立したときに,中国の政治思想や宮廷儀式を直輸入しながらしだいにこれに改訂を加え,ついに独特の服色規定をつくりだしたという事実である。律令の〈衣服令(えぶくりよう)〉の〈礼服(らいぶく)〉(即位,朝賀,供宴など大礼のときに着る服),〈朝服(じようぶく)〉(朝廷に参内するときに着る正式の服),〈制服(せいぶく)〉(無位の官人・庶人が朝廷の公事に着る服)の項には位階の上下に従って着用すべき服色が厳格に規定され,そのさい,紫→赤→緑→縹(はなだ)(うすい藍色)という尊貴の順序が決められていた。つまり,紫こそ最も尊貴な色であるとする観念は,古代律令国家体制という歴史環境の所産であり,しかも,その思想的根底には唐風崇拝の文化思潮があった。日本律令官人貴族が活用していた類書《芸文類聚 (げいもんるいじゆう)》には〈紫雲〉をはじめとする〈紫〉の用例が無数にみられるが,これらを受けて,たとえば《続日本紀》には,〈紫宮之尊〉〈紫微令〉などの文言がみられる。もちろん,他方では《万葉集》に〈紫は灰指すものそ海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる児や誰(たれ)〉〈紫草(むらさき)は根をかも竟(を)ふる人の児の心(うら)がなしけを寐(ね)を竟(を)へなくに〉のごとき庶民の歌がみられるほどだから,皇族や貴族以外には紫色は使用禁止になっていたとまでは必ずしも断言できないが。
そして平安後期になると,紫といえば,もはやそれのみにて高貴(〈あてなるもの〉)・優美(〈めでたきもの〉)・柔婉(〈なまめかしきもの〉)の観念および実体をあらわすと考えられるようになる。そればかりでなく,たんに〈濃き色〉〈淡き色〉といっただけで,濃い紫色および淡い紫色を意味するに至る。《枕草子》には,たとえば〈めでたきもの〉として,〈色あひふかく,花房ながく咲きたる藤の花の,松にかかりたる〉〈花も糸も紙もすべて,なにもなにも,むらさきなるものはめでたくこそあれ。むらさきの花の中には,かきつばたぞすこしにくき。六位の宿直姿(とのゐすがた)のをかしきも,むらさきのゆゑなり〉とある。《枕草子》となると,あの有名な劈頭の〈春はあけぼの。やうやうしろくなり行く,山ぎはすこしあかりて,むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる〉のパラグラフを見落とすわけにはゆかぬ。この〈むらさきだちたる雲〉を写実的描写と解することも不可能ではないが,むしろ写実的世界を超えたところにこそ随想文学の真骨頂が発揮されたとみるべきではあるまいか。当然,紫雲の思想は,中国から輸入された祥瑞(しようずい)のシンボルの日本的定着であり,8世紀後半の正史には,播磨,大和,佐渡,飛驒国などから,紫雲出現が報告されている。この間に,時代は〈摂関時代〉に移りゆき,紫色は藤原氏と〈藤の花〉とも密接に結びついていくことになる。《枕草子》劈頭の〈紫だちたる雲〉を,たんなる写生的描写とみることはできないのである。そのほか,前田千寸《日本色彩文化史》が列挙するごとき,日本では紫雲によって皇后の位を象徴することが行われたこと,紫雲は必ずしも阿弥陀如来の象徴とのみ限られているのではないが,平安時代中期以後にみる仏教的象徴の紫雲は,当時の信仰が阿弥陀如来に集中していたため多く阿弥陀如来に結ばれていること,そして紫雲は〈冥(みよう)〉すなわち神仏の意志の示現という意味で,聖人,名宝等に関する事跡との間に必然的な関連性を与え,伝説的な神秘性を加えて,その事跡に尊厳を添えたことなどの諸特性をも視野の中にとらえておく必要があろう。
紫色は,また,平安時代に〈ゆかりの色〉と呼ばれた。それの由来を《古今和歌集》の〈紫のひともとゆゑにむさし野の草はみながらあはれとぞみる〉に求める説明が普通に行われているが,紫色のもつ位階・身分の尊貴性と,〈ゆかり〉(血縁とか,仏教語の縁とか,なんらかの必然的なつながりとかの意味で用いられた)の思想性との一致は,《源氏物語》のなかにその典型が見いだされる。桐壺帝(光源氏の父君),桐壺更衣(光源氏の母君),藤壺中宮(源氏が生涯にわたり思慕しつづけた桐壺帝の后),紫の上(源氏の最愛の妻)は,すべて紫色にかかわりがあり,かつ血縁的にも容貌的にも深いかかわりをもっている。〈紫のゆかり〉あるいは〈ゆかりの色の紫〉という思想は,やはり平安摂関宮廷知識人が抱懐した世界観や価値意識の反映とみるのが最も適切と思われる。
染色技術に関していうと,《延喜式》縫殿寮(ぬいどのりよう)の〈雑染用度〉という項目に〈深紫(こきむらさき)〉〈浅紫(あさきむらさき)〉〈深滅紫(ふかきめつし)〉〈中滅紫(なかのめつし)〉などに関していちいち染料,顕色剤,媒染剤,燃料などの種類や量が記述されている。同じく《延喜式》民部下の〈交易雑器〉(品物を交換して商売する)の項では,甲斐,武蔵,下総,常陸,信濃,上野,下野,出雲,石見,太宰府などから紫草が出荷されていた事実も知られる。紫色が特権貴族階級の専有物であった状態から解放され,だれでも紫色を身に着けうるようになったのは,明治以後のことに属する。紫にかぎらず,ひろく色彩を使用することが可能になった事態さえ,庶民にとってはそれほど古いことではなかった。中世末期から木綿が普及し,大量生産に適応しうる染色法が開発されるに伴い,近世には武士・庶民は藍(紺),茶,黒,白を主体とする色彩文化がつくりだされた。文化人や趣味人のレベルで〈古代紫〉や,これに対抗する〈京紫〉〈江戸紫〉などの手法がさかんに褒めそやされたが,人によって赤みがかかった色相がよいとされたり青味がかった色相がよいとされたりしていた。染料に紫草を用いるもののほかに,蘇芳 (すおう)を主染料とし明礬(みようばん)と灰汁(あく)を用いて媒染する手法をとれば赤みがかってくるのは当然だった。それにしても,紫草それ自体が高価であり,紫草の栽培・販売も規制されていたのだから,庶民には容易に入手しうるものではなかったのである。 →紫根 (しこん) 執筆者:斎藤 正二