田辺(読み)たなべ

精選版 日本国語大辞典 「田辺」の意味・読み・例文・類語

たなべ【田辺】

[一] 和歌山県南西部の地名。紀伊水道田辺湾に臨む。古くから牟婁津(むろのつ)と呼ばれた港町であり、熊野街道の要所として発展。漁業のほか、製材と木材加工、ボタン、かまぼこの製造がさかん。昭和一七年(一九四二)市制。
[二] 京都府舞鶴市の中心の一つ、西舞鶴の旧称。旧加佐郡舞鶴町。舞鶴湾の湾奥(西港)にある港町で、江戸時代は牧野氏三万五千石の城下町として発達。
[三] 京都府南部、木津川中流の西岸の地名。一休が再興した酬恩庵(一休寺)があり、一休の墓もある。JR片町線(学研都市線)、近鉄京都線が通じる。平成九年(一九九七)市制施行し、京田辺市となる。

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デジタル大辞泉 「田辺」の意味・読み・例文・類語

たなべ【田辺】[和歌山県の市]

和歌山県南部の市。熊野参詣の交通の要地として、紀州藩家老安藤氏の城下町を中心に発展。田辺湾北側の天神崎は日本のナショナルトラスト運動の先駆として知られる。平成17年(2005)5月、龍神村中辺路なかへち町、大塔村本宮ほんぐう町と合併し、熊野本宮大社も市域に含まれる。人口7.9万(2010)。

たなべ【田辺】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「田辺」姓の人物
田辺聖子たなべせいこ
田辺元たなべはじめ
田辺尚雄たなべひさお
田辺宗英たなべむねひで

たなべ【田辺】[京都府の旧町名]

京都府南部、綴喜つづき郡にあった旧町名。平成9年(1997)市制施行して京田辺市となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「田辺」の意味・わかりやすい解説

田辺[市] (たなべ)

和歌山県中央部の市。2005年5月旧田辺市と中辺路(なかへち)町,本宮(ほんぐう)町,大塔(おおとう)村,竜神(りゅうじん)村が合体して成立した。人口7万9119(2010)。

田辺市南部の旧村。旧西牟婁(にしむろ)郡所属。人口3246(2000)。紀南地方最高峰の大塔山(1122m)西麓の山岳地帯にあって,富田(とんだ)川,日置(ひき)川が穿入蛇行し,谷底に集落が点在する典型的な山村である。全域が交通不便な山岳地帯のため,人口の流出が激しい。交通の整備が図られ,西端の富田川沿いを国道311号線,中央の日置川沿いを371号線が通る。村域の大部分が山林で,林業が基幹産業。日置川一帯には百間山渓谷やかもしか牧場,青少年旅行村があり,大塔日置川県立自然公園に指定されている。富田川沿いに鮎川温泉(含炭酸重曹泉,23~27℃)がある。
執筆者:

田辺市西部,田辺湾に面する旧市。1942年市制。人口7万0360(2000)。古く〈牟婁津(むろのつ)〉(《日本書紀》),〈紀の国の室(むろ)の江〉(《万葉集》巻十三)と記される港は,当市の海岸部と考えられる。また熊野三山への参詣道(熊野街道)が,山間を抜ける中辺路(なかへじ)と海岸に沿う大辺路(おおへじ)とに分岐する交通の要地であった。

 平安~鎌倉期には左会津川流域に摂関家領三栖(みす)荘,右会津川の中・上流域に醍醐寺一乗院領秋津荘,そして市域西端を流れる芳養(はや)川流域には石清水(いわしみず)八幡宮領芳養荘が成立。湊にある闘鶏神社は,源平合戦に際して熊野別当湛増が,いずれに味方すべきか神前で紅白の鶏を戦わせて占ったという話で著名。また弁慶は湛増の子と伝えられ,当市では弁慶の出身地として祭りが行われる。関ヶ原の戦の後,浅野幸長が紀伊に入国,田辺には重臣浅野氏重が配された。1619年(元和5)徳川頼宣が紀州藩主となると,田辺には付家老安藤直次(3万8000石)が配されて新宮とともに支藩的存在となり,実質的には城下町であった(正式に田辺藩となるのは1868年)。田辺城は会津川河口左岸にあり,海辺に位置するため,幕末に海岸警備が強化された際には二丸近くに台場が築かれた。田辺の名産は栩塗細工,炭,蓬萊酒,晒葛,蜂蜜などであったが,今日も珍重される備長(びんちよう)炭は田辺の炭問屋備中屋長左衛門が江戸や大坂に売りひろめたものとも伝え,秋津川には備長炭製炭創始者という吉三をたたえる盆踊歌が伝わる。

 現在,文里(もり)港の周辺に木材業,製材業が発達,会津川河口の江川港も重要な水揚港で,水産加工も行われている。貝ボタンの加工は著名。JR紀勢本線が通じ,2007年阪和自動車道のインターチェンジが開通した。博物学者で,明治期の神社合祀令に強烈な反対運動を展開した南方熊楠(みなかたくまぐす)は当地出身で,その居宅が現存する。田辺湾上の小島神島(かしま)(天)は全島が暖地性の植物でおおわれる。田辺湾沿岸には製塩遺跡が多く,海食による岩陰を墓に利用した岩陰遺跡もある。
執筆者:

田辺市中部の旧町。旧西牟婁郡所属。人口3710(2000)。紀伊半島南部に位置し,紀伊山地南縁の果無(はてなし)山脈南斜面を占める。富田川と日置川沿いにわずかな低地があり,集落が点在する。平安時代より熊野詣での重要ルートであった熊野街道中辺路が通じており,現在,〈歴史の道熊野古道中辺路〉として整備され,それに並行して国道311号線が通る。農林業が基幹産業で,良質の杉,ヒノキ材を産出する。古くは滝尻王子と呼ばれた滝尻王子宮十郷神社をはじめ,熊野九十九王子のうちのいくつかがあり,富士根および洞谷一帯には天然記念物の栗栖川(くりすかわ)亀甲石包含層がある。

田辺市東部の旧町。旧東牟婁郡所属。人口3869(2000)。熊野川上流の十津川中流域に位置し,北は紀伊山地南縁の果無山脈を境に奈良県に接する。中心集落の本宮は熊野三山の中心熊野本宮大社(熊野大社)の門前町として古くから形成され,熊野街道の中辺路,十津川路,高野路,伊勢路などが集まる交通の要衝であった。町域の大部分が山林で,熊野杉の産地として知られる。大塔川の河原にある川湯温泉,熊野参詣をすませた上皇や貴族が入湯した湯ノ峰温泉など国民温泉に指定された温泉があり,吉野熊野国立公園に含まれる。湯ノ峰には天然記念物のユノミネシダ自生地がある。国道168号,311号線が通る。
執筆者:

田辺市北部の旧村。旧日高郡所属。人口4461(2000)。東は奈良県吉野郡十津川村に接し,村域のほとんどが山林である。北部に県下最高峰の護摩壇(ごまだん)山(1372m)がそびえ,同山に発する日高川が中央を貫流する。肥沃な土壌と温暖多雨の気候にめぐまれ,杉,ヒノキを中心とする林業やシイタケ栽培が行われる。日高川の渓谷に湧出する竜神温泉は49℃の重曹泉。役行者(えんのぎようじや)が開き,空海が難陀竜王の夢告により衆人に勧めた温泉という伝えがある。江戸時代には紀州徳川家初代頼宣が湯宿を設け,以後歴代藩主も保護を加え,深山幽谷の地にありながら栄えた。上御殿,下御殿など当時をしのばせる名の旅館がある。また,幕末,天誅組の水郡長雄ら8名が一時幽閉された土蔵(天誅倉)がある。中里介山の小説《大菩薩峠》の舞台でもある。護摩壇山の稜線を越えて高野山と結ぶ高野竜神スカイライン(2003年無料開放)が通じ,一帯は高野竜神国定公園に属する。
執筆者:

田辺 (たなべ)

丹後国加佐郡の城下町。港湾交通の要地。現在の京都府舞鶴市の西舞鶴地区にあたる。《和名抄》に加佐郡田辺郷がある。天正年間(1573-92)織田信長の丹後攻略の際,細川藤孝が城郭を建設して田辺城としたが,鶴が舞うような姿であるとして舞鶴城とも言う。関ヶ原の戦後,京極高知が入部するが,1622年(元和8)高知の遺言で宮津藩12万7000石を3分轄,次男高三が加佐郡121ヵ村3万5000石を領して田辺藩が成立した。68年(寛文8)高盛の但馬への転封によって牧野氏がこれに代わり,明治維新まで継続した。城の建設とともに町割りが行われ,近隣諸国より商人や職人を招いて地子免除の特典を与え,城下町形成に努力した。城下町は武士と町人の混在型で,惣年寄の下に本町(9ヵ町)には年寄,枝町には肝煎を各1人ずつ置き町政に当たらせた。陸上交通では大手門を起点として京,宮津,河守(こうもり)の各街道があり,海上では若狭湾に面する田辺,黒地,浦丹生,大波,由良の各湊が発達し,由良川と高野川が年貢や物資の輸送に利用された。城内に藩校の明倫館が,町屋に求心舎,立敬舎が設けられ,1838年(天保9)には戸数1593,人口6510であった。59年(安政6)には戸数1725,人口7075で,ほかに武家人口2455,合計約9500人余と推定される。69年(明治2)版籍奉還の際,紀伊国の田辺藩と区別するために城名をとって舞鶴藩とし,以後町名も舞鶴町と改称。1901年中舞鶴に鎮守府が設置され,東舞鶴が軍港となって,旧田辺は西舞鶴と称された。
執筆者:

田辺(京都,旧綴喜郡) (たなべ)

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百科事典マイペディア 「田辺」の意味・わかりやすい解説

田辺【たなべ】

丹後国加佐郡に近世初期に成立した城下町。現京都府舞鶴市の西舞鶴地区にあたる。名称は《和名抄》の加佐郡田辺郷に由来。1580年細川藤孝(幽斎)・細川忠興(ただおき)父子が織田信長から丹後を与えられて宮津に入部,藤孝の隠居城として田辺城(舞鶴城)が造営され,城下町も形成された。1600年細川氏は関ヶ原の戦の功により豊前中津(なかつ)へ転封,そのあとへ京極高知が入った。1622年高知が没して遺領が3子に分与され,田辺城には次子高三が加佐郡内121ヵ村・3万5000石を領知して居城,田辺藩を立藩した。1668年田辺京極氏は転封となり,牧野親成が同じく3万5000石で田辺へ入封,以降牧野氏が廃藩置県まで在封した。京極・牧野両氏の時代を通じて城下町は発展するが,骨格は細川氏時代を受け継ぐものであった。細川藤孝は城下町経営に際し,楽市楽座の制にならったと伝え,近隣諸国から商人・職人を招いて本町(ほんちょう)に住まわせ,地子銭を免除して城下町の発展を図ったという。細川氏・京極氏の時代には,城下町は下級武士と町人の混在形であったが,牧野氏の時代には分離された。本町は9町,ほかに枝町(享保以前は6町,以後8町)があり,城下町全体を管轄する惣年寄1人のもとに本町9ヵ町に年寄各1人,枝町には肝煎各1人が置かれていた。1825年成立の《田辺旧記》によると町屋の家数は1133。城下町は舞鶴湾(西湾)に面して田辺湊があり,領中にはほかに由良湊など多くの湊が発達していた。また由良川筋の河川交通も盛んで,陸路も京街道,宮津街道,河守(こうもり)街道(福知山街道),若狭街道などが通じていた。1869年版籍奉還に際して,紀州田辺藩との混同を避けるため城名の雅称舞鶴にちなんで舞鶴藩と改称され,同時に城下町も舞鶴と呼ばれるようになり,1889年舞鶴町が成立。その後軍港都市として中舞鶴・東舞鶴がつくられたため,舞鶴町は西舞鶴と通称されるようになった。1938年舞鶴市となる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田辺」の意味・わかりやすい解説

田辺
たなべ

京都府南西部、綴喜(つづき)郡にあった旧町名(田辺町(ちょう))。1997年(平成9)名称変更して市制施行、京田辺市となる。

[編集部]

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