玄武館(読み)げんぶかん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「玄武館」の意味・わかりやすい解説

玄武館
げんぶかん

幕末江戸三大道場の一つ。北辰(ほくしん)一刀流千葉周作成政(ちばしゅうさくなりまさ)が、1822年(文政5)の秋、江戸日本橋品川町に創立して評判をとった。門人急増により手狭となったため、25年秋に、神田お玉が池の儒者東条一堂池(ようち)塾に隣接する旗本某の邸跡を買い求め、さらに一堂の没後、これを合併してその規模は江戸町道場随一といわれた。1851年(嘉永4)浅草観音奉額を行った際には、一族一門あわせて3000余名を数えたという。

[渡邉一郎]

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デジタル大辞泉プラス 「玄武館」の解説

玄武館

幕末の剣豪、千葉周作が江戸に開いた北辰一刀流の道場の名。1822年、日本橋品川に創立。門下生が増え手狭になったため、1825年には神田お玉が池に移転した。江戸三大道場のひとつとして隆盛をきわめた。

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世界大百科事典(旧版)内の玄武館の言及

【千葉周作】より

…他流試合を通じて各流の長短得失を学んだ結果,伝統的な一刀流兵法にも改める点のあることを感じ,みずからの創意工夫を加えて北辰一刀流をうち立てた。その後,流儀の宣伝弘布をかねて諸国を巡歴し,他流試合を通じて自信を深め,江戸に帰って玄武館を開いた。近代的な教授法と昇段制の改革などによって門人は急増し,神田お玉ヶ池の道場には多くの優秀な人材が集まり,江戸随一の道場の名声を得た。…

【北辰一刀流】より

…周作は一刀流を中西忠兵衛子正(たねまさ)およびその門人浅利又七郎義信から学び,免許階級制や技術体系を近代的な形に改革して北辰一刀流とした。兄弟,子どもがいずれも剣に優れ,江戸神田お玉ヶ池の道場〈玄武館〉は江戸四大道場の随一といわれた。門人からも森要蔵,塚田孔平などの名剣士や坂本竜馬など維新に活躍した人材を多数輩出した。…

【町道場】より

…全国各地に町道場が栄え,武芸教育の関心が高まり,庶民教育に大きな役割を果たした。とくに江戸では,北辰一刀流千葉周作の神田お玉ヶ池〈玄武館〉,神道無念流斎藤弥九郎の九段下〈練兵館〉,鏡新明智流桃井(もものい)春蔵の南八丁堀大富町蜊(あさり)河岸〈士学館〉を〈江戸三大道場〉,さらに心形刀流伊庭軍兵衛の下谷御徒町の道場を加えて〈江戸四大道場〉と呼び,その名も高く隆盛をきわめた。渡辺崋山,藤田東湖,天野八郎,桂小五郎,坂本竜馬,近藤勇,土方歳三など,幕末から明治維新にかけて活躍した人々が数多く町道場に入門して学んでいる。…

※「玄武館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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