熊本(読み)クマモト

デジタル大辞泉 「熊本」の意味・読み・例文・類語

くまもと【熊本】

九州地方中西部の県。もとの肥後国にあたる。人口181.7万(2010)。
熊本県中西部にある市。県庁所在地。市内を白川が流れる。江戸時代には細川氏の城下町。平成8年(1996)中核市に指定。平成20年(2008)に富合町を、平成22年(2010)に城南町・植木町を編入。平成24年(2012)より指定都市。人口73.4万(2010)。
[補説]熊本市の5区
北区中央区西区東区南区

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精選版 日本国語大辞典 「熊本」の意味・読み・例文・類語

くまもと【熊本】

[一] 熊本県中央部にある地名。県庁所在地。古くは肥後国の国府所在地で、古墳も多い。近世初期、加藤清正の熊本城築城により繁栄。江戸時代は細川氏五四万石の城下町。明治維新後は鎮西鎮台(のち第六師団)が置かれ、九州の軍事的中心となる。鹿児島本線豊肥本線などが通じる交通の要地。藤崎八幡宮、水前寺公園などがある。明治二二年(一八八九)市制。

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改訂新版 世界大百科事典 「熊本」の意味・わかりやすい解説

熊本[県] (くまもと)

基本情報
面積=7404.73km2(全国15位) 
人口(2010)=181万7426人(全国23位) 
人口密度(2010)=245.4人/km2(全国27位) 
市町村(2011.10)=14市23町8村 
県庁所在地=熊本市(人口=73万4474人) 
県花リンドウ 
県木クスノキ 
県鳥=ヒバリ

九州本島のほぼ中央部に位置する県。北は福岡県,東は大分・宮崎両県,南は鹿児島県に接し,西は有明海(島原湾)をはさんで長崎県に相対している。

熊本県は旧肥後国全域にあたり,幕末には熊本藩人吉藩および天領の天草,五家荘に分かれていた。天草,五家荘は1868年(明治1)閏4月富岡県,6月天草県となり,8月長崎府(のち長崎県)に編入された。71年廃藩置県を経て11月府県統廃合の際,熊本県下の下益城(しもましき),宇土,芦北,八代(やつしろ)の4郡と人吉県および長崎県の天草郡をあわせて八代県が新設された。またこの時熊本県に含まれていた豊後3郡が新置の大分県に,人吉県管轄の椎葉山諸村が美々津県に移管された。熊本県は72年県名を白川県と改め,73年に八代県を合併して現在の県域が確定した。その後76年県名を熊本県に再改称し,今日に至っている。

石飛(いしとび)遺跡(水俣市)は熊本県で数少ない先土器時代から縄文早期にかけての遺跡である。第2層下部に撚糸文土器,第3層に細石器,第4層以下にナイフ形石器などを出土した。縄文早・前期では轟(とどろき)貝塚(宇土市)と曾畑貝塚(宇土市)がある。これらの鹹水貝塚は古くから知られ,多くの研究者によってたびたび調査された。ことに轟貝塚の出土土器は早期末のA・B式と前期のC・D式に編年され,九州北西部での標準型式とされている。中期~後期の遺跡としては阿高貝塚(熊本市)がある。中期の阿高式の標式遺跡である。この遺跡の東方約200mの台地上に後期末~晩期初頭の標式遺跡,御領(ごりよう)貝塚(熊本市)がある。阿高式系の後期前半の土器に南福寺式があるが,この標式遺跡が南福寺貝塚(水俣市)である。西平(にしびら)貝塚(八代郡氷川町)と三万田(みまんだ)遺跡(菊池市)はいずれも後期後半の代表的遺跡であり,この時期以降,遺跡の数,規模ともに増大する。弥生時代の遺跡では,板付式並行の地方的な弥生前期の土器に,斧様鉄器が伴出したことで知られる斉藤山(さいとやま)貝塚(玉名市)があり,中期では支石墓や積石墓の存在で注目される藤尾遺跡(菊池市)や環溝集落の二百数十戸のうちじつに1/3が焼失住居だった西弥護免遺跡(菊池郡大津町)などがある。下前原(しもまえばる)遺跡(玉名市)はベッド状遺構をもつ終末期の竪穴集落である。4世紀末の方形周溝墓群から高塚古墳への展開の様子が同一の台地上の数百基の墳墓群にみられるのが塚原古墳群(熊本市)である。前方後円墳では,4世紀末~5世紀前半とやや古式の向野田(むこうのだ)古墳(宇土市),銀象嵌銘のある大刀で有名な江田船山(えたふなやま)古墳(玉名郡和水町)がある。5世紀代後半の井寺古墳(上益城郡嘉島町),6世紀初頭の千金甲(せごんこう)第1号墳(熊本市),6世紀中葉のチブサン古墳(山鹿市),6世紀末の弁慶ヶ穴古墳(山鹿市)などはいずれも装飾古墳として著名である。もちろん6~7世紀になると,たとえば鍋田横穴墓群(山鹿市)のような横穴墓群も多くなっており,中には装飾のあるものも少なくない。
執筆者:

西南日本を内・外帯に分ける中央構造線の臼杵(うすき)-八代構造線が,県の中央を東西に走っている。この線の北側つまり内帯には,東部に阿蘇山,北部に筑肥(ちくひ)山地が横たわり,北西部に東,北,南の山地から流れる菊池川,白川,緑川,球磨(くま)川などの河川が,有明海沿岸に菊池(玉名)平野,熊本平野八代平野を形成し,菊池川中流域に菊鹿盆地が開けている。またこの構造線の南側つまり外帯にあたる地域は九州山地で,V字状の渓谷と険しい山々がそびえ,球磨川中流に人吉盆地を抱いている。本土から南西に突き出た宇土半島の南西方には八代海をはさんで天草諸島が浮かぶ。

 気候は複雑な地形を反映して地域的に変化があり,熊本地域は内陸的気候で,寒暑の差が比較的大きく,南部の九州山地は降水量の多い,やや冷涼な山岳気候を呈し,天草の沿海部はおだやかな海洋性気候で,海岸には亜熱帯植物がみられる。

古くは肥の国とも書かれた熊本県は農牧業が盛んで,全国有数の農業県である。幕末に大坂市場で高い評価をうけて以来の肥後米の産地で,明治維新後は赤牛の改良や養蚕の拡大にも努め,昭和の初め水田裏作の早出しスイカやカボチャが一時中央市場を圧倒したこともある。しかし第2次大戦前の農業は一般に水田地帯の米,麦,畑作地帯のサツマイモ,雑穀と自給的性格が強く,地主制の下,小作人などの零細経営が多く,県農業は停滞気味であった。戦後,農地改革,1961年の農業基本法以降,経済の高度成長の波に乗って,作目の選択的拡大が行われた結果,北西部の台地上では熊本市の旧植木町を中心としたスイカ,水田地帯の露地メロン,トマトなどの施設園芸,芦北町の旧田浦(たのうら)町を主産地とする甘夏ミカンなどが全国一の生産高をあげるまでに発展した。このほか金峰(きんぼう)山西麓など海岸傾斜地のウンシュウミカン,阿蘇原野の肉用牛,菊池地方を主とする酪農,山間部に増えてきた全国2位の栗などが盛んである。また水田冬作のイグサは,1964年まで岡山県が全国の首位を占めていたが,水島臨海工業地域の発展によって成り立たなくなったため,65年には熊本県が全国一となり,全国生産量の90%(1995)を超えるまでになった。これは1505年(永正2)以来の長い伝統のもとに八代平野を中心に広い面積でイグサと畳表の生産が農家の副業として導入され,水利などの基盤整備や機械化も進み栽培が定着したためで,いまや米に代わるこの地方の重要な現金収入源となっている。

 いま熊本県は働き盛りの男子専業者のいる農家を中心に,全国第5位の農業粗生産額を達成,農家1戸当り農業所得では北海道に次ぐ全国2位の農業県の地位を保持している(1995)。しかし,平野部に比べ阿蘇,球磨,天草など山間部や島嶼(とうしよ)部の農林業は不振で,最近鈍化したとはいえ,なお過疎化が続いている。林業は旧藩時代から植林が奨励された県北部の小国(おぐに)林業地に大分県の日田に続く杉の美林がみられ,また九州山地の広葉樹林はしだいに伐採され,杉,ヒノキなどの植林が進んでいる。近年木材価格は低迷し,林業経営は不振である。水産業は小規模な漁船による各種の沿岸漁業と牛深(うしぶか)港(天草下島)を基地とする沖合のアジ,イワシ,サバ漁を主とする。ほかに有明海のノリ養殖,大矢野島周辺のクルマエビ,天草を中心とした真珠,ブリ,タイ,トラフグの魚類養殖が盛んで,最近牛深を中心に栽培漁業の振興が図られている。天草下島では,旧藩時代から採掘されている陶石(天草陶石。産額全国一)が有名であり,原料のまま有田などの陶業地に移出されている。

明治に入っても中央市場から遠く,良港に恵まれないため工業の発達は遅れていた。1896年鹿児島本線が八代まで,次いで三角(みすみ)線,肥薩(ひさつ)線などが開通するにつれ,各地との交通が便利になり,産業活動も活発となった。明治中期から県下各地に製糸,八代にセメント,製紙,醸造,人絹,水俣(みなまた)に化学など中央大手の近代工業が立地し,八代海沿岸の工業地区が形成された。第2次大戦後は1964年不知火(しらぬひ)・有明・大牟田新産都市が誕生し,その後長洲町地先の埋立地に日立造船有明工場とその関連企業が立地した。しかしその後のオイルショックや技術革新の波,発展途上国の進出に押され,八代,有明の臨海型工業の多くは,生産の縮小や業種の転換を余儀なくされた。一方,71年に福岡県~熊本市間の九州自動車道(95年全線開通)が開通し,熊本市東隣の菊陽町に新熊本空港が完成して,熊本は東京,大阪などと短時間に結ばれ,熊本市を中心とする空陸の交通網が整ってきた。2011年には九州新幹線鹿児島ルートが全線開通。県内に熊本・新八代・新水俣・出水の4駅がある。臨海型工業が不振の中で,1967-70年にかけてIC(集積回路)生産を中心とする電気機器など付加価値の高い工業が内陸や空港周辺に立地した。

 これまで県の工業は旧藩時代からの球磨焼酎などの食料品,木材,セメントなど地場の軽工業が主軸をなしてきたが,82年を境に電機,輸送などの加工組立産業を中心とした重化学工業が,県全体の工業出荷額の半ばをこえるようになり,構造的に大きな変化をきたした。このため県の出荷額はこの10年間に全国平均を上回る伸びを示して,2.56兆円(1995)に達した。こうした情勢を受けて,熊本空港周辺のテクノポリス(技術集積都市)に続き,その北方の合志台地に第2テクノポリスが建設中である。

東に阿蘇,西に雲仙天草という山と海の国立公園をはじめ,九州中央山地国定公園のほか,市房山,金峰山,芦北海岸など七つの県立自然公園があり,これらの自然公園面積は県面積の約2割を占めている。阿蘇地域は世界最大級のカルデラを抱く活火山阿蘇山をはじめ温泉も多く,天草地域は天草五橋やキリシタン殉教にまつわる多くの史跡やリアス海岸の島嶼景観に特色がある。別府~阿蘇~熊本~長崎の国際観光ルートを中軸に観光客が多く,九州中央山地は渓谷と原生林,山岳美で近年人気を集めている。その他特別史跡の熊本城,史跡・名勝の水前寺公園,菊池川流域の古墳と温泉群,鎌倉時代の史跡が多い人吉,球磨など観光資源に恵まれている。

熊本県の地形,歴史的背景,経済活動などから5地域に区分される。

(1)熊本地域 県面積の1/3足らずの地域に県民の約65%が居住し,人口密度も県平均の2倍以上と高く,県民活動の中枢地域である。熊本地域は熊本市を中核に古代から肥後国の政治,経済,交通,文化の中心地であった。近年交通網が整備され,熊本市周辺の市町村は,通勤,通学,買物などで熊本市と密接な関係にある。1970年代から熊本市とその周辺に臨空港型の先端技術産業が相ついで進出し,シリコン・アイランドといわれる九州でも重要な地位を占めるようになった。このように産業活動も活発で,熊本市周辺では急激に人口が増加している。熊本平野を控える背後農村では,メロン,スイカ,ナスなどの施設園芸や酪農が盛んである。荒尾市は大牟田市に隣接して工業が存し,菊池川流域の菊池,山鹿,玉名は温泉と史跡に恵まれ,宇土市は熊本市のベッドタウン化がすすんでいる。

(2)阿蘇地域 阿蘇山を主体とするほぼ阿蘇市,阿蘇郡の範囲。阿蘇谷東部の阿蘇市の旧一の宮町付近は先史時代,古墳時代の遺跡の多いところで,県内最大の長目塚古墳がある。中世,阿蘇氏は阿蘇開拓の祖神健磐竜命をまつる阿蘇神社の神威を利用し肥後国に強い勢力をもっていた。この地方にはいまなお古代の神話や伝承にまつわる神事や祭りが残っている。地域北部に南小国郷(黒川,満願寺),中部に阿蘇内牧,湯ノ谷,南阿蘇に垂玉,地獄のほか白水,下田など多くの温泉があるが,産業の基盤はカルデラ内の水田と火山すそ野,高原を利用した畜産にある。

(3)八代地域 八代海(不知火海)に面する地域で,北部の八代市西部を中心とする八代平野と南部のリアス海岸の芦北・水俣地区に分かれる。球磨川下流に発達した八代市は中世から近世の城下町であるが,明治中期以後セメント,製紙,酒造など大企業が立地して,県内では熊本市に次いで工業が盛んである。全面積の約1/2が干拓地の八代平野では旧藩時代からの水利が整い,イグサ,畳表のほか促成野菜栽培が盛んである。沿海の一寒村であった水俣市は明治後期新日本窒素肥料(現,チッソ)の進出で化学工業が盛んになったが,公害病に認定された水俣病の発生で大きな社会問題となった。芦北海岸一帯は田浦町を中心に甘夏ミカンの栽培が盛んである。背後の農山漁村ではなお人口減少が進んでいる。

(4)人吉地域 九州山地の主要部と人吉盆地からなる。人吉盆地の中心にある人吉市は鎌倉時代以来の古い城下町で,焼酎,木材,茶,栗を産するほか,近年電気機器などの進出がみられる。奥地に平家落人伝説をもつ五家荘や九州第2の規模の川辺川ダム建設計画のある五木村がある。球磨川下りは人吉温泉,球泉洞とともに人吉観光の中心をなしている。

(5)天草地域 天草諸島一帯を行政区域とする天草市,上天草市,天草郡の範囲。その中心は天草市の旧本渡(ほんど)市で,天草下島南端の天草市の旧牛深市は沖合漁業の根拠地をなす。長崎県に近く旧城下町富岡のある苓北(れいほく)町には火力発電所が建設された。下島西海岸の陶石,御所浦島のタイ,トラフグ,大矢野島のクルマエビ,各地の真珠養殖,かんきつ類が知られる。観光地として天草松島や下田温泉,大江,崎津の天主堂がある。
執筆者:


熊本[市] (くまもと)

九州のほぼ中央,有明海に面する熊本県の県庁所在地。2008年10月旧熊本市が富合(とみあい)町を編入して成立し,10年3月植木(うえき),城南(じようなん)の2町を編入した。人口73万4474(2010)。12年4月に政令指定都市となり,中央・東・西・南・北の5区を置いた。

熊本市北部の旧町。旧鹿本(かもと)郡所属。人口3万0772(2005)。金峰山地北東縁にあたる南西部を除くと,大部分は台地によって占められ,北東部を北流する合志川沿いに沖積地が開ける。国道3号線と208号線との分岐点にある中心市街の植木は江戸時代,豊前街道の宿駅で,かぎ状に発達した通りと土蔵造の建物にそのおもかげをしのばせる。農業が中心で,米,スイカ,メロン,イチゴなどの施設園芸,ミカンなどの栽培が盛んで,とくにスイカは県下一の産地である。鹿児島本線が通じ,九州縦貫自動車道の植木インターチェンジがあるため旧熊本市への通勤者が増え,人口も増加傾向にある。西部にある田原坂は西南戦争の古戦場で,現在は頂上一帯が公園になっている。町の北部に平島温泉(単純泉,45~52℃),宮原(みやばる)温泉(単純炭酸鉄泉,15℃)がある。
執筆者:

熊本市の大部分を占める旧市で,県庁所在都市。1889年市制。人口66万9603(2005)。1991年飽託(ほうたく)郡の飽田(あきた),河内,天明,北部の4町を編入した。県の政治,経済,交通,文化の中心都市。熊本平野の中心にあって白川が貫流し,東部は阿蘇山麓に続く洪積台地,北西部に金峰(きんぽう)山がそびえ,緑と湧水に恵まれている。8世紀中ごろ東部の出水(いずみ)地区に肥後の国府,国分寺が置かれ,その後南部の二本木に国府が移り,ここが数世紀にわたって肥後の中心となった。17世紀の初め加藤清正が築いた熊本城の城下町が市発展の基礎となり,その後細川氏54万石の城下町として栄えた。細川家に仕えた宮本武蔵は,金峰山の西,岩戸観音の霊巌洞に参禅し,《五輪書》を著した。やや遅れ出水に桃山式の回遊庭園である水前寺成趣(じようじゆ)園(水前寺公園)が完成した。1877年の西南戦争で市街の大半は焼失したが,九州の中央に位置するため熊本鎮台,電信局など中央の出先機関が集まり,第五高等学校のほか,医学,薬学,工学などの高等教育機関も多かった。明治中期九州の文教の中心ともなり,熊本には当時夏目漱石,小泉八雲,徳富蘇峰などが住んでいた。明治後期から九州の中心は福岡市に移ったが,いまなお農林,郵政,通信など,中央の出先機関や国立熊本大学をはじめとする教育機関,各種の研究機関が集まっている。

 産業別人口では,商業,サービス業などの第3次産業が全体の77%(1990)を占め,消費都市の性格が強い。また工業も消費財関係の食品,出版・印刷などから,最近電気機器が伸び,市の製造品出荷額の46%(1995)を占めている。また,九州陸上交通の十字路に当たり,1891年九州鉄道(現,鹿児島本線)が熊本まで通じ,北九州,中央との交通が便利となった。さらに1928年には九州を横断する豊肥本線が開通した。市内に国道3号,57号線,東部に九州自動車道が通じている。71年東隣の菊陽町に新熊本空港ができ,熊本~東京間が約1.5時間で結ばれる。2011年には九州新幹線熊本駅が開業した。市内には,1960年に復元された熊本城天主閣,清正をまつる本妙寺,細川ガラシャ夫人の眠る泰勝寺など名勝・史跡が多い。
執筆者:

肥後国の城下町。〈隈本(くまもと)〉の地名の初見は1377年(天授3・永和3)で,茶臼山の一隅に隈本城が構築されたが,南北朝期には政治の中心は守護菊池氏の本拠の隈府(わいふ)(菊池郡)にあり,隈本は古代以来の国府の地位を保ったにすぎない。15世紀後半菊池氏の一族出田三郎秀信が千葉城に居館を構え,ついで鹿子木(かのこぎ)親貞が古城に本拠を置くようになると,宮内,新町,古京町に小規模な城下町が形成されたという。以後隈本城は近接する藤崎宮とともに隈本町の中核となり,鹿子木,城氏など有力武将の居城となった。1587年(天正15)豊臣秀吉による九州統一の結果,肥後は佐々成政に与えられ,成政は隈本城(古城)の城主となったが,国衆一揆を引き起こして1年で失脚,代わって加藤清正が入城した。清正は城下町の建設に取りかかり,白川と坪井川の間に一町一寺制の整然とした碁盤目状の街区を設計し,古府中から商人を移住させたという。これが古町である。1607年(慶長12)新しく熊本城が完成し,この時隈本を熊本に改めたという。新町は熊本城の大手門正面から古町を結ぶ大通り(新一丁目,二丁目,三丁目)を中心とする新しい街で,碁盤目状の古町とは異なる構造を示している。熊本町は新一丁目札の辻を起点として,南北に薩摩街道,豊前街道,東へ豊後街道,南東へ日向街道が伸び,外港川尻からは海路が開け,地理的にも肥後国の中心に位置する。城下町の構成は,熊本城をとり囲んで侍屋敷町として府中小路東西22町,南北33町57間が設けられ,町人の町として,新町筋4懸(かかり)(町支配の単位)12町,古町筋6懸50町,坪井町筋2懸18町,京町筋4懸7町があった。町人の町では細工町,魚屋町,米屋町,呉服町,紺屋町,唐人町など職名を町名とするものも多く,成立期には同業者が集住したものであろうが,近世中期には集住の実態は見られなくなった。熊本町の支配は藩庁奉行所の町方奉行が町奉行を兼任した。新三丁目に町会所が設けられ,惣町別当,町別当らが出勤して町政を担当した。町別当は一懸に2,3人から4,5人,丁頭は丁ごとに1人,そのほかに町見締(みかじめ),肝煎,物書などが置かれていた。1750年(寛延3)ころの熊本町は16懸86町,町別当36人,戸数3368戸,人口1万9939人,造酒屋94軒であった。1879年熊本区とする。戸数1万0938戸,人口4万2390人で西南戦争前の1万1459戸,人口5万0456人から若干減少した。
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熊本市南端の旧町。旧下益城(しもましき)郡所属。1955年隈庄(くまのしよう)町と杉上・豊田両村が合体,改称。人口1万9641(2005)。熊本平野南部,緑川左岸に位置する。古くから開けた地で,南部の台地には縄文時代の阿高(あたか)貝塚御領貝塚(史),九州自動車道の塚原トンネル上には前期から後期への古墳の変遷が一つの台地上にみられる塚原古墳群(史)などがある。中心の隈庄は古代の球磨駅の所在地に比定される交通の要地で,中世には隈庄城が築かれた。陳内(じんない)には白鳳期に創建され,肥後最古の寺院跡とされる陳内廃寺がある。主産業は農業で,米作,野菜・植木の栽培,畜産が盛ん。隈庄では清酒醸造も行われる。旧熊本市に近いため通勤者が多い。

熊本市南部の旧町。旧下益城郡所属。1971年町制。人口7962(2005)。北は緑川をはさんで旧熊本市,南は宇土市に接する。南東部の山地を除くと,熊本平野南西部の一角を形成する低地からなり,水害が多い。中央部を鹿児島本線,国道3号線が縦断する。主産業は農業で,米作のほか野菜,花卉の栽培,畜産などが盛ん。メロン,菊,カーネーションは東京,大阪方面へ出荷される。鎮西八郎為朝の伝説を伝える南東の木原山(雁回(がんかい)山)は森林公園となっており,山麓の木原には,火渡り神事で知られる木原不動尊や室町末期の楼門(重要文化財)を有する六殿(ろくでん)神社などがある。
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